安藤守就といえば、美濃の実力者「西美濃三人衆」の一人として知られる武将です。
織田信長の美濃制圧に大きく貢献しながら、晩年には突如として追放されてしまいました。
この記事では、
- 安藤守就が信長に追放された理由とその背景
- 追放後のその後
- 守就の娘たちが紡いだ織田・豊臣時代との繋がり
についてご紹介します。
安藤守就が信長に追放された理由
安藤守就は、土岐氏・斎藤氏・織田氏と主君を渡り歩いた武将です。
乱世をしたたかに生き抜いた実力者でした。
しかし天正8年(1580)、長年仕えた信長から突然の追放を言い渡されます。
なぜ、これほどの重臣が放逐されたのでしょうか。
なぜ?突如かけられた嫌疑
天正8年(1580)8月のことです。信長は突如として重臣・佐久間親子を追放。
続いて林秀貞・丹羽氏勝とともに、守就と息子の安藤尚就にも追放を言い渡しました。
表向きの理由は「信長が苦戦していた時代に、密かに野心を抱いていた」というもの。
実に曖昧な理由でした。
ひと言でいえば「忠誠心への疑い」です。しかし追放当時、守就はすでに70代後半。
今さら反旗を翻せる立場ではありませんでした。
武田信玄への内通疑惑
追放の背景として、史料には別の記述も残っています。
史料『当代記』によれば、天正元年(1573)ごろに守就が武田氏と内通していたことが原因とされています。
ただし、随分と過去の話を今さら持ち出すのは「言いがかり」的だという指摘もあります。
また別の史料では、子の安藤尚就が武田信玄に通じたことが決定的だったとも伝わっています。
「守就本人の内通」なのか「息子の内通」なのか。
史料によって食い違っており、真相は一致していません。
追放の根拠とされた事件が本当の主因だったかどうかも、歴史的には不明確なままです。
織田信長による大規模粛清
この追放は、守就一人の話ではありませんでした。
林秀貞・佐久間信盛ら複数の重臣が同時期に一斉に追放されています。
「働きの悪い重臣たちのリストラ」だったという見方もあります。
また一説では、信長は娘婿・竹中半兵衛の妻の父という立場ゆえに守就を生かし続けていたが、半兵衛が前年に36歳で病死したため、追放に踏み切ったとも考えられています。
信長は即断・即決のイメージとは裏腹に、かなり計算高い面もあったようです。
守就の追放は、この大規模な粛清劇の一幕でした。
安藤守就のその後の足跡と最後
追放されても、守就の物語はここで終わりません。
晩年に訪れたある出来事が、守就を再び歴史の表舞台へ引き戻すことになります。
北方城を没収されたその後
追放とともに、居城だった北方城(岐阜県本巣郡北方町)は信長配下の稲葉良通(一鉄)に与えられました。
守就自身は、かつての同僚・稲葉一鉄の預かりとなります。
安藤氏の旧領は、すべて稲葉氏の支配下に置かれることになりました。
かつて肩を並べて戦った盟友のもとに預けられる。乱世とはいえ、複雑な境遇ですね。
本能寺の変に乗じた挙兵
そしてついに、守就にとって最後の機会が訪れます。
天正10年(1582)6月2日、本能寺の変が起きました。
明智光秀の謀反によって信長が横死したのです。
守就はこれを好機と見て、嫡男の安藤郷良(定治)と共に挙兵。かつての居城・北方城へ攻めかかりました。
追放から2年。守就は最後の賭けに出たのです。
かつての盟友に敗れた最後
しかし運命は、守就に味方しませんでした。
北方城に攻め込み、一時は占拠する勢いを見せました。しかし稲葉良通(一鉄)の攻撃を受けて敗北。
同年6月8日、守就は一族ともども自害して果てました。
享年は80とされています(『稲葉家譜』)が、正確な生年は不明です。
本能寺の変からわずか6日後のことでした。
美濃三人衆の仲間だった稲葉一鉄の手によって、安藤守就の生涯は幕を閉じたのです。
安藤守就の娘と織田家の繋がり

守就を語るうえで欠かせない視点があります。
娘たちを通じて形成された、広大な人脈です。
守就は複数の娘を各地の有力者へ嫁がせ、美濃の乱世を生き抜く礎を築いていました。
稲葉一鉄との知られざる縁戚
まず注目したいのが、稲葉良通(一鉄)との関係です。
守就の母は、稲葉一鉄の伯母だったとされています。
つまり守就と一鉄は、もともと縁戚関係にありました。
稲葉一鉄は美濃三人衆の中でも信長から特に優遇された存在。一鉄の嫡男の妻が信長の妹にあたるという姻戚関係も持っていました。
美濃三人衆の中で最後まで生き延びたのが稲葉一鉄です。
守就が頼もしい縁戚と見ていたであろう一鉄に、最後は討たれる形になった。戦国の無情さが滲みます。
竹中半兵衛の妻となった娘
守就の娘の中で、最もよく知られているのが竹中半兵衛(重治)の妻となった人物です。
永禄5年(1562)、竹中半兵衛が家督を継ぐと、同年に守就の娘・阿古姫と結婚しました。
半兵衛は生涯、側室を持たなかったと伝わります。
この結婚は美濃国内の勢力争いを見据えた政略結婚であり、軍事同盟でもありました。
娘婿・半兵衛との信頼関係は、後の大きな行動にもつながります。
永禄7年(1564)、守就と半兵衛は連携して稲葉山城を奇襲。舅と娘婿が共に動いた、大胆な作戦でした。
なお、2026年NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、守就の娘が秀長(小一郎)の妻として登場しています(演:吉岡里帆)。
ドラマのなかでも、守就の一族は重要な軸となっていますね。
⇒ 竹中半兵衛の妻・得月院とは?夫婦の逸話と子供たちの数奇な運命
一族の血脈を繋いだ女性たち
守就の血脈は、娘たちを通じてさらに広がりました。
三女は遠藤慶隆の正室となり、守就の妹は金森長近や西尾豊後守の室にもなっています。
さらに、幼かった子・可氏は後に山内一豊に仕え、姓を山内に改めながら明治時代まで家系を続けました。
守就の八男・郷忠も土佐藩士として系譜を保っています。
守就本人は悲劇的な最期を遂げました。
しかし一族の血は、複数のルートで後世へ引き継がれていったのです。
戦国の荒波を越えた、静かな生命力。
まとめ:安藤守就の生涯
この記事では、安藤守就が信長に追放された理由、その後の挙兵と最期、そして娘たちが紡いだ人脈について見てきました。
追放の理由は史料によっても一致しておらず、武田への内通疑惑という過去の話を持ち出された形でした。
信長の大規模な粛清の流れのなかで、守就はその波にのまれた一人だったといえます。
守就の娘たちは、竹中半兵衛や遠藤慶隆といった時代の要所へ嫁ぎ、安藤一族の影響力を静かに広げていきました。
守就が消えた後も、一族の血脈はさまざまなかたちで戦国・江戸の世を生き続けたのです。
2026年NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、田中哲司さんが守就を演じています。
豊臣兄弟!で守就の追放が描かれるのは第25回「変事の予兆」です。
守就のその後がどう描かれるのか楽しみですね。
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