広告 トピックス 豊臣兄弟!

清須会議をわかりやすく解説!場所と結果は?家康の不参加の理由も

清須会議は、織田信長が亡くなったあと、織田家の行く末を決めるために開かれた会議です。

誰が、どこで、何を決めたのか。

この記事では、

  • 清須会議が開かれた場所と参加した人たち
  • 跡継ぎや領地の分け方など、会議で決まったこと
  • 徳川家康が会議に出なかった理由
  • 会議のあとに起きた出来事
について、わかりやすくご紹介します。

清須会議をわかりやすく解説!誰が何を決めた?

清須会議で決まったことは、大きく分けて2つ。

まずは会議の基本から見ていきましょう。

そもそも清須会議とは?

清須会議は、1582年7月16日(天正10年6月27日)に開かれた話し合いです。

この年、本能寺の変という大事件が起こり、織田信長と長男の織田信忠が命を落としました。

  • 次のリーダーは誰にするか
  • 領地はどう分けるか

それを決めるために開かれたのが、清須会議です。

集まったのは、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興、羽柴秀吉の4人。

いずれも、信長に長く仕えてきた重臣たちでした。

場所はどこで行われた?

会議の舞台は、尾張国、今の愛知県清須市にあった清須城

清須城は、かつて織田信長が住んでいた城。

織田家にとって特別な場所でした。

なぜ会議を開いたの?

本能寺の変で、織田信長と織田信忠という2人のリーダーを同時に失ってしまったからです。

誰が跡を継ぐのか。

家臣たちにどの土地を渡すのか。

早く決めなければならなかったのです。

清須会議の結果はどうなった?秀吉の勝利?

会議の結果は、

「跡継ぎ」「領地の分け方」「ある人物の結婚」

の3つに分けると、ぐっとわかりやすくなります。

なぜ信雄・信孝ではなかったのか?

本来なら、後継ぎの筆頭候補は信長の次男・織田信雄のはずでした。

しかし織田信雄は、1579年に無断で伊賀国に攻め込んで大敗。

信長から「親子の縁を切る」とまで厳しく叱られた過去があり、家中での評判は芳しくありませんでした。

山崎の戦いで秀吉が明智光秀を討った際にも参加しておらず、軍功の面でも三男・織田信孝に見劣りしていたのです。

そこで、柴田勝家が推したのは三男・織田信孝でした。

一方、羽柴秀吉が推したのは、亡くなった織田信忠の子ども・三法師です。

後継者は3歳の三法師に

池田恒興と丹羽長秀も秀吉に賛成し、三法師が跡継ぎに決定

まだ3歳の幼子でした。

決め手となったのは、「家督は嫡流が継ぐべき」という考え方。

信長の直系である織田信忠の子・三法師が継ぐことに、織田信雄・織田信孝を含めて異論は出ませんでした。

もめたのは、幼い三法師を後見する「名代」を誰にするかという点です。

織田信雄・織田信孝ともに譲らなかったため、宿老たちは名代を置かず、4人で三法師を支える体制に落ち着きました。

そのあと三法師は大人になる儀式を終え、織田秀信と名乗ります。

13歳で岐阜城の城主に。

しかし1600年の関ヶ原の戦いでは負けた側につき、岐阜城に立てこもりました。

敵に攻められて城を明け渡し、お坊さんとなって高野山へ。

1605年、26歳でこの世を去りました。

勝家と秀吉の領地配分

織田信雄は尾張国、織田信孝は美濃国を手にしました。

秀吉の養子・羽柴秀勝は丹波国を継ぎます。

柴田勝家は、もとの越前国に加えて、秀吉の旧領・近江国北部と長浜城を獲得。

羽柴秀吉自身は山城国と河内国が新たに加わり、もとの播磨国・但馬国と合わせて28万石もの領地増となりました。

お市の方と勝家の再婚

清須会議のあと、織田信長の妹・お市の方は柴田勝家と結婚します。

この結婚、間に入ったのは羽柴秀吉だったという説が有力です。

三法師を跡継ぎに選び、力を強めた秀吉。

不満を抱く柴田勝家の機嫌をとろうとしたのではないか、と考えられています。

清須会議に家康は参加した?その立ち位置は

清須会議の話に、徳川家康の名前は出てきません。

不思議に思う人も多いのではないでしょうか。

家康が不参加だった理由

清須会議に、徳川家康は出席していません。

誘われていたのかどうかもはっきりしませんが、大きな理由は本能寺の変後の関東情勢です。

武田氏の旧領・甲斐国をめぐって上杉氏や北条氏が動き出したため、徳川家康は軍を率いて対応せざるを得なかったのです。

秀吉の決定を認めた家康

徳川家康は、織田信雄・織田信孝とともに、清須会議の決定に従うという誓いの文書を交わしたとされています。

会議には出なくても、決定事項には異を唱えませんでした。

会議後の家康の動きは?

清須会議のわずか5日後、7月2日。

徳川家康は浜松城を出陣し、甲斐国・信濃国へと軍を進めます。

同じころ、北条氏や上杉氏もこの地に攻め込み、3つの勢力による争い、天正壬午の乱が勃発。

10月に北条氏と和睦が成立し、信濃国佐久郡と甲斐国都留郡を獲得した徳川家康は、三河・遠江・駿河に甲斐・信濃を加えた、一大勢力へと成長しました。

羽柴秀吉と柴田勝家の対立が深まるなか、徳川家康は織田信雄との結び付きを強めていきます。

その先にあったのが、小牧・長久手の戦いです。

清須会議のその後の影響と歴史の結末

清須会議で芽生えた対立は、そのあとの歴史を大きく動かすことになります。

秀吉と勝家の対立激化

清須会議で三法師を跡継ぎに選んだことで、羽柴秀吉の発言力は一気に高まりました。

この結果に不満を抱いた柴田勝家との溝は深まる一方。

両者の対立は、もはや避けられないものとなっていきます。

賤ヶ岳の戦いで勝家自害

1583年4月、羽柴秀吉と柴田勝家は近江国の賤ヶ岳で激突します。

機動力に勝る羽柴秀吉の軍が柴田勝家の軍を撃破。

柴田勝家は居城・北ノ庄城へと退却しました。

そして、妻・お市の方とともに自害

悲劇的な最期でした。

秀吉の天下取りが加速

柴田勝家の死により、羽柴秀吉に対抗できる有力な家臣はいなくなりました。

清須会議から始まった一連の流れは、羽柴秀吉が天下人へと駆け上がる大きな一歩となったのです。

まとめ

以上、清須会議についてご紹介しました。

織田信長亡きあとの跡継ぎ争いと領地の分け方を決めたこの会議は、羽柴秀吉が天下を治めるようになるきっかけでもありました。

清須会議での駆け引きは、大河ドラマ「豊臣兄弟!」でも見どころのひとつです。

⇒ 豊臣兄弟!第30話「清須会議」

こちらもCHECK

-トピックス, 豊臣兄弟!

error: Content is protected.