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山崎の戦いの敗因|光秀はなぜ負けた?真実をわかりやすく解説

山崎の戦いは、明智光秀が織田信長を討った本能寺の変から、わずか11日後に起きた合戦です。

なぜ光秀は、あっけなく敗れてしまったのでしょうか。

この記事では、

  • 山崎の戦いで光秀が敗れた本当の理由
  • 合戦の舞台となった場所と現地に残る石碑
  • 秀吉の中国大返しにまつわる真実
  • 光秀の最期とその後の天下の行方
についてご紹介します。

山崎の戦いの敗因は?光秀はなぜ負けた?

光秀の敗因は、ひとつではありません。

兵力差、外交の失敗、そして秀吉の異例の速さ。

いくつもの誤算が重なり、明智軍は追い詰められていきました。

兵力差はなぜ生じた?

1582年6月13日、山崎の戦い当日。

秀吉軍は約4万人でした。

対する光秀軍は1万3000人から1万6000人ほど(諸説あり)。

兵力差は実に2倍から3倍もの差です。

光秀は本能寺の変のあと、京都の治安維持と近江の平定に兵を割きました。

織田軍最大の実力者、柴田勝家への備えも欠かせなかったからです。

結果、山崎に集められる兵力は限られてしまいました。

一方の秀吉は、中国攻めのために信長から預かった主力、約2万人をそのまま率いていました。

畿内の武将も次々と合流。

あっという間に4万の大軍へと膨れ上がったのです。

毛利の動向と秀吉の罠

本能寺の変が起きたとき、秀吉は備中高松城(岡山県)で毛利輝元と対峙中でした。

水攻めで城を追い詰めていた、まさにその最中です。

信長の死を知るや、秀吉はただちに毛利側と講和。

城主・清水宗治の切腹と引き換えに、和睦を成立させました。

毛利軍の撤退を見届けたうえで、京都へと動き出したのです。

情報戦も抜かりありません。

摂津の武将・中川清秀には「信長・信忠父子は無事に近江へ逃れた」という偽情報を流布。

畿内の武将が光秀側につくことを、巧みに防いだといわれます。

細川や筒井はなぜ不参加?

光秀にとって最大の誤算。

それは、頼みの武将たちの離反でした。

娘婿の父・細川藤孝と、その息子・細川忠興には、再三書状を送りました。

摂津国と若狭国を与えるという条件まで提示したのです。

しかし細川親子はマゲを切り、信長への哀悼を表明。

光秀との関係を、きっぱりと断ち切りました。

光秀の娘・玉(のちの細川ガラシャ)も幽閉されています。

筒井順慶も同じでした。

光秀の与力大名として、個人的にも親しい間柄だったといわれます。

光秀は洞ヶ峠まで出向いて出陣を求めましたが、順慶は姿を見せません。

実際は、ひそかに秀吉側へ寝返り、居城で籠城の準備を進めていたのです。

この故事が「洞ヶ峠を決め込む」という言葉の由来になりました。

山崎の戦いの場所はどこ?

続いて、合戦の舞台となった山崎の地理と、現地に残る史跡を見ていきましょう。

なぜ天王山が舞台に?

山崎は、摂津国(現在の大阪府)と山城国(現在の京都府)の境。

今の京都府乙訓郡大山崎町にあたります。

この一帯は、天王山と淀川に挟まれた狭い隘路。

最も狭い場所では、幅がわずか200〜300メートルほどしかありません。

京都盆地への数少ない侵入口。

だからこそ、両軍がこの地を決戦の場に選んだのです。

「天王山を制する者が戦いを制する」とよく語られます。

しかし、山中で本格的な争奪戦があったかどうか、良質な史料には記されていません。

秀吉による「喧伝」の一種だったという見方もあります。

それでも「天王山」は、今なお勝敗を決する正念場を指す言葉として使われ続けています。

現地にある石碑はどこ?

天王山の中腹には、「山崎合戦之地」と刻まれた石碑があります。

京都府乙訓郡大山崎町、天王山への登山道沿い。

合戦の記憶を、今に伝える史跡です。

麓の山崎古戦場跡、光秀が本陣を置いたとされる御坊塚(現在の恵解山古墳付近)も見逃せません。

合戦の痕跡をたどれる、貴重なスポットです。

秀吉の遅参は真実?

「秀吉の遅参」という言葉を耳にすることがあります。

しかし、史実はむしろ正反対でした。

中国大返しはデマではない

備中高松城から山崎まで、約200キロ。

これをわずか10日ほどで踏破した強行軍が「中国大返し」です。

通説では、秀吉は6月6日に備中高松城を出発。

沼城、姫路城、明石、兵庫、尼崎、富田を経て、6月13日に山崎へ到着したとされます。

備中高松城から姫路城までの約92キロを、2万の軍勢を率いてわずか2日で走破

まさに驚異の速さです。

あまりの速さゆえ、「誇張ではないか」と疑われることもあります。

出発日を6月4日や5日とする書状も残っており、細部には諸説あり。

それでも、大軍を率いて短期間で畿内へ戻ったこと自体は、複数の一次史料が裏づける史実です。

詳しく紐解く最新の史実

「秀吉の遅参」というイメージとは正反対。

光秀にとっての誤算は、秀吉が想定よりずっと早く到着したことでした。

光秀は6月10日ごろまでに秀吉軍接近の報を受け、淀城と勝竜寺城の修築を急ぎます。

男山に置いていた兵も撤収し、迎撃態勢を整えようとしました。

しかし準備が整わないうちに、秀吉軍は6月12日に富田(現在の大阪府高槻市)へ進出。

13日には山崎で激突することになったのです。

つまり「秀吉が遅れて間に合わなかった」という話は史実ではありません。

むしろ秀吉の異例の速さこそが、光秀を追い詰めた最大の要因のひとつだったのです。

山崎の戦いのその後は?

合戦に敗れた光秀は、その後どうなったのでしょうか。

天下の行方は、どう動いたのでしょうか。

光秀の最期はどうなった?

1582年6月13日午後、両軍は円明寺川(現在の小泉川)を挟んで激突しました。

当初は互角に見えた明智軍。

しかし池田恒興らの奇襲で側面を突かれると、戦局は一気に秀吉方へ傾きます。

同日中に、明智軍は総崩れとなりました。

光秀は戦線後方の勝竜寺城へ退却。

しかし平城の勝竜寺城では、大軍を防ぎきれません。

夜陰に乗じて、居城の坂本城を目指しました。

ところが道中の山科・小栗栖(現在の京都市山科区)で、土民の落ち武者狩りに遭遇。

深手を負った光秀は、家臣・溝尾茂朝の介錯を受けて自害したと伝えられています。

本能寺の変から、山崎の戦いでの最期まで。

わずか11日から12日間でした。

これが「三日天下」という言葉の由来です。

⇒ 明智光秀の最期と死因は?誰に殺された?

天下はどう動いた?

主君・信長の仇を討った秀吉。

山崎の戦いの勝利によって、織田家中で一気に発言力を強めます。

合戦から約2週間後の6月27日、織田家の後継者を決める清洲会議が開催。

秀吉は信長の孫・三法師を後継に擁立し、事実上の後継者としての地位を固めていきました。

その後、織田家筆頭家老の柴田勝家との対立が深まり、両者は賤ヶ岳の戦いで激突。

これに勝利した秀吉は、天下統一への道を大きく前進させることになったのです。

まとめ

以上、山崎の戦いにおける光秀の敗因についてご紹介しました。

兵力差だけではありません。

細川や筒井といった頼みの綱の離反、そして秀吉の常識外れの速さ。

いくつもの要因が重なり、光秀は追い詰められていったのです。

もし細川や筒井が味方についていたら、歴史は違う結末を迎えていたかもしれませんね。

大河ドラマ「豊臣兄弟!」でも、本能寺の変から山崎の戦いにかけての緊迫した攻防は大きな見どころのひとつです。

光秀と秀吉、それぞれの視点から合戦を見比べてみるのも面白いのではないでしょうか。

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