本能寺の変で主君・織田信長を討った明智光秀。
しかしその後の光秀の末路は、あまりにもあっけないものでした。
この記事では、
- 山崎の戦いで秀吉に敗れた経緯
- 小栗栖で落ち武者狩りに遭った最期の詳細
- 死亡時の年齢をめぐる謎
- 光秀の首がどこへ消えたか
- 織田信長との関係と信頼の深さ
についてご紹介します。
明智光秀は誰に殺された?
天下人・信長を討った武将の末路とは、どのようなものだったのでしょうか。
まずは山崎の戦いから、最期の瞬間までを順に追っていきましょう。
秀吉に敗れた山崎の戦い
本能寺の変は天正10年(1582年)6月2日のことです。
報を受けた羽柴秀吉は、毛利軍と急いで和睦を結びます。そして大軍を率いて京へ引き返しました。「中国大返し」です。
変からわずか11日後の6月13日。
両軍は現在の京都府大山崎町付近で激突します。後に「山崎の戦い」と呼ばれる戦い。
決着はわずか約3時間でつきました。
戦力差は歴然でした。秀吉側の兵力が約3万5千人だったのに対し、光秀の実働兵力は各城への配置もあって1万人程度。
戦いが始まると、明智軍最大勢力の斎藤利三隊がたちまち包囲されて敗走しました。
敗れた光秀はまず勝竜寺城(京都府長岡京市)へ退きます。
しかし小さな平城です。秀吉の大軍を防げる規模ではありません。
その夜、光秀は少数の近臣だけを連れて城を抜け出しました。目指したのは、妻子のいる坂本城でした。
小栗栖の落ち武者狩り
坂本城を目指して夜道を逃げる光秀一行。
現在の京都市伏見区小栗栖(おぐるす)付近の竹やぶにさしかかったとき、突然、農民たちに襲われます。落ち武者狩りでした。
致命傷の状況は、史料によって少し異なります。
『太田牛一旧記』によれば、光秀ら十数騎が田の細道を移動中、小やぶから百姓の「さびた槍」で腰骨を突き刺されたとされます。
竹槍で刺されたとする伝承も広く知られています。
光秀を刺した人物の名前は、江戸時代の随筆に「中村長兵衛」「小栗栖の作右衛門」の2名が登場します。
ただし確実なことはわかりません。
当時、農民が武装して落ち武者を狙うことは珍しくありませんでした。
同じ頃、徳川家康の伊賀越えに同行した穴山梅雪も、土民に殺されています。光秀もその危険を承知の上で、夜道を逃げていたはずです。
自害を助けた家臣の介錯
竹槍で致命傷を負った光秀は、もはや助からないと悟ります。
『太田牛一旧記』などによれば、
光秀は最期に
「自分の首を守護の格式を表す毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)に包んで、知恩院に届けてくれ」
と言い残したとされます。そして股肱の臣・溝尾庄兵衛(茂朝)に介錯させ、自刃しました。
庄兵衛は光秀の首を鞍覆いに包んで竹やぶに隠し、坂本へ走った。
ただしこの地で庄兵衛自身もすぐ自刃したという伝承もあります。どちらが正しいかは、確認できません。
光秀が最期を迎えたこの場所は、のちに「明智藪(あけちやぶ)」と呼ばれました。現在は宅地化されていますが、石碑が残されています。
明智光秀の死因と最期の謎
光秀の最期については、確認できる事実と諸説に分かれる部分があります。
ここでは両者をはっきり区別してご紹介します。
死亡時の年齢は55歳か
光秀の死亡時の年齢は、実はよくわかっていません。複数の説があります。
最も知られているのは「享年55歳」説です。
根拠は、江戸時代の元禄年間(1688〜1704年)に成立した軍記物『明智軍記』に記された辞世の句。
「五十五年夢 覚来帰一元」の「五十五年」を根拠にしています。
ただしこの書物は光秀の没後120年以上が経ってから著されたもの。
専門家の間では「辞世の句も創作の可能性が高い」とされており、根拠としては弱いと言わざるをえません。
一方、史料的な信頼性が比較的高いとされる『当代記』(寛永年間成立)には「享年67歳」とあります。これに従うと生年は永正13年(1516年)。
本能寺の変のとき、信長より18歳も年上だったことになります。
さらに、江戸初期の学者・林鵞峰が編んだ『織田信長譜』には「享年57歳」という記述もあります。
整理すると
- 享年55歳:通説。ただし根拠は信頼性の低い軍記物(『明智軍記』)
- 享年57歳:江戸初期の学者の認識(『織田信長譜』)
- 享年67歳:史料的に比較的信頼できる説(『当代記』)
「55歳」はあくまで後世の軍記物に基づく推定です。正確な年齢は、現在でも確定していません。
どこへ消えた?光秀の首
庄兵衛が竹やぶに隠した光秀の首。その後、どうなったのでしょうか。
吉田兼見の日記『兼見卿記』によれば、首は百姓によって掘り出されます。
村井清三を経由して、信長の三男・織田信孝のもとへ届けられました。
まず本能寺の焼け跡にさらされます。
秀吉が書かせた『惟任退治記』によれば、首は他の首級とひとまとめにされ、検視の際に首の山の中から発見されたとあります。
それを確認した秀吉が、ようやく本望を遂げたと喜んだ様子が記されています。
6月17日には、光秀と斎藤利三の首と胴が繋ぎ合わされ、京都の粟田口にさらされました。
6月24日には同所の北に首塚も築かれています。
光秀の墓は、明智氏の菩提寺である滋賀県大津市の西教寺にあります。
妻の煕子らとともに、一族で祀られています。
岐阜県山県市には「桔梗塚」という伝説の地もあります。
討死したのは影武者で、本物の光秀はこの地に「荒深小五郎」と名を変えてひっそり暮らしたという言い伝えです。
現在も供養の祭りが行われているとのことですが、史実としての根拠はありません。
明智光秀と織田信長の関係
光秀の最期を知ると、ひとつの疑問が浮かびます。
なぜ光秀は、信長を討つに至ったのか。そもそも二人の関係は、どのようなものだったのでしょうか。
元々は仲良しだった?
明智光秀と織田信長の関係は、謀反のイメージから「険悪な主従」と思われがちです。
でも実際は、光秀は信長から絶大な信頼を受け続けた武将でした。
光秀がどのように信長と出会ったかを振り返りましょう。
光秀はもともと美濃の斎藤氏に仕えていましたが、斎藤道三の死後に流浪の身となります。
朝倉義景を頼って越前で約10年を過ごしました。
その後、室町幕府再興を目指す足利義昭の側近・細川藤孝とともに、織田信長への協力を求める使者を務めます。
これが光秀と信長の出会いとされています。
信長に仕えてからの出世は、異例の速さ。
新参でありながら、古参の佐久間信盛や柴田勝家、そして信長の寵臣だった羽柴秀吉をも差し置いて、織田家臣団で最初に城持ち大名になっています。
「比叡山焼き討ち」や「金ヶ崎の退き口」での殿(しんがり)など、危険で骨の折れる仕事を忠実にこなし続けた結果でした。
元亀2年(1571年)、比叡山焼き討ちへの貢献で坂本城を与えられます。
その後は丹波攻略を任されて福知山城も築城。
京都の政務・外交をも担う、織田家No.2の実力者へと成長しました。
信長との関係は、本能寺の変の直前まで良好だったとされています。
なぜ本能寺の変が起きたのか
これほどまで信長に信頼されていた光秀が、なぜ謀反に踏み切ったのか。怨恨説、野望説、四国問題説など、現在までに50以上の説が唱えられています。
しかし決定的な証拠はなく、真相は「不詳」のまま。戦国史上最大の謎のひとつです。
動機の詳細については、こちらの記事もあわせてご覧ください。
⇒明智光秀はなぜ裏切った?本能寺の変「四国説」と長宗我部元親の関係
まとめ:竹やぶに消えた天下人の夢
以上、明智光秀の最期についてご紹介してきました。
信長との関係は、謀反のイメージとは裏腹に、光秀は長年にわたって信長の厚い信頼を受け続けた筆頭家臣でした。だからこそ、なぜ謀反に踏み切ったのかという謎は、今も解かれないままです。
2026年NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、明智光秀を要潤さんが演じていますね。
本能寺の変までわずかなところまでストーリーが展開されています。
光秀の最期がどのように描かれるのか、そちらも楽しみですね。