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竹中半兵衛の妻・得月院とは?夫婦の逸話と子供たちの数奇な運命

竹中半兵衛といえば、豊臣秀吉を支えた天才軍師として名高い存在です。 しかしその妻・得月院については、あまり語られることがありません。

この記事では、

  • 半兵衛の妻・得月院の出身と素性
  • 側室を持たなかった半兵衛と妻の関係
  • 二人の間に生まれた子供たちのその後
  • 黒田家との命がけの絆
  • 現代まで続く竹中家の血脈

についてご紹介します。

竹中半兵衛の妻・得月院はどんな女性?

竹中半兵衛の妻は得月院。

得月院という名前を聞いたことはあっても、詳しい素性まで知る人は少ないでしょう。

実は得月院の出自は、戦国美濃の政治的な動きと深くつながっています。

得月院の出身は?安藤守就の娘

得月院は、西美濃三人衆のひとり・安藤守就の次女として生まれました。

西美濃三人衆とは、美濃斎藤氏の有力家臣だった稲葉良通・安藤守就・氏家直元の三名の総称。

後に織田信長にも仕えた、美濃を代表する実力者たちというわけです。

史料『美濃国諸家系譜』によると、半兵衛は永禄5年(1562年)に父を亡くした後、斎藤龍興に仕え、安藤守就の娘「阿古姫(とく)」と結婚したとされています。

「得月院」という名は没後に贈られた法名で、生前は「とく姫」などと呼ばれていたと考えられています。

得月院についての詳細は、残念ながらあまり伝わっていません。

父・安藤守就と夫・半兵衛の動向をたどることで、得月院が生きた時代と環境を読み解くことができます。

半兵衛は妻をどれほど大切にしたのか?

得月院と半兵衛の夫婦関係で、特に注目したい点があります。

半兵衛は側室を置かず、妻はこの得月院ただ一人だったのです。

側室を複数抱えることが当たり前だった時代に、これは珍しいですね。 政略結婚が出発点だったとしても、側室を娶らなかったという事実は、二人の間に確かな信頼関係があったことを示しています。

半兵衛は1573年(天正元年)に妻・得月院との間に嫡男・竹中重門をもうけています。

まだ30歳前後のころで、夫妻にとって待望の嫡男誕生でした。

夫を失った妻・得月院のその後

半兵衛は長くない命でした。

天正7年(1579年)、半兵衛は播州三木の陣中で36歳の若さで病没します。 残された妻・得月院と、まだ幼い重門の前途は、決して明るいものではありませんでした。

夫の死後、得月院の行動を直接示す史料は非常に乏しい状況です。

ただ、重門は成長後に半兵衛の墓を禅幢寺へ移し、菩提を弔っています。

その背景に、幼い重門を育て上げた妻・得月院の存在があったと考えるのは自然なことでしょう。

半兵衛の妻が育てた子供たちの運命

得月院が育てた子供たちは、その後どのような道をたどったのでしょうか。

妻と二人で育てた嫡男・竹中重門

半兵衛と妻・得月院の間に生まれた子供は、重門ただ一人

生涯一人の妻しか迎えなかった半兵衛らしい、一本筋の通った家族のかたちです。

父の早世後、重門は竹中家の全てを背負うことになります。

1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に付き、最終的には江戸幕府の旗本として6,000石を領しました。

父の名に恥じない判断力で、竹中家の存続を確かなものにしたわけです。

黒田家との絆を生んだ松寿丸の助命

竹中家と黒田家の間には、命がけで結ばれた特別な絆があります。

天正6年(1578年)、黒田官兵衛が有岡城に幽閉された際、織田信長はその息子・松寿丸を殺すよう秀吉に命じました。

しかし半兵衛は信長の命に背き、松寿丸を密かに垂井町に匿ったのです。

官兵衛が無事救出され、松寿丸が生きていたことを知った秀吉は胸をなでおろしたといいます。

しかし半兵衛は、すでにこの世を去った後でした。

この恩義は子の代まで続きます。

黒田長政(松寿丸)は重門の次男・竹中重次をもらい受けて育て、のちに福岡藩士として登用しています。

半兵衛と官兵衛の絆は、親から子へとしっかり受け継がれていったのです。

2026年放送中のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、竹中半兵衛を菅田将暉さんが演じています。

この辺の出来事も大河ドラマの中でどんな風に描かれるのか楽しみです。

半兵衛の妻・得月院の眠る垂井町

得月院が嫁いだ竹中家の地盤は、岐阜県不破郡垂井町

垂井町岩手地区には、半兵衛の居城だった菩提山城跡をはじめ、墓所や陣屋跡など半兵衛ゆかりの史跡があります。

近くを訪れる機会があれば、立ち寄ってみるのもいいかもしれませんね。

曹洞宗の寺院・禅幢寺は、重門が半兵衛の墓を移して以来、竹中氏の菩提寺となっています。

境内には黒田官兵衛と黒田長政の二人の戒名が並んだ位牌も安置されており、二家の深い絆を今も伝えています。

半兵衛の肖像画は複数が現存しており、史料には

「その容貌、婦人の如し」

と記されています。

一方、妻・得月院の肖像画は現在のところ確認されていません。

記録は少ないながらも、得月院が残した最大の証は、竹中家の血脈そのものといえるでしょう。

半兵衛の子孫はどうなった?

得月院が育てた重門の血脈は、江戸時代を通じて旗本として続き、幕末・明治を経て現代まで受け継がれています。

現在の当主は18代目・竹中重男氏で、屋号「鶴屋半兵衛」を持つ人形師として活動されています。

子孫のその後については、こちらの記事で詳しく紹介しています。

竹中半兵衛の子孫の現在は?家系図から紐解く血脈と岩手城の運命

まとめ

得月院の記録は多くありません。

それでも、夫・半兵衛がなぜ側室を持たなかったのか、重門がどんな環境で育ったのかを知ると、大河ドラマ「豊臣兄弟!」を見る目も少し変わるかもしれませんね。

得月院自身は大河ドラマに登場しませんが、半兵衛の背景にこんな妻がいたと思いながら見ると、菅田将暉演じる半兵衛の人物像がより立体的に感じられるはずです。

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