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森蘭丸の家系図|父可成や兄長可ら兄弟と子孫の現在は?豊臣兄弟深堀り

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で「森乱」として描かれる森蘭丸。

18歳で本能寺に散った信長の小姓として名高い存在ですが、その一族の壮絶な歴史はあまり知られていません。

この記事では、

  • 父・森可成について
  • 兄・森長可が「鬼武蔵」と恐れられた理由
  • 蘭丸を含む6人兄弟がたどった数奇な運命
  • 森家の子孫の現在
についてご紹介します。

森蘭丸の家系図

森乱蘭丸の家系図

森蘭丸は美濃国(現在の岐阜県)出身の武将・森可成と妻えいの三男として生まれました。
本名は森成利(もりなりとし)

「蘭丸」という名は後世に広まった通称で、史料上は「乱(乱法師)」と呼ばれていたことが近年の研究で明らかになっています。

大河ドラマ「豊臣兄弟!」でも「森乱」という名で登場するのは、この史実を反映したものです。

父の可成、兄の長可、そして蘭丸本人。

森一族は、代々命を賭けて信長を守り続けた「織田家の盾」とも呼ぶべき一族です。

家系図を軸に、その壮絶な血脈を順にたどっていきましょう。

父の森可成は信長の古参

森蘭丸の父・森可成(もりよしなり)は、1523年(大永3年)に生まれた戦国武将です。

もともとは美濃の斎藤氏に仕えていましたが、のちに織田信長のもとへ。

信長より12歳年上の古参の部将として、若き日の信長を側近くで支え続けた人物です。

槍の名手として知られ、十文字槍を自在に操る武勇で「攻めの三左」と呼ばれました。

「三左」とは、可成の通称「三左衛門」から来ています。

1570年(元亀元年)、浅井・朝倉の連合軍が南下したとき、可成は約1,000の兵を率いて宇佐山城(現・滋賀県大津市)に籠城。

3万超の大軍を相手に奮戦しましたが、信長の弟・信治とともに戦死しました。
享年48歳。

信長はこの訃報を深く悲しみ、弔い合戦として比叡山延暦寺の焼き討ちを断行したとも伝わっています。

兄の森長可は鬼武蔵の猛将

可成の次男・森長可(もりながよし)は、1558年(永禄元年)の生まれです。

父と長兄が相次いで戦死したため、わずか13歳で森家の家督を継ぎました。

「鬼武蔵」の異名を持つ長可は、豪勇ぶりで知られた猛将。

初陣では27もの首級を挙げたと伝わり、「人間無骨」と銘打った十文字槍を愛用しました。

「この槍の前では骨などないも同然」という意味が込められた、いかにも長可らしい命名ですね。

1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いでは、豊臣秀吉方として参戦。

しかし徳川方の銃弾が額を貫き、享年27歳で壮絶な最期を遂げました。

出陣前に「城主になるな」「大役を担うな」という遺言状を残したことでも有名。

その言葉には一族のこれ以上の消耗を危ぶむ、切実な思いが垣間見えます。

豊臣兄弟にも通じる家系

大河ドラマ「豊臣兄弟!」は、豊臣秀吉とその弟・秀長を主軸にした物語です。
そこに登場する森乱(森蘭丸)もまた、兄弟や肉親とともに信長を支えた人物でした。

史実の森乱と5人の兄弟たち

 森乱蘭丸の家族構成

森成利(蘭丸)は6人兄弟の三男として育ちました。

父・可成と妻えいの間には男子6人、女子3人の計9人の子がいたとされています。

兄弟それぞれがどんな生涯を歩んだのか、順に見ていきましょう。

長兄の可隆は手筒山で戦死

長男・森可隆(もりよしたか)は、1570年(元亀元年)に越前の手筒山城攻めで戦死しました。

父・可成が宇佐山城で討ち死にしたのと同じ年のことです。

森家は一年のうちに父と長兄の二人を同時に失うという、あまりにも過酷な現実に直面しました。

この相次ぐ喪失が、次男・長可にわずか13歳での家督相続を強いることになります。

三男の成利がのちの森蘭丸

三男の森成利(蘭丸)は、1565年(永禄8年)に生まれました。

1577年(天正5年)、13歳のときに織田信長の小姓として仕え始めます。

弟の坊丸・力丸とともに信長のそばに仕えた成利は、やがて近習筆頭として信長の信頼を一身に集めるように。

小姓とは、主君の身辺警護や身の回りの世話にとどまらず、使者の取次・奏者・検使など多岐にわたる役職です。

成利はそのすべてを高水準でこなしたとされており、信長が「自慢の小姓」と周囲に語っていたという逸話も残っています。

なお、「蘭丸」という呼び名は通称であり、当時の史料には「乱(乱丸)」として登場します。

大河ドラマ「豊臣兄弟!」での表記「森乱」は、まさに史実に忠実な名前なのです。

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坊丸と力丸も本能寺で討死

四男の森坊丸(長隆)と五男の森力丸(長氏)も、兄・成利とともに信長の小姓を務めていました。

1582年(天正10年)6月2日、明智光秀による本能寺の変が勃発。

坊丸と力丸の二人は成利(蘭丸)とともに信長のそばで明智軍と戦い、壮絶な最期を遂げました。

森家は、この一夜にして三男・四男・五男の三兄弟を一度に失ったのです。

末弟の忠政が森家を繋ぐ

六男・森忠政(もりただまさ)は、6人兄弟のなかで唯一、本能寺の変を生き延びた人物です。

本能寺の変が起きた1582年時点で、忠政はまだ幼く、戦場には出ていませんでした。

忠政はその後、豊臣秀吉のもとで成長し、関ヶ原の戦い(1600年)後は徳川家康から美作国(現・岡山県北東部)において津山藩18万石の大名として認められました。

絶滅寸前だった森家の名跡を一手に担い、初代津山藩主として家を再興

歴史の荒波のなかで消えかけた一族の血を、末弟の忠政が繋ぎとめたのです。

森蘭丸の子孫の現在は?

森蘭丸の家系を語るうえで避けて通れないのが「子孫」の問題です。

本能寺で若くして散った蘭丸に子はいたのか。

そして現在に続く森家の血筋とは、いったい誰なのでしょうか。

本能寺で18歳にして討死

1582年(天正10年)6月2日の本能寺の変。

明智光秀率いる約1万3千の軍勢が、未明の本能寺を急襲しました。

信長のそばにいた森成利(蘭丸)は、弟の坊丸・力丸とともに奮戦しましたが、多勢に無勢。

享年18歳という若さでその短い生涯を閉じました。

蘭丸自身の直系子孫は不在

森成利(蘭丸)が18歳で討ち死にしたことを考えると、子をなす時間はほとんどなかったといえます。

現在のところ、森蘭丸の直系子孫にあたる人物は確認されていません。

本能寺の変は、蘭丸の血脈をそこで断ち切ってしまったと見られています。

現在へ続く津山藩主の血筋

蘭丸本人の直系子孫は不在でも、森家の血筋は現在まで続いています。

その担い手となったのが、末弟・森忠政の系譜です。

忠政はわずか15歳で家督を継ぎ、関ヶ原の戦いで家康方につくことで慶長8年(1603年)に美作津山藩18万6500石の大名となりました。

しかし後継問題が重なり、5代藩主の代に改易(藩のとりつぶし)に。

一族の支流が播磨赤穂藩2万石として家を保ち続け、明治維新後は華族(子爵家)に列せられました。

最盛期18万石の大藩が2万石に縮みながらも、忠政から続く森家の血はこうして現在へとつながっています。

まとめ:森一族が歩んだ壮絶な歴史

以上、森蘭丸の家系図についてご紹介しました。

父・可成が宇佐山で、長兄・可隆が手筒山で、次兄・長可が長久手で、そして蘭丸・坊丸・力丸の三兄弟が本能寺で――。

森一族は、信長のために命を捧げ続けた「壮絶な一族」でした。

末弟・忠政だけが生き延び、その血が現代まで受け継がれているというドラマもまた、歴史の深みを感じさせますね。

大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、こんな背景を持つ森乱がどのように描かれるのか、ぜひ注目してみてください。

本能寺の変が描かれるのは、豊臣兄弟!第27話です。

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