戦国時代、卓越した知略で羽柴秀吉の天下取りを支えた天才軍師、竹中半兵衛(重治)。
わずか36歳で亡くなっています。早すぎる死でした。
その血脈と家名がその後どうなったのか、意外と知られていません。
竹中半兵衛の子孫は現在、ご活躍されています。
現代へと繋がる子孫たちの足跡を、順番に見ていきましょう。
竹中半兵衛の子孫の現在とは?
天才軍師の血脈は、数百年を経て今も続いています。
18代当主が語る竹中家の子孫の現在
竹中家の子孫は現在、歴史を伝える文化の担い手として活動しています。
竹中半兵衛の子孫としていて活躍している18代当主の竹中重男さん。
家族とともに、明治期から続く古典人形制作(鶴屋半兵衛)の技を今に引き継いでいます。
妻の竹中温恵氏らとともに、竹中家の名を守り続けているのです。
現代も続く天才軍師の血脈
竹中半兵衛の血脈は、江戸、明治、そして令和の今にいたるまで、ずっと続いていました。
戦国の名将や軍師の家系が歴史から消えていくことは珍しくありませんでした。 そのなかで竹中家が現在まで続いているのは、歴史好きにはたまらない話です。
半兵衛の直系は旗本として存続
竹中半兵衛の直系子孫は、江戸時代に「交替寄合(こうたいよりあい)」という身分の旗本として続きました。
旗本でありながら大名と同じように参勤交代を行う、かなり格式の高い存在です。
美濃国(現在の岐阜県)の旧領を治め続け、徳川将軍家からも一目置かれる名家として、江戸幕府が終わるまでその地位を守りました。
竹中半兵衛の家系図と家族たち
さて、半兵衛が若くして亡くなったあと、残された家族はどう生きたのでしょうか。
妻や子供、そして黒田家との繋がりを見ていきましょう。
最愛の妻・得月院との絆
竹中半兵衛の正室は、美濃三人衆の一人・安藤守就の娘(法名は得月院)です。
稲葉山城をわずか16名で占拠したときも、斎藤家を離れて隠居していた時期も、ずっと半兵衛を支えていました。
半兵衛の活躍の裏には、得月院の存在があったんですね。
嫡男・竹中重門への世代交代
竹中半兵衛が三木合戦の陣中で亡くなったとき、嫡男の竹中重門はまだ7歳でした。
幼い重門を支えたのは、旗本となる竹中重光ら一族や、秀吉のもとでの養育です。
成長した重門は豊臣秀吉に仕え、小牧・長久手の戦いや小田原征伐で実績を積みました。 竹中家の家督を、きっちり守り切りました。
黒田長政との友情を繋いだ子供
竹中半兵衛といえば、処刑されそうになった黒田官兵衛の息子・松寿丸(のちの黒田長政)を匿って命を救った話が有名です。
その黒田長政と、嫡男の竹中重門(幼名は吉助)は、子供のころに岩手の地で一緒に遊んだ仲でした。
親世代の恩義が子供たちにもしっかり引き継がれていて、のちの重大な決断にも影響することになります。
竹中半兵衛の子孫と岩手城の歴史
竹中家の子孫たちが領地を守るために下した大きな決断。 居城の移転と、関ヶ原の戦いがその鍵になっています。
菩提山城から岩手城(陣屋)へ
もともと竹中家の居城は、山の上に建つ「菩提山城(ぼだいやまじょう)」でした。 ただ竹中重門の時代になると、世の中が落ち着いてきて山城の生活はどんどん不便になっていきます。
そこで麓に移転し、1588年(天正16年)頃に新たに築いたのが「岩手城(岩手陣屋)」です。
平城(陣屋)として、竹中家の新しい拠点になりました。
関ヶ原の戦いと竹中家の決断
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起きます。
領主の竹中重門は最初、西軍に属して犬山城に籠城していました。
しかし、かつて父が命を救った黒田長政らの働きかけと井伊直政の仲立ちで、東軍(徳川家康方)に寝返ります。
岩手城は本戦の舞台のすぐそばでした。当日は黒田長政の隊で戦い、小西行長の捕縛にも貢献しています。
戦後に徳川家康から所領を認められ、旗本としての存続を勝ち取りました。
今も垂井町に残る陣屋跡の櫓門
岩手城(岩手陣屋)の跡地は、現在の岐阜県不破郡垂井町にあります。
白壁の櫓門(やぐらもん)と石垣が今も残っていて、旗本の遺構としてはかなり珍しいものです。
隣の「禅幢寺」には竹中半兵衛の銅像と墓所もあります。 竹中家ゆかりの地として観光客も多く訪れるので、興味があれば一度足を運んでみるのもいいかもしれませんね。
まとめ
竹中半兵衛の血脈と家名は、嫡男・重門が関ヶ原の戦いを東軍として生き抜いたことで、高禄の旗本(交替寄合)として続くことができました。
その血筋は途絶えることなく、現代の18代当主まで引き継がれています。
岐阜県垂井町の岩手城跡には、そんな竹中家の歴史がぎゅっと詰まっています。 歴史好きなら一度行ってみる価値がある場所ですよ。
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