「土佐の出来人」と讃えられた戦国大名・長宗我部元親。
一代で四国をほぼ統一した英雄は、どんな最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、
- 長宗我部元親の死因と伏見での最期の様子
- 晩年の元親を変えた長男
- 信親の悲劇
- 長宗我部家がたどった滅亡への道のり
についてご紹介します。
長宗我部元親の死因と最期の状況
四国の覇者として名を轟かせた元親も、晩年は病に伏せました。
全盛期の姿とはかけ離れた、静かな終焉。その最期を詳しく見ていきましょう。
死因は伏見で患った病死
長宗我部元親の死因は、病気です。亡くなったのは1599年7月11日(慶長4年5月19日)。
享年61歳でした。
病を抱えた元親は、1599年4月に上洛します。病気療養のためでした。
ただし、具体的な病名は史料に残っておらず、今もはっきりとはわかっていません。
回復の兆しはなかなか見えませんでした。
5月10日、元親は四男・長宗我部盛親を枕元に呼び、遺言を残します。
そして5月19日、静かに息を引き取りました。
61歳で迎えた最期の地
元親が最期を迎えたのは、京都・伏見の屋敷でした。
療養を続けたものの、回復することはなかったのです。
生まれ育った土佐ではなく、遠い京の都での最期。
四国を統一した英雄にしては、あまりにも静かな幕引きでした。
法号は雪蹊恕三大禅定門。墓は長浜の天甫寺に、位牌は雪蹊寺に祀られ、雪蹊寺が菩提寺となっています。
四男・盛親へ託した遺言
元親が後継者に選んだのは、四男・長宗我部盛親でした。
この選択は、晩年の元親の苦悩と深く結びついています。
盛親は元親の死後、遺志通りに長宗我部家の跡を継ぎます。
でも、その後の盛親の運命は、元親の願いとはかけ離れたものになっていきました。
長宗我部元親を追い詰めた晩年の悲劇
長宗我部元親の死の背景には、元親の心を深く傷つけた出来事がありました。
かつては「誠実で人情深く、誰に対しても横柄な態度をとらない」と評された元親が、なぜ変わってしまったのか。
長男・信親の戸次川戦死
晩年の混乱のきっかけは、長男・信親の死でした。
豊臣秀吉の配下となっていた元親は、九州征伐に信親とともに従軍します。
しかし、豊後(現在の大分県)の戸次川で島津軍と激突。長宗我部勢はほぼ全滅状態となり、信親はそこで命を落としてしまいます。
信親はまだ22歳でした。
元親が後継者と期待していた、最愛の息子でした。
その知らせを聞いた元親は、悲嘆のあまり息子の後を追おうとしたといいます。
家臣にとめられなければ、どうなっていたかわかりません。
さらに、秀吉から新たな領地を与えようとされても、断ってしまうほどの失意でした。
悲しみによる心境の変化
信親を失った後の元親は、まるで別人のように変わっていきました。
それまでは家臣の意見をよく聞き入れ、器の大きな君主と評判でした。
ところが信親の死後、家臣の諫言には耳を貸さなくなります。
次男・親和、三男・親忠が健在であるにもかかわらず、四男の盛親を次期当主に据えることを強行しました。
愛息の死が、元親の心をどれほど砕いたか。
この変貌ぶりが、物語っています。なお、この急変の実態については諸説あり。
お家を揺るがした粛清劇
盛親への家督継承に反対する家臣は少なくありませんでした。でも元親は聞き入れませんでした。
反対した家臣だけでなく、その親族まで粛清の対象にします。三男・津野親忠は幽閉されました。
次男・香川親和の死については、元親による暗殺説も一部で語られていますが、これは史料的裏付けの薄い推測の域を出ません。
この晩年の混乱こそが、長宗我部家を内側から崩していった原因なのかもしれません。
長宗我部家滅亡とその後
元親が病に倒れた翌年、歴史の歯車は一気に動き出します。
長宗我部家は、どんな末路をたどったのでしょうか。
関ヶ原の戦いと領地没収
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発。盛親は西軍に加わりますが、敗走します。
『古城伝承記』によれば、もともと東軍に味方しようとしたものの、石田方の関所を越えられずやむなく西軍に加わったとされています。ただし、はじめから西軍に与する意図があったとする見方もあり、実態は定かではありません。
さらに関ヶ原の後、盛親は実の兄・津野親忠を殺害してしまいます。
これが徳川家康の逆鱗に触れ、長年治めてきた土佐一国を没収。
大名から浪人へと、転落してしまいました。
大坂の陣での盛親の最期
所領を失った盛親は、京都の寺子屋で子どもたちに読み書きを教えながら暮らしていたといいます。
かつての四国の覇者の後継ぎが、です。
そこへ大坂の陣が勃発しました。
元和元年(1615年)の大坂夏の陣。
盛親は八尾方面へ出陣し、藤堂高虎の部隊と激突します。
一時は藤堂勢に深刻な損害を与えるほどの奮戦でした。
しかし、大坂城は陥落。
盛親は落ち延びましたが、蜂須賀氏の家臣に捕らえられます。
二条城の柵に縛り付けられて晒し者にされた後、六条河原で斬首。首は三条河原で晒されました。
盛親の5人の男子も、ことごとく捕らえられ処刑されます。こうして、元親直系の長宗我部氏は滅亡しました。
現代に繋がる長宗我部の血脈
本家は途絶えても、長宗我部の血はつながっています。
元親の弟・島親益の子孫は土佐藩の下級藩士として存続し、現在の長宗我部家当主へと続いています。
長宗我部氏に関する著書を多数執筆している長宗我部友親さんが、その代表的な存在です。
友親さんは元親の実弟・香宗我部親泰の末裔にあたります。
傍系の血は今も、高知の地に息づいています。
長宗我部家の血脈や子供たちのその後について、さらに詳しく知りたい方はこちらの記事もあわせてどうぞ。
まとめ
以上、長宗我部元親の死因や最期についてご紹介しました。病死ということでしたが、その死の背景には、単なる「病気」では語りきれない深い悲劇がありますね。
大河ドラマ「豊臣兄弟!」で長宗我部元親の最期まで描かれるかどうかはわかりません。
ただ、重要な人物であることは間違いありません。豊臣兄弟との関係性にも注意して楽しみたいですね。
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