織田信忠は、織田信長の嫡男です。
本能寺の変で命を落としました。
もし生き延びていたら、その後の歴史は大きく変わっていたと言われています。
この記事では、
- 織田信忠が生きていた場合に予想される歴史の展開
- 本能寺の変における織田信忠の最期の詳細
- 嫡男・三法師(織田秀信)のその後の人生
織田信忠が生きていたら?
織田信忠は、19歳で武田攻めの岩村城を独力で攻略しました。
天目山の戦いでは総大将を務め、わずか1ヶ月足らずで武田家を滅亡に追い込んだ武将です。
信長からは早い段階で尾張・美濃の家督を譲られていました。
織田家の正統な後継者として、すでに認められていたのです。
ここでは、もし本能寺の変で織田信忠が生き延びていたら、その後の歴史がどうなっていたのか、諸説をもとに見ていきましょう。
もしも本能寺を脱出できたら
織田信忠は、本能寺の変が起きた当時、京都・妙覚寺に滞在していました。
本能寺陥落の報を受け、二条新御所へ移動します。
この時点で、脱出という選択肢もあったとされています。
もし織田信忠が二条新御所を脱出し、安土や岐阜へ落ち延びていたら、明智光秀討伐の主導権を握っていたかもしれません。
これはあくまで推測です。
ただ、織田信忠が生存していれば、明智光秀に味方する武将は少なかったとも言われています。
清洲会議の主役は誰になる?
清洲会議は、天正10年6月27日に開かれた会議です。
本能寺の変で織田信長・信忠父子が亡くなった後、織田家の後継者と領地の再分配が話し合われました。
実際の歴史では、羽柴秀吉がわずか3歳の三法師(織田秀信)を後継者に擁立します。
そして主導権を握りました。
しかし、織田信忠が生きていれば、清洲会議自体が開かれなかった可能性が高いでしょう。
信忠は生前から家督を譲られた正統な後継者だったからです。
後継者問題は、そもそも生じなかったと考えられます。
豊臣秀吉の天下はなかった?
織田信忠が生きていた場合、明智光秀討伐の功績は信忠のものとなります。
羽柴秀吉が「中国大返し」によって名声を得る機会は、失われていたかもしれません。
織田家の乗っ取りに繋がるような隙も、生まれなかったでしょう。
この場合、羽柴秀吉は生涯にわたって織田家の家臣という立場のままだった可能性があります。
豊臣政権そのものが、誕生しなかったとする考察も見られます。
本能寺の変と信忠の最期とは
「生きていたら」の話に続き、ここからは実際の史実を見ていきます。
織田信忠が本能寺の変でどのような最期を迎えたのか、詳しく解説します。
二条新御所への移動と誠仁親王の退去
天正10年6月2日、明智光秀の軍勢が本能寺を襲撃しました。
織田信忠は当時、本能寺近くの妙覚寺に滞在していました。
本能寺陥落の知らせを受けた織田信忠は、京都所司代・村井貞勝の勧めで、隣接する二条御新造(二条新御所)へ移動します。
二条新御所には、誠仁親王や若宮も滞在していました。
織田信忠は、すぐに内裏への退去を促します。
明智軍に囲まれた壮絶な最期
誠仁親王の退去を見届けた後、織田信忠は軍議を開きました。
しかし籠城するか脱出するか、結論は出ません。
そうしているうちに、明智軍が二条御所を包囲します。
織田信忠の軍勢は、わずか500ほどにまで追い込まれました。
織田信忠は
「雑兵の手にかかって死ぬのは不名誉である。ここで腹を切ろう」
と述べたと伝わっています。
明智軍は隣接する近衛前久邸の屋根に登り、弓や鉄砲で攻撃を仕掛けました。
二条御所に明智軍が乱入する中、織田信忠は家臣の介錯によって自害します。
享年26でした。
父・信長との違いは何だった?
織田信長は本能寺で自ら火を放ち、自刃したと伝わっています。
一方、織田信忠は二条新御所という別の場所で最期を迎えました。
織田信長が寺という限られた空間で最期を迎えたのに対し、織田信忠は誠仁親王の退去を見届けています。
周囲への配慮を見せた上での自刃でした。
この最期の様子から、織田信忠は冷静な判断力を持つ武将だったとする評価もあります。
織田信忠の子のその後は?
織田信忠には、嫡男である三法師がいました。
ここからは、三法師のその後の人生と、織田家の血筋について見ていきます。
嫡男・三法師の正体とは?
三法師とは、後の織田秀信のことです。
天正8年(1580年)、織田信忠の嫡男として生まれました。
本能寺の変が起きた時点で、三法師はわずか3歳でした。
清洲会議では、羽柴秀吉の推薦で、三法師が織田家の後継者として擁立されます。
天正16年(1588年)、9歳で元服し、織田秀信と名乗りました。
岐阜城主としての栄華
その後、叔父にあたる豊臣秀勝が亡くなります。
13歳で岐阜城を相続し、13万石以上の大名となりました。
文禄の役では豊臣秀勝の後任として渡航します。
羽柴姓を賜り、従三位・中納言にまで昇進しました。
この頃からキリスト教を信仰するようになったとも伝わっています。
関ヶ原の戦いと悲劇の最期
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、石田三成の誘いを受けました。
織田家旧領の回復を条件に、西軍に加担します。
しかし東軍に敗れ、岐阜城で降伏。
本来であれば改易・切腹となるところです。
しかし、本願寺教如の助命嘆願により、高野山への配流にとどまりました。
慶長10年(1605年)に高野山を下山し、まもなく亡くなったと伝わっています。
享年26。
奇しくも、父・織田信忠と同じ年齢での死去でした。
織田家の血筋は現代に続く?
織田秀信の嫡子については、確かな史料が乏しく、詳しいことはわかっていません。
地元有力者の娘との間に子をもうけたとする伝承も残っています。
ただ、史料による実在の確認は難しいとされています。
一方、織田信長の血筋そのものは、弟である織田有楽斎(長益)の系統や、娘たちを通じて公家社会、さらには皇室にまで受け継がれたとする研究もあります。
元フィギュアスケーターの織田信成さんは「信長の17代目の子孫」と公表しています。
ただし、家系図には不明瞭な部分もあり、歴史学者の間でも議論が続いているようです。
織田信忠の直系がどこまで続いたのか、今なお謎に包まれています。
まとめ
以上、織田信忠が生きていたらどうなっていたか、
そして本能寺の変での最期と嫡男・三法師のその後についてご紹介しました。
もし織田信忠が生き延びていたら、豊臣秀吉による天下統一はなかったかもしれません。
歴史の「もしも」を想像すると、また違った角度で戦国時代を楽しめます。
大河ドラマ「豊臣兄弟!」でも、織田信長・信忠父子の最期や、その後の秀吉の台頭が描かれる予定です。
織田家のその後の運命にも注目してみたいですね。
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