黒田官兵衛といえば、豊臣秀吉を支えた天才軍師。しかしその輝かしい経歴の裏には、有岡城での過酷な幽閉という転機がありました。
この記事では、
- 黒田官兵衛が幽閉された期間と場所
- なぜ幽閉されることになったのか
- 幽閉から生還した後の黒田官兵衛の歩み
についてご紹介します。
黒田官兵衛の幽閉期間と場所
まずは、黒田官兵衛が囚われていた期間と場所から見ていきます。
期間は約1年間
天正6年(1578年)、摂津・有岡城主の荒木村重が、主君・織田信長に反旗を翻しました。黒田官兵衛の運命を大きく変える、事件の始まりです。
日本経済新聞の記事によると、村重と親交のあった黒田官兵衛は、翻意を促すために有岡城へ赴きました。
しかし説得は不調に終わります。そのまま約1年間、狭い土牢に幽閉されたとされています。
幽閉の開始は天正6年7月頃。終了は有岡城が落城した天正7年(1579年)10月です。
期間にすると、約1年強。
ただし、この点には注意が必要です。
伊丹市教育委員会の中畔明日香課長はこう指摘しています。
「黒田官兵衛が有岡城で幽閉された確たる証拠はありません」
幽閉を伝える根拠は『黒田家譜』のみ。
黒田官兵衛の死去から80年以上経って、黒田家が編さんさせた記録です。
同時代に書かれた『黒田家文書』には、幽閉に関する記述が一切ありません。
「約1年間の幽閉」は広く知られた説ですが、史料的な裏付けは万全ではないということです。
場所は伊丹の有岡城
黒田官兵衛が幽閉されたのは、摂津国、現在の兵庫県伊丹市にあった有岡城です。
もともとの名は「伊丹城」。荒木村重が大幅に修築し、名を改めました。
有岡城は低湿地と地形の高低差を利用した城。四周を堀と土塁が巡る「惣構え」の構造だったとされています。
天正5年に有岡城を訪れた宣教師ルイス・フロイスは、「壮麗なる城」と賛嘆の言葉を残したそうです。
具体的な幽閉場所については、大正時代に書かれた『黒田如水伝』に詳しい記述があります。
幽閉先は「有岡城の西北隅。背後に溜め池。三方が竹藪。一日中陽が差さない、湿気の強い場所」だったといいます。
しかし、この『黒田如水伝』は大正時代の著作です。信頼性については疑問が残りますね。
「蓋と城」の記事では、別の見方も示されています。
座敷での軟禁?
幽閉場所の警備を担当していたのは、摂津の名族・伊丹氏の庶流である加藤重徳。身分の高い武将です。
この点から、実際は土牢ではなく座敷での軟禁状態だったのではないか、という推測です。
あくまで推測の域を出ない説であることを付け加えておきます。
なぜ幽閉された?
そもそも黒田官兵衛が有岡城に赴いたのは、主君・小寺政職を翻意させるためでした。
小寺政職もまた、荒木村重に同調して織田信長から離反しようと企てていたのです。
黒田官兵衛は小寺政職から、こう告げられました。
「荒木村重が織田方に戻ることを説得できれば、謀反を思いとどまる」
そして単身、有岡城へ乗り込みます。時に黒田官兵衛、33歳。
ところが、小寺政職は事前に荒木村重へ密使を送っていました。
「黒田官兵衛が訪ねてきたら殺してほしい」
『黒田家譜』に記された依頼内容です。黒田官兵衛は、主君の裏切りにまったく気づきませんでした。
そのまま有岡城で捕らえられてしまったのです。
なぜ殺されず幽閉という形を取られたのか。明確な史料は見当たりません。
荒木村重にとって黒田官兵衛は、人質として利用価値があったのではないか。これが一般的な見方です。
救出後の身体への影響
約1年近く幽閉されていた黒田官兵衛。
救出後、膝の関節が曲がり、頭髪が抜けて禿頭になってしまったといいます。
生涯回復しなかった、深い後遺症です。
劣悪な牢の環境が原因という見方が一般的。しかし異説も存在します。
黒田官兵衛の髪は女性のように長く伸びていたとも、有馬温泉での湯治で膝の関節が治ったとも伝わっているのです。
司馬遼太郎の小説『播磨灘物語』、
吉川英治の『黒田如水』。
いずれも、この幽閉を黒田官兵衛の一大転機として描いています。
物語をふくらませた小説・ドラマです。
劣悪な環境が身体を壊し、脚に障害を負わせたとする説。こうした作品の影響で広く知られるようになった側面もあるかもしれません。
幽閉から生還した官兵衛のその後
黒田官兵衛が囚われている間、周囲ではどんな出来事が起きていたのでしょうか。
織田信長からの誤解
黒田官兵衛が有岡城に入ったまま戻りません。織田方では、村重に通じたのではないかという疑念が広がりました。
黒田官兵衛の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)は、人質として長浜城に送られていました。
黒田官兵衛が裏切ったと判断した織田信長。松寿丸を処刑するよう、羽柴秀吉に命じたとされています。
黒田官兵衛自身、息子の身に危険が及ぶことを予測していました。
しかし、もはやどうすることもできません。秀吉がうまく対処してくれることを祈るしかなかった。
息子・長政の命を救う
松寿丸の命を救ったのは、羽柴秀吉の軍師であった竹中半兵衛でした。
竹中半兵衛は密かに松寿丸の身柄を引き取りました。
居城・菩提山城下、家臣・不破矢足の屋敷です。そのうえで、織田信長には「処刑した」と虚偽の報告をしたといいます。
主君・織田信長に背くことは重大な行為でした。
自分だけでなく、家族や家臣まで処罰される可能性があった。しかし竹中半兵衛は、その危険を承知のうえで、黒田官兵衛の無実を信じ続けました。
なぜ竹中半兵衛は、信長の命令に背いてまで松寿丸を救ったのか?
背景には諸説あります。
羽柴秀吉自身も黒田家の協力を必要としていたため、内々に了承していたのではないか。
これも一つの見方です。
軍師としての再起
有岡城は天正7年10月に落城。黒田官兵衛は、家臣の栗山善助(利安)らによって救出されました。
「蓋と城」の記事によると、救出したのは栗山善助、母里太兵衛、井上九郎右衛門の3人。
後に「黒田八虎」と呼ばれる面々です。
牢番を務めていた加藤重徳という武将も、黒田官兵衛を丁重に扱い、救出に協力したと伝えられています。
加藤重徳の次男・黒田一成は、後に黒田家の重臣として幕末まで家系が続くことになりました。
救出後、黒田官兵衛の無実は晴れました。
再び秀吉の軍師として、活躍の場を得ることになります。
劣悪な環境での約1年間は、黒田官兵衛にとって大きな試練でした。しかし、その後の軍師としての名声は揺らぐことなく続いていきました。
まとめ
黒田官兵衛の有岡城幽閉は、単なる悲劇のエピソードではありません。
主君の裏切り、息子の危機、家臣たちの忠義。約1年間に詰め込まれた出来事の数々が、後の名軍師・黒田官兵衛を形作る重要な転機になったといえそうですね
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』でも、有岡城での出来事は重要な見どころのひとつ。
第23話では、松寿丸の命をかけて奔走する小一郎と竹中半兵衛の姿が描かれましたね。
豊臣兄弟!第24話では、有岡城のシーンに触れられるでしょう。どんな風に描かれるのか楽しみです。
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