朝ドラ『ブラッサム』のモデル・宇野千代。
生涯現役を貫いた作家は、どのように最期を迎えたのでしょうか。
この記事では、
- 宇野千代の死因
- 宇野千代の最期の様子
- 命日「薄桜忌」の由来
宇野千代の死因|虎の門病院で急性肺炎のため死去
まずは、宇野千代がどのように亡くなったのか、死因から見ていきましょう。
1996年6月10日、98歳での大往生
宇野千代は1996年(平成8年)6月10日午後4時15分、急性肺炎のため東京都港区の虎の門病院で息を引き取りました。
1897年11月28日生まれの宇野千代は、このとき98歳。
大正・昭和・平成という3つの時代を生き抜いた、まさに大往生と呼べる最期でした。
戒名は「謙恕院釈尼千瑛」と付けられています。
亡くなる直前まで創作を続けた宇野千代
宇野千代は、晩年になっても創作への情熱が衰えることのなかった作家として知られています。
90代になっても
「書くことが楽しくてたまらない、書かずにはいられない」
と語っていたそうで、長寿そのものをテーマにした随筆『私何だか死なないような気がするんですよ』を97歳のときに刊行しました。
これが宇野千代にとって最後の著作となります。
タイトルどおり、宇野千代は最期の瞬間まで筆を折ることなく、現役の作家として98年の生涯を駆け抜けたのです。
宇野千代の最期|山梨での回顧展に間に合わず
宇野千代が亡くなる直前には、こんな出来事もありました。
亡くなる少し前の1996年4月20日から5月26日にかけて、山梨県立文学館では「宇野千代の世界展」が開催されていました。
宇野千代のこれまでの歩みや作品を紹介する展覧会でしたが、体調の悪化により、宇野千代自身がこの展覧会を訪れることは叶わなかったと伝えられています。
晩年まで創作への情熱を失わなかった宇野千代にとって、自らの人生をまとめた展覧会を見られなかったのは、少し心残りだったかもしれませんね。
宇野千代の命日「薄桜忌」とは
宇野千代の命日には、特別な名前が付けられています。
ここからは、その由来や葬儀の様子について見ていきましょう。
愛した淡墨桜との深い縁
宇野千代の忌日、つまり命日は「薄桜忌(はくおうき)」という素敵な名前で呼ばれています。
この名前の由来となっているのが、岐阜県本巣市(旧本巣郡根尾村)にある樹齢1500年以上ともいわれるエドヒガンザクラの古木「淡墨桜(うすずみざくら)」です。
宇野千代は晩年、この淡墨桜の保護を訴える活動に力を注いでいました。
同市の「さくら資料館」には、淡墨桜にまつわる宇野千代の作品も展示されているそうです。
桜をこよなく愛した宇野千代らしい、忌日の名付けといえますね。
通夜・お別れの会の様子
宇野千代の通夜・密葬は、1996年6月14日から15日にかけて、東京の桐ケ谷斎場で営まれました。
さらに同年6月29日には、青山葬儀所で「お別れの会」が開かれ、1300人あまりが弔問に訪れたそうです。
多くの著名人・関係者が参列したことからも、宇野千代がいかに幅広く愛された作家だったかがうかがえます。
お墓は岩国市の教蓮寺
宇野千代のお墓は、故郷である山口県岩国市にあります。
宇野家の菩提寺・教蓮寺が、その墓所です。
生まれ育った岩国の地で、宇野千代は今も静かに眠っています。
朝ドラ「ブラッサム」との関係
朝ドラ「ブラッサム」は、宇野千代の波乱に満ちた生涯を描く物語です。
晩年まで創作への情熱を失わなかった宇野千代の生き方は、ドラマの終盤における大きな見どころのひとつになりそうです。
98年という長い人生を、最後まで自分らしく書き続けて生き抜いた宇野千代。
その姿が朝ドラの中でどんなふうに描かれるのか、放送が楽しみですね。
まとめ
以上、宇野千代の死因と最期、命日「薄桜忌」についてご紹介しました。
1996年6月10日、虎の門病院で急性肺炎のため98歳の生涯を閉じた宇野千代。
最期まで筆を折らなかったその生き方と、愛した淡墨桜にちなんだ命日の名は、今も多くの人の心に残っています。
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