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荒木村重の妻だしの最期は?壮絶な史実を解説|豊臣兄弟!深堀り

荒木村重といえば、織田信長に反旗を翻した武将です。摂津一国を任されるほどの実力者でした。

その荒木村重の妻「だし」の妻について今回はみていきます。

この記事では、

  • だしがどんな最期を迎えたのか
  • 大河ドラマで歴代だし役を演じた女優たち
  • だしの子とされる絵師「岩佐又兵衛」と村重のその後

についてご紹介します。

荒木村重の妻「だし」の壮絶な最後

だしの人生は、夫・荒木村重の謀反で一変しました。まずは、有岡城の戦いから処刑までを追っていきましょう。

有岡城の戦いと村重の逃亡

荒木村重は、もともと池田家に仕える武将。

やがて織田信長に従い、摂津一国を任される実力者となります。

その妻が、だしです。出自には諸説があります。

  • 石山本願寺に仕えた川那部家の娘という説。
  • 信長の側室・生駒の方の娘という説。

生年も資料によって数年のずれがあり、正確には分かっていません。

1578年(天正6年)10月、荒木村重は信長に突如反旗を翻します。居城は有岡城、現在の兵庫県伊丹市です。籠城戦の始まりでした。

信長は明智光秀や豊臣秀吉を派遣し、説得を試みます。それでも村重は応じません。毛利氏への援軍要請を続けます。

1579年(天正7年)9月2日。毛利の援軍は、結局現れませんでした。

村重は夜陰に紛れ、わずかな側近とともに有岡城を脱出。息子・村次が守る尼崎城へ逃れます。

だしをはじめ、家族や家臣の妻子は城内に残されました。

信長が出した条件は「尼崎城と花隈城を明け渡せば、妻子の命は助ける」

しかし村重は、これを拒否します。

この決断が、有岡城に残された人質たちの処刑を決定づけました。

妻・だしの処刑と辞世の句

有岡城を脱出した荒木村重。一方、妻・だしには過酷な運命が待っていました。

1579年12月12日、信長は甥・織田信澄に命じます。

だしを含む荒木一族36〜37人を、京都へ護送させました。資料によって人数には差がありますが、いずれも村重の近親者です。

翌日13日には、有岡城に残っていた一族の女性122人が、尼崎の「七松」という場所で磔に

さらに、家臣とその妻子合わせて510人ほどが、12月16日までに処刑されたと「信長公記」に記録されています。

だしは京都・妙顕寺の牢へ。そして12月16日、運命の日を迎えます。

美しい小袖をまとい、大八車に乗せられて市中を引き回されただし。たどり着いた先は、六条河原でした。

「信長公記」の著者・太田牛一によると、車を降りただしは帯を締め直し、髪を高々と結い直したといいます。

小袖の襟を後ろへ引き、自ら首を差し出して最期を迎えました。

21歳(「信長公記」による)、あるいは24歳(「立入左京亮入道隆佐記」による)。年齢にも諸説あります。

処刑を前に、だしは複数の辞世の句を残しました。

「消ゆる身は 惜しむべきにも なきものを 母の思ひぞ 障りとはなる」

「残しおく そのみどり子の 心こそ 思ひやられて 悲しかりけり」

幼い我が子を思う、母としての心。

そんな思いが伝わってくる句ですね。

だしは処刑前、村重へ宛てた歌も残しています。村重もこれに、返歌をしたと伝わっています。

なぜ見捨てられたのか?

ここで、一つの疑問が浮かびます。なぜ村重は、妻子を置いて逃げたのでしょうか。

村重の逃亡は、家族や重臣にも知らされていなかったといいます。

信長が示した「城を明け渡せば妻子は助ける」という条件すら、村重は拒みました。

この経緯から、村重は後世「妻子を見捨てた武将」と語られることが多くなります。

 

一方で、近年は別の見方もあります。

当時の村重は、城を維持できないほどの極限状態だった。毛利氏や石山本願寺の援助を得て、再起を図ろうとしたのではないか。

あくまで諸説のひとつであり、村重本人の意図は、史料からは分かっていません。

大河ドラマで荒木村重の妻役を演じたのは?

だしの悲劇は、これまでも複数の大河ドラマで描かれてきました。代表的な作品を見ていきましょう。

軍師官兵衛での桐谷美玲

2014年放送のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」。だしを演じたのは、桐谷美玲さんです。夫・村重役は田中哲司さんでした。

ドラマの中で、だしは土牢に幽閉された黒田官兵衛(岡田准一)を、献身的に支える人物として描かれます。

時代劇も大河ドラマも初挑戦だった桐谷美玲さんは、所作の難しさに苦労したと振り返っています。

最期の処刑シーンでは、祈りを捧げながら静かに微笑む演技。放送当時から「美しかった」「ハマリ役だった」と、高く評価されていました。

「麒麟がくる」でのエピソード

「軍師官兵衛」のだしが好評だった一方、その後の大河ドラマでは描かれ方に変化が見られます。

2020年放送の「麒麟がくる」。荒木村重を演じたのは松角洋平さんです。ただ、このドラマにだし自身が登場人物として描かれた記録は確認できません。

代わりに描かれたのは、村重の嫡男・村次に嫁いでいた明智光秀の娘・岸のエピソードでした。

村重の謀反、つまり有岡城の戦いをきっかけに、岸は離縁され、明智家に戻ります。村重と光秀は、姻戚関係にあったのです。

大河が描いた妻の最期

「軍師官兵衛」と「麒麟がくる」、そして現在放送中の大河ドラマ。だしの描かれ方は、それぞれ違います。

だしの最期は、2014年放送の「軍師官兵衛」で実際に描かれました。

一方、2026年放送中の大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、だし役を山谷花純さんが演じています。村重役はトータス松本さんです。

2026年6月21日放送の豊臣兄弟!第24話では、だしが村重に投降を説得する場面が描かれる予定です。

有岡城事件がどう描かれるのか。注目です。

荒木村重の子供と家族や子孫のその後

村重とだしの間に生まれた子は、その後どうなったのでしょうか?

村重自身の晩年も含めて見ていきます。

生き延びた絵師「岩佐又兵衛」

村重とだしの間には、子がいたと伝わっています。だしの辞世の句にも、幼い我が子を案ずる言葉が残されているほどです。

有岡城落城の際、乳飲み子だったこの子は、乳母に抱かれて脱出に成功します。

その後、京都の本願寺に匿われて育ちました。

生母については、だし自身という説と、別の女性(岩佐氏の娘)という説。はっきりとは分かっていません。

成人後は、母方の姓「岩佐」を名乗ります。「岩佐又兵衛勝以」として活動。

織田信雄に仕えるなかで、絵の才能を発揮していきます。

やがて独自の画風を確立し、国宝「洛中洛外図屏風」などの作品を手がけました。

40歳ごろからは、福井藩主・松平忠直に20年余り仕えます。

晩年は江戸へ移り、徳川家光の娘・千代姫の婚礼調度制作にも関わりました。

1650年、その生涯を終えています。

道薫と名乗った村重の晩年

息子が絵師として生きた一方、荒木村重自身は、どんな晩年を送ったのでしょうか。

村重自身は、有岡城脱出後も生き延びました。息子・村次とともに花隈城へ移り、最終的には毛利氏のもとへ亡命。瀬戸内の尾道で、隠遁生活を送ったと伝わっています。

1582年、本能寺の変で信長が死去すると、村重は尾道から堺へ。1583年(天正11年)初め頃には「道薫」と名乗り、茶人・津田宗及の茶会に出席するようになりました。

千利休に茶を学んだ村重には、「利休七哲」の一人に数える系譜も存在します。ただし、これは諸説のひとつ。一般的に挙げられる七哲の人選には、含まれない場合もあります。

1586年(天正14年)5月4日、荒木村重は堺で生涯を閉じました。

享年52歳。法名は道薫。堺の南宗寺に葬られたと伝わっています。

まとめ|荒木村重の妻・だしが残したもの

今回は、荒木村重の妻・だしの壮絶な最期と、その後の家族の歩みをご紹介しました。

荒木村重の謀反から処刑までの流れ、妻・だしを演じてきた女優たち、そして子・岩佐又兵衛のその後まで。

だしは、歴史の表舞台に立つ人物ではありません。でも、その背景を知っているだけで、見える景色は変わってきます。

現在放送中の大河ドラマ「豊臣兄弟!」で、これから描かれる有岡城事件のシーンも、だしの最期を知った上で見れば、村重との別れの重みが、より深く伝わってくるくるかもしれません!

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