荒木村重は、織田信長にとても気に入られていた武将です。
それなのに、ある日突然、信長に反抗してしまいます。なぜそんなことをしたのか、今でもはっきりとはわかっていません。
この記事では、
- 荒木村重が信長に反抗した理由と、いくつかの説
- 有岡城で起きた壮絶なできごと
- 反抗した後、村重がどんな人生を送ったのか
について、わかりやすく紹介します。
荒木村重の謀反の理由は?裏切りの真相
信長からとても信頼されていた村重です。それなのに、なぜ反抗したのでしょうか。実は、理由はひとつではなく、いくつもの説が伝えられています。
決定的な理由は不明?
1578年10月、信長のもとに「村重が裏切った」という知らせが届きます。
当時の村重は、摂津国(今の大阪府や兵庫県のあたり)という広い土地、37万石をまかされ、とても重要な家臣でした。
信長にとっても、まさに想定外の知らせ。
実は、なぜ村重が反抗したのか、はっきりした理由は今もわかっていません。いくつかの説が、今も語り継がれているだけなのです。
信長に従うより毛利氏についたほうが生き残れると考え、思い切って賭けに出たのではないか
という見方もあります。
ただし、これも一つの考え方にすぎません。
足利義昭との内通説
荒木村重は、室町幕府の最後の将軍・足利義昭や、石山本願寺ともとても仲が良かったようです。義昭や本願寺は、信長と敵対する立場にありました。
つまり荒木村重は、信長側と義昭・本願寺側の、まさに板挟みだったのです。
村重が反抗すれば、豊臣秀吉や明智光秀の進む道を、地理的にふさぐことができます。
義昭や本願寺にとっては、まさに絶好のチャンス。こうした位置にいたことから、二人に説得されて反抗したのではないか、という説もあるのです。
本願寺への兵糧入れ疑惑
1578年、荒木村重は本願寺の顕如と仲が良かったことから、豊臣秀吉にすすめられて石山本願寺との和睦交渉をおこないましたが、失敗してしまいます。
さらに、本願寺から食べ物(兵糧)を求められ、それを届けたとも言われています。
ほかにも、家臣の中川清秀が、敵である石山本願寺に食べ物をひそかに送っていて、それが信長に知られる前に先手を打ったという説もあります。
どちらも、信長に知られればきびしく罰せられそうな行動です。
バレることをおそれた村重が、追いつめられて反抗を選んだのかもしれません。
なお、この食べ物にまつわる話は、記録によって内容がちがっており、どちらが本当かは決められません。
信長への猜疑心と恐怖心
信長は、自分の思いどおりに物事を進めようとする人物でした。そんな信長に対して、村重が疑う気持ちを強くして反抗したという説もあります。
さらに、信長の側近たちと折り合いが悪く、ひどい嫌がらせを受けていたとも言われています。
豊臣兄弟!第23話で描かれた「饅頭エピソード」のような体験の中で、信長に恥をかかされたという思いがあったのかもしれません。
戦いでも、隊長のような役目をもらえなくなり、これからの希望を失ってしまったことも、原因の一つとされています。
謀反後の荒木村重の生涯と壮絶な末路
反抗を決めた村重は、その後どうなったのでしょうか。有岡城での戦いから、晩年に茶人として生きた日々まで、順番に見ていきましょう。
有岡城の戦いと逃亡
信長は村重の反抗を知り、松井友閑、明智光秀、万見重元の3人を有岡城に送り、村重の気持ちを確かめさせました。
村重は「そんなつもりはない」と言いましたが、「疑いを晴らすために安土城に来なさい」という命令には従いませんでした。
その後も何度も説得されましたが、家臣たちの強い意見もあり、村重の決意は変わりませんでした。こうして、いくさが始まります。
村重は有岡城にこもり、なんと1年近くも持ちこたえました。しかし、高山右近の高槻城や中川清秀の茨木城が、あっという間に落とされてしまいます。
頼りにしていた毛利氏の援軍も、来てくれませんでした。
1579年、村重はひそかに有岡城をぬけ出し、尼崎城に逃げ込みます。この行動は、妻や子どもを置いて一人で逃げ出した、と言われることが多いです。
一方で、毛利氏に助けを求めるために城を出ただけで、まだあきらめてはいなかった、という別の見方もあります。
これは確かな記録による証拠があるわけではなく、あくまでいくつかの説の一つとして、心にとめておく必要があるでしょう。
一族郎党の惨殺悲劇
有岡城が落ちるとき、「村重が降伏するなら、城にいる人たちの命は守る」という約束が、信長との間で結ばれました。
しかし、尼崎城に逃げていた村重は、この降伏案を断ってしまいます。
その結果、村重の妻をはじめとする一族37人と、家臣500人以上が、見せしめとして殺されてしまいました。この人数については記録によってちがいがあり、一族や家臣、その家族あわせて670人が殺された、という記録も残っています。
本当の人数は、今もはっきりわかっていません。
はりつけや、市中を引き回したり、焼き殺したりするひどい方法で処刑された、とも伝えられています。
茶人「道薫」としての再起
花隈城でも織田軍に敗れた村重は、尾道へ逃げていきました。これで、大名としての荒木家は、事実上なくなってしまったのです。
1582年、本能寺の変で信長が亡くなると、荒木村重は都の近く(畿内)に戻ってきます。
1583年には「道薫(どうくん)」という名前を名乗り、堺や大阪城で開かれる茶会に出るようになりました。
やがて、茶の名人・千利休の弟子の中でも特にすぐれた「利休七哲」の一人に数えられるほどの茶人になります。
なお、自分を責める気持ちから「道糞(どうふん)」と名乗っていた、という話も伝わっています。しかし「道薫」という名前は、当時の記録には出てきません。あとから作られた話だと考えられています。
1586年、村重は52歳でこの世を去りました。
まとめ:荒木村重の謀反から見える戦国家臣の生き方
荒木村重の反抗には、足利義昭や本願寺との関係、本願寺への食べ物の疑い、信長への疑う気持ちなど、いくつもの理由が重なっていたと考えられます。
決まった答えが今もない、というところに、この出来事の深さがあるのかもしれません。
この記事を読んで、反抗にまつわるいろいろな説や、その後の有岡城の悲しい出来事、そして晩年に茶人として生きた村重の姿まで、わかってもらえたのではないでしょうか。
大河ドラマ「豊臣兄弟!」にも、トータス松本さんが演じる荒木村重が登場します。
妻・だし役の女優は山谷花純さんです。
村重がなぜ反抗したのか、そしてその後どんな結末を迎えたのかを知ったうえでドラマを見ると、村重の表情や言葉の一つひとつに、きっと違った意味が見えてくるはずです。
主人公の豊臣秀長のまわりにいる荒木村重ですが、その人生の浮き沈みは、けっして脇役と言えるものではありません。あまり目立たない武将だからこそ、背景を知っているほど、ドラマの見方も変わってくるかもしれませんね。
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