2025年のNHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』第12話では、俳優の尾美としのりさんが演じる平沢常富が登場します!11話までも実は、尾美としのりさんが登場していたのですが、今回は本格的に登場です。
べらぼう12話では、平沢常富の戯作者としての一面が明らかになります。
「武士が戯作を書くなんてアリ?」「明誠堂喜三二ってどんな作家?」と疑問に思った方も多いのではないでしょうか? そこで今回は、平沢常富の正体や、江戸時代の武士と戯作者の関係について、わかりやすく解説します!
平沢常富とは?吉原に通う秋田藩士の素顔
江戸時代、武士といえば剣を携え、格式を重んじる生き方をするもの――そんなイメージが一般的かもしれません。しかし、秋田藩士・平沢常富は、そんな固定観念に収まらない異色の人物でした。藩の重要な役職を担いながら、吉原に通い、さらには戯作者として活躍するという、まさに“二重生活”を送っていたのです。そんな彼の素顔に迫ってみましょう。
秋田藩の江戸留守居役としての役割
江戸時代、各藩は江戸に藩邸を持ち、そこに藩の代表者を派遣していました。その代表者こそが「江戸留守居役」。現在でいう大使や外交官のような役割を持ち、幕府や他の藩との交渉を担当していました。藩主が江戸にいる間は藩政の補佐を、そして藩主が国元に戻れば、留守を守る役目を担っていたのです。
秋田藩も例外ではなく、江戸に藩邸を置き、幕府との関係を維持していました。その中で重要なポストに就いていたのが、平沢常富でした。藩の立場を守るための交渉や、江戸の政局の情報収集が彼の仕事。つまり、単なる武士ではなく、藩の未来を左右するキーパーソンでもあったのです。
吉原との関わり:通人としての一面
「武士が遊郭に出入りするなんて…」と思うかもしれませんが、実は当時の吉原は、単なる遊びの場ではありませんでした。文化人や知識人が集い、芸術や文学の交流の場としても機能していたのです。平沢は、その吉原に“通人(つうじん)”として頻繁に足を運んでいました。
通人とは、ただ遊びに興じるのではなく、吉原文化を深く理解し、粋に楽しむことができる人物を指します。平沢は、武士でありながらその文化に精通し、知識人たちと交流を重ねていました。そこで培った経験や人脈は、後に戯作を執筆する際にも活かされることになります。
蔦屋重三郎との関係
江戸時代の出版界をけん引した蔦屋重三郎。彼は、単なる書物の売り手ではなく、時代のトレンドを作り出すプロデューサーのような存在でした。そんな重三郎と、藩士である平沢が親しくなったのには理由があります。それは「江戸の文化を愛し、発信したい」という共通の思いでした。
平沢が吉原で培った知識や視点は、戯作を執筆するうえで貴重なもの。重三郎にとっても、文化の担い手としての平沢は、出版界に新風を吹き込む可能性を秘めた存在だったのです。
平沢常富は、武士の職務に忠実でありながら、遊里文化や出版文化にも精通した人物でした。 彼の二重生活は、江戸の文化の懐の深さを示しているともいえるでしょう。果たして彼はどんな思いで、武士と戯作者の狭間で生きていたのか? その答えを探るべく、続いては、彼のもう一つの顔、「明誠堂喜三二」としての活動に迫ります。
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戯作者・明誠堂喜三二の正体とは?
江戸の出版文化が花開く中、読者を楽しませる「戯作(げさく)」と呼ばれる文学が人気を博しました。そんな戯作の世界に、実は一人の武士が筆を執っていたのです。その名は明誠堂喜三二(ほうせいどう きさんじ)。しかし、この名前は本名ではなく、秋田藩士・平沢常富(ひらさわ つねとみ)が使っていた筆名でした。武士として藩の重要な役職を担いながら、裏では戯作者として活動する——そんな二重生活を送っていた彼の秘密に迫ります。
戯作とは?
現代でいう小説や漫画のように、江戸時代にも庶民を楽しませる娯楽文学がありました。それが「戯作(げさく)」です。
戯作にはいくつかの種類があり、中でも有名なのが黄表紙(きびょうし)や洒落本(しゃれぼん)と呼ばれるジャンル。黄表紙は、滑稽な物語を絵入りで楽しめる書物で、子どもから大人まで親しまれました。一方の洒落本は、吉原などの遊郭文化を題材にした粋な読み物で、特に大人の読者層に支持されていました。
当時の出版業界は、こうした戯作が爆発的に人気を集め、まるで現代のベストセラーのように次々と話題作が生まれていたのです。
⇒ 黄表紙と洒落本の違いは?赤本・黒本・青本の草双紙など江戸の出版ジャンルを解説
なぜ吉原を舞台にした作品が人気だったの?
江戸の人々にとって、吉原は単なる遊びの場ではなく、一種の「憧れの世界」でした。華やかな花魁、格式ある遊び方、そこに集う粋な通人たち。庶民にとって、吉原の文化は手の届かない夢のようなものだったのです。
そのため、戯作の題材として吉原は最適でした。実際に吉原を訪れることができない人々も、本を通じてその世界をのぞき見ることができる。そんな夢と憧れを叶えてくれるのが、戯作の魅力の一つだったのです。
「明誠堂喜三二」とは?その作風と特徴
明誠堂喜三二(ほうせいどう きさんじ)は、江戸の洒脱な文化を巧みに描いた戯作者。彼の作品には、遊里の風俗や市井の人々の生活が生き生きと描かれ、知識人たちの間でも評価されていました。
特に、吉原の祭りや庶民の遊びを題材にしたものが多く、そのリアリティのある描写から「実際に吉原を知る者の筆」だと評判になったほど。もちろん、その筆の持ち主が秋田藩の武士だとは誰も思いもしなかったでしょう。
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執筆は危険な仕事だった
武士としての誇りを持ちながら、戯作者としても才能を発揮した平沢常富(ひらさわ つねとみ)。しかし、彼の二重生活は、決して順風満帆なものではありませんでした。江戸時代の武士は、原則として「扶持(ふち)」と呼ばれる俸禄で生計を立て、商売や副業は禁止されていました。それなのに、なぜ平沢は戯作者としての道を選んだのでしょうか? そして、なぜ彼は蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)の依頼を断ることになったのでしょうか?
幕府の規制と副業のタブー
江戸時代、武士の生計は、基本的に主君から与えられる扶持(ふち)によって支えられていました。しかし、武士が持つ家族を養うには十分な額とは言えず、実際には多くの武士が経済的に困窮していました。とはいえ、彼らが自由に商売をしたり、別の仕事で収入を得たりすることは「身分を汚す行為」とされ、固く禁じられていました。
武士が収入を得る手段として唯一許されるのは、和歌や俳諧などの「教養」として認められる文化活動。しかし、娯楽性の強い戯作は、風紀を乱すものと見なされ、規制の対象になることが多かったのです。
戯作を書くことが見つかると…?
もし武士が娯楽文学を書いていることが発覚すれば、主君や幕府からの処罰は免れませんでした。特に、風紀を乱す内容が含まれている場合は厳しく取り締まられることも。たとえば、山東京伝(さんとう きょうでん)という有名な戯作者は、風刺的な洒落本(しゃれぼん)を執筆したことで幕府に目をつけられ、寛政の改革の際に手鎖50日の処分を受けました。
もし平沢が戯作者であることを公にしていたら、彼の立場はさらに危ういものになったはず。武士としての地位を守るため、筆名「明誠堂喜三二」を使い、身元を隠しながら活動するしかなかったのです。
平沢が耕書堂の仕事を断らざるを得なかった理由
戯作者として一定の成功を収めていた平沢に、蔦屋重三郎が「耕書堂(こうしょどう)」の出版物として執筆を依頼します。しかし、平沢は最終的にこの仕事を受けることができませんでした。その理由の一つが、武士としての立場でした。
彼の戯作活動が広く知られることになれば、藩の上層部に報告され、処分される可能性がありました。また、武士の家柄としての誇りもあったのかもしれません。文化人としての活動に魅力を感じながらも、「武士としての本分を忘れてはならない」という思いがあったのでしょう。
鱗形屋との関係と出版業界のしがらみ
もう一つの理由は、すでに「鱗形屋(うろこがたや)」という別の版元と関係を持っていたことです。当時の出版業界には、現在の出版社と作家の関係に似た「専属契約」のような暗黙のルールがありました。
「鱗形屋の専属作家が、ライバルの耕書堂の本を書く」ということになれば、出版業界内でのトラブルにつながる可能性も。結局、彼はこのしがらみの中で身動きが取れなくなり、耕書堂からの依頼を断らざるを得なかったのです。
戯作と武士の間で揺れる平沢の選択
明誠堂喜三二としての筆名は、江戸の戯作文学の世界で高く評価されていました。彼の作品は粋で洒脱な表現が光り、知識人の間でも人気がありました。しかし、その一方で、武士としての誇りを捨てることもできませんでした。
平沢にとって、戯作は「楽しいから書く」という単純なものではなく、自身の文化的教養を発揮する場でもあったのでしょう。しかし、それを公に認めることができない——このジレンマに、彼は長く悩まされたのではないでしょうか。
もし時代が違えば、平沢は堂々と作家として活躍できたかもしれません。しかし、彼が生きた江戸という時代では、「武士でありながら文化人であること」は決して許されるものではなかったのです。
それでも彼は、自らの才能を隠しながらも筆を執り続けました。その姿は、江戸という時代に生きながらも、自分の信じる道を模索し続けた文化人の矜持を感じさせます。武士であることを捨てきれず、かといって戯作者としての情熱も諦められなかった平沢常富——その生き様には、どこか現代の「本業と副業の間で悩む人々」の姿とも重なるものがあるかもしれません。
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明誠堂喜三二の代表作——江戸庶民を笑わせた名作たち
江戸の戯作文学を彩った明誠堂喜三二(本名:平沢常富)。彼の作品は、洒脱な言葉遊びと風刺を効かせたユーモアで多くの読者を魅了しました。中でも、当時の庶民に愛され、今なおその魅力が語り継がれる代表作を3つご紹介します。
1. 『桃太郎後日噺(ももたろうごじつばなし)』——おとぎ話のその後を描いたユーモラスな物語
誰もが知る桃太郎の物語。しかし、鬼退治を終えた桃太郎は、その後どうなったのでしょうか?『桃太郎後日噺』は、そんな「昔話のその後」をコミカルに描いた作品です。
桃太郎が鬼ヶ島から戻った後、彼を取り巻く人々との関係や、新たな騒動が展開されます。ただの英雄譚で終わらず、「英雄のその後」をユーモラスに描くことで、当時の庶民の笑いを誘いました。
この作品は、江戸時代に流行した「パロディ戯作」の一例でもあります。すでに広く知られた物語をベースに、独自の視点を加えることで、親しみやすく、それでいて新鮮な面白さを提供していたのです。
2. 『南陀羅法師柿種(なんだらほうしかきのたね)』——奇妙な法師が巻き起こす騒動
この作品は、どこかとぼけた味わいのある法師が登場し、さまざまな騒動を引き起こす物語です。「南陀羅法師」という奇妙な名前の僧侶が、人々の間を行き来しながら、滑稽な出来事を巻き起こしていきます。
ただのお笑い話ではなく、そこには江戸時代の風俗や社会風刺が織り込まれています。例えば、「僧侶の世俗化」「偽の聖人を信じ込む人々」といったテーマは、現代にも通じる皮肉が感じられる部分です。
喜三二は、この作品で、当時の庶民が日常で感じていた「ちょっとした違和感」や「おかしさ」を軽妙な文体で表現し、人々の共感と笑いを引き出しました。
3. 『鼻峯高慢男(はなみねこうまんおとこ)』——高慢な男の転落劇
この作品は、タイトルからもわかるように、「鼻が高い=自信過剰で傲慢な男」が主人公です。自分を特別な存在だと思い込んでいる男が、思わぬ形で転落していく様子をユーモラスに描いています。
このような「傲慢な者が痛い目に遭う話」は、当時の庶民にとって最高の娯楽でした。身分の高い者や、自分を特別視している者が滑稽な目に遭う様子は、まさに「スカッとする」エンタメだったのです。
さらに、こうした物語は「庶民の視点からの風刺」としての役割も果たしていました。喜三二の作品には、ただの笑い話ではなく、庶民の願望や不満が反映されていたのかもしれません。
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明誠堂喜三二の作品は、どれもユーモアに富みながらも、当時の世相や人々の心理を巧みに描いていました。昔話のパロディ、風刺の効いた僧侶の話、高慢な男の転落劇——どれも、江戸の庶民が思わず笑い、時には「そうそう、こういうことあるよな」と共感できる要素を持っています。
以上、今回は大河ドラマ『べらぼう』にも登場する平沢常富と、武士と戯作者・明誠堂喜三二としての二重生活についてご紹介しました。
武士でありながら戯作者として活躍した平沢は、幕府の規制や武士のしがらみに苦悩しつつも、江戸の文化に貢献しました。彼のような人物を世に送り出した蔦屋重三郎や、出版を支えた豪商・職人たちの存在が、江戸の文学を豊かにしたのです。
彼のような戯作者がいたからこそ、江戸の文化はより豊かで面白いものになったのではないでしょうか。大河ドラマ『べらぼう』で描かれる平沢常富(明誠堂喜三二)にも、ぜひ注目してみてください!
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