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豊臣秀長の家系図|子孫の現在は?兄弟は何人?秀吉ほか家族構成を解説

豊臣秀長は豊臣秀吉の弟として、天下統一に大きく貢献した武将です。

この記事では、兄を陰で支え続けた「大和大納言」こと豊臣秀長の家系図と、その子孫について解説します。

豊臣秀長の家系図|秀吉・秀次との血縁関係

豊臣秀長の家族構成を、まず家系図から見ていきましょう。

豊臣秀長の家系図

豊臣秀長の父と母

豊臣秀長は天文9年(1540年)に尾張国中村(現在の愛知県名古屋市中村区)で生まれました。

秀長の父母については、史料によって記述が異なり、現在も議論が続いています。

父親についての諸説

江戸時代の『太閤素性記』では、秀吉の父を木下弥右衛門、秀長の父を母・なかの再婚相手である竹阿弥(築阿弥)としており、これに従えば秀吉と秀長は異父兄弟ということになります。

しかし、京都瑞龍寺に伝わる『瑞龍寺差出』には、秀吉の姉・ともの父親が天文12年(1543年)正月2日に逝去したと記されています。秀長の生年が天文9年(1540年)、妹の旭姫の生年が天文12年(1543年)とされることから、木下弥右衛門が秀長誕生の3年後に亡くなったことになります。

この時系列の矛盾から、近年の研究では秀吉・秀長は異父兄弟ではなく、同父同母の兄弟であるという説が有力となっています。

兄弟姉妹の父親は誰か

母・なか(のちの大政所)との間に生まれた4人の子供について、父親が誰であるかは以下のような説があります。

  • 従来説:姉・ともと秀吉の父が木下弥右衛門、秀長と旭姫の父が竹阿弥(異父兄弟説)
  • 有力説:4人全員の父が木下弥右衛門(同父兄弟説)
  • 可能性:木下弥右衛門と竹阿弥が同一人物(出家して名を変えた)という説も

『瑞龍寺差出』の記録と各人の生年を照合すると、旭姫は父の死後に生まれた遺腹の子である可能性があり、その場合は4人全員が同父同母の兄弟姉妹となります。

ただし、『瑞龍寺差出』には父親の俗名が記載されていないため、確定には至っていません。秀長は秀吉より3歳年下で、幼名を小一郎といいました。

豊臣秀長の兄弟と家族構成

秀長の兄弟姉妹は以下の通りです。

  • 姉:とも(瑞龍院日秀)- 天文3年(1534年)生まれ、秀吉より4歳年上
  • 兄:豊臣秀吉(木下藤吉郎)- 天文6年(1537年)生まれ、秀長より3歳年上
  • 妹:あさひ(旭姫)- 天文12年(1543年)生まれ

4人の兄弟姉妹の父親が誰であるかについては、前述の通り諸説ありますが、近年は全員が木下弥右衛門となかの子であるとする説が有力です。

ただし、従来は姉・ともと秀吉が木下弥右衛門の子、秀長と旭姫が母の再婚相手である竹阿弥の子(異父兄弟)とされてきました。

姉のともは百姓の弥助(のちの三好吉房)に嫁ぎ、豊臣秀次、豊臣秀勝、豊臣秀保の3人の男子をもうけました。この3人はいずれも秀吉の養子や後継者候補となり、豊臣一門の重要人物となります。

妹の旭姫は、当初は尾張国の地侍・佐治日向守に嫁いでいましたが、天正14年(1586年)、小牧・長久手の戦いのあと、秀吉の政略により強制的に離縁させられ、徳川家康の正室となりました。

政治の道具として翻弄された旭姫は、天正18年(1590年)に48歳で亡くなっています。

 

養子・豊臣秀保と秀長の跡継ぎ

秀長には正室・慈雲院と側室・興俊尼(お藤)がいました。

実子としては以下の子供たちがいました。

  • 長男:羽柴与一郎(木下与一郎)- 早世
  • 長女:大善院(おきく)- 毛利秀元に嫁ぐ
  • 次女:三八(おみや)- 秀保の妻となる

しかし、長男の与一郎は若くして亡くなってしまったため、秀長には男子の後継者がいませんでした。

そこで秀長は当初、丹羽長秀の三男・仙丸を養子に迎えていましたが、秀吉の意向により血縁を重視し、姉・ともの三男である豊臣秀保を後継者としました。

秀保は秀長の次女・三八と結婚し、秀長の婿養子となります。天正19年(1591年)1月22日に秀長が病死すると、わずか13歳で大和・紀伊の両国を継承し、大和郡山城主となりました。

豊臣秀長に子孫は残っているのか?

豊臣秀長の血筋が現代まで続いているかは、多くの方が気になるところではないでしょうか。

結論から言うと、秀長の直系子孫は残っていません。

秀長の跡継ぎは?

豊臣秀長には3人の実子がいましたが、男子は長男の羽柴与一郎のみでした。

与一郎は名古屋山三郎の妹・岩を妻に迎えましたが、若くして亡くなってしまいます。与一郎の死後、岩は秀長の養女となり、のちに森忠政に嫁ぎました。

長女の大善院(おきく)は毛利秀元に嫁ぎましたが、慶長14年(1609年)に23~24歳の若さで亡くなりました。一説によると妊娠中だったとも伝わりますが、子供を残すことはできませんでした。

養子・秀保の早世

秀長の跡を継いだ養子の豊臣秀保でしたが、その運命も短いものでした。

文禄4年(1595年)4月16日、秀保は大和国十津川で療養中に急死します。享年わずか17歳でした。死因は痘瘡(天然痘)または麻疹の一種とされ、病状が急激に悪化したことが当時の記録に残されています。

秀保と妻・三八との間には子供がなく、かつて秀長の養子だった仙丸も藤堂高虎の養子となって藤堂高吉と名乗っていたため、後継者がいませんでした。

三八のその後については史料が乏しく、詳細は不明です。

一説では、京都大徳寺大光院にある「養春院古仙慶寿大姉」という戒名の墓が三八のものではないかと推測されています。この墓の没年は慶長9年(1604年)とされており、秀保の死から9年後のことでした。

もしこれが三八の墓であれば、三八は17歳前後で生涯を終えたことになります。

秀吉は当初、秀保の長兄・豊臣秀次の息子を後継者にすることを検討していましたが、その3ヵ月後に起きた秀次事件(秀次の切腹)により、この計画も実現せず、大和豊臣家は完全に断絶しました。

こうして、豊臣秀吉の右腕として活躍した豊臣秀長の家系は、わずか一世代で途絶えてしまったのです。

豊臣秀長とは?秀吉の弟として支えた名補佐役

改めて豊臣秀長がどのような人物だったのか、その生涯を振り返ってみましょう。

秀長の生涯と功績

秀長は永禄4年(1561年)頃、兄・秀吉が織田家に仕官したのに伴い、自身も武士の道を歩み始めました。それまでは地元で農業に従事していましたが、兄とともに天下取りの道を進むことになります。

秀長は兄に従って各地を転戦し、数々の功績を挙げました。

  • 天正10年(1582年):山崎の戦いで明智光秀を討つ
  • 天正11年(1583年):賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に勝利
  • 天正13年(1585年):紀州征伐、四国平定で総大将を務める
  • 天正15年(1587年):九州平定で先手大将として活躍

特に四国平定では、病気で出陣できない秀吉の代理として10万を超える軍勢の総大将に任じられ、長宗我部元親を降伏させる大功を立てました。

秀吉との関係性と豊臣政権での役割

秀長の最大の特徴は、単なる武将ではなく、優れた統治者であり調整役でもあったことです。

大和・紀伊・和泉の3ヶ国を治め、最終的には約110万石の大大名となりました。官位も従二位権大納言まで昇進し、「大和大納言」と尊称されました。

秀長は温厚で寛大な性格で、秀吉の欠点を補う存在として諸大名からの信頼も厚く、多くの大名が秀長を通じて秀吉への取り次ぎを頼みました。また、寺社勢力の強い大和国を治めながらも大きな諍いを起こさず、高い実務能力を発揮しました。

歴史家の間では「もし秀長の寿命が長ければ、豊臣の天下を永く継続させることができたかもしれない」と評価されています。逆に言えば、天正19年(1591年)の秀長の死は、豊臣政権の終わりの始まりだったとも言えるのです。

豊臣秀長・秀吉の家系図とその後

秀長の家系が断絶した一方で、豊臣家全体はどうなったのでしょうか。

豊臣一族の主要人物

豊臣一族の主要人物を整理すると以下のようになります。

秀吉の実子

  • 長男:豊臣秀勝(石松丸)- 幼少で死去(存在自体を疑問視する説もある)
  • 次男:豊臣鶴松 - 3歳で死去
  • 三男:豊臣秀頼 - 大坂の陣で自害

秀吉の養子

  • 豊臣秀次(ともの長男)- 関白となるが後に切腹
  • 豊臣秀勝(ともの次男・小吉秀勝)- 朝鮮出兵で病死
  • 羽柴秀勝(織田信長の四男・於次丸秀勝)- 18歳で病死
  • 小早川秀秋 - 関ヶ原の戦いで東軍に寝返る

秀吉自身も実子に恵まれず、多くの養子を迎えましたが、そのほとんどが若くして亡くなるか、悲劇的な最期を遂げています。

豊臣家滅亡後の子孫の行方

豊臣秀頼の子供には、長男・国松と長女・天秀尼がいました。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると、8歳だった国松は捕らえられ、京都の六条河原で処刑されました。一方、天秀尼は徳川家の配慮により助命され、尼僧として生涯を送りました。

興味深いのは、秀長の姉・ともの家系です。

ともは93歳という長寿を全うし、その子孫は後世まで続きました。ともの長男・豊臣秀次の娘の一人は公家に嫁ぎ、その血筋は東本願寺の法主家にまで繋がっています。

皮肉なことに、豊臣秀吉の直系は孫の世代で途絶え、弟の豊臣秀長の家系も一世代で断絶しましたが、姉・ともの家系だけが現代まで続いているのです。

まとめ

以上今回は豊臣秀長の家系図と子孫についてご紹介しました。

豊臣秀長は兄・秀吉を支え、豊臣政権の要として活躍しましたが、その家系は養子の豊臣秀保の早世により断絶してしまいました。秀長の直系子孫は現代には残っていません。

しかし、秀長の功績と人柄は多くの史料に記され、「もし秀長が長生きしていれば」と惜しまれる存在として、今も歴史に名を刻んでいます。

2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、この名補佐役の生涯がどのように描かれるのか、楽しみですね!

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