豊臣秀長は、天正19年(1591年)にわずか52歳でこの世を去りました。
兄・秀吉を支え続けた豊臣政権のナンバー2は、なぜ、どのような病で命を落としたのでしょうか。
この記事では、
- 豊臣秀長が亡くなった日付と場所
- 『多聞院日記』や『医学天正記』に残る具体的な病状
- 癌説、過労説、毒殺説など死因をめぐる諸説
- 病床でも政務を続けた最期の日々の記録
- 墓所「大納言塚」に眠る秀長の今
について、史料をもとに詳しくご紹介します。
豊臣秀長の死因は?いつ、どこで亡くなったの?
まずは、豊臣秀長がいつ、どこで、どのような立場で最期を迎えたのかを見ていきましょう。
亡くなった日と場所は大和郡山城
豊臣秀長は、天正19年(1591年)1月22日、大和郡山城内で息を引き取りました。
享年は52歳です。
豊臣秀吉が天下統一を成し遂げてから、わずか3年後の出来事でした。
豊臣秀長は、天正13年(1585年)に大和・紀伊・和泉の3ヶ国、約100万石を治める太守となり、同年9月に郡山城へ入城。
以降、最期を迎えるまでの約5年半を、この郡山城で過ごしています。
死んだときの秀長の立場
死去当時、豊臣秀長は「大和大納言」と呼ばれ、従二位権大納言という高い官位に就いていました。
豊臣政権においては、軍事・政治・外交のすべてに通じる調整役として、秀吉に次ぐ実質的なナンバー2の地位を確立していたのです。
この立場ゆえに、豊臣秀長の死は、一人の武将の死にとどまらず、政権全体を揺るがす出来事として記録されることになります。
秀長はどんな病気だった?
豊臣秀長がどのような病に苦しんでいたのか。
当時の日記や医学書には、具体的な症状が記録されています。
発熱と痙攣があった
奈良・興福寺の僧が記した『多聞院日記』の天正18年(1590年)12月2日条には、豊臣秀長が数日前から発熱を繰り返し、てんかんのような痙攣を起こしていたという記述が残っています。
死去のおよそ1ヶ月半前の時点で、すでにかなり深刻な状態にあったことがうかがえます。
「積(しゃく)」と呼ばれた病
このほかの史料にも、腹痛や嘔吐、下痢を思わせる記述が見られます。
当時の公家の日記や記録では、豊臣秀長の病は「積(しゃく)」と呼ばれていました。
積とは、お腹の中にしこりができる病気を指す、当時の総称です。
現代でいう特定の病名ではなく、腹部の不調全般を表す言葉として使われていました。
医学書『医学天正記』の推測
安土桃山時代の医師・曲直瀬玄朔が著した医学書『医学天正記』には、豊臣秀長の死因を胃腸系の疾患と推測する記述があります。
ただし、これはあくまで当時の医学的知見に基づく推測です。
血液検査や画像診断のような現代的な根拠があるわけではなく、正確な病名を特定することは、現在でも困難とされています。
死因は本当は何だった?考えられる3つの説
豊臣秀長の死因については、後世からさまざまな説が唱えられています。
癌だった説
症状の推移から、悪性の腫瘍や癌が原因だったのではないかとする説があります。
長期間にわたり体調が悪化し続けた経過は、進行性の病気を疑わせるものです。
ただし、これはあくまで後世の研究者による推測であり、史料によって裏付けられた事実ではありません。
働きすぎで衰弱した説
豊臣秀長は、軍事・政治・外交と多方面で活躍し、豊臣政権を支え続けました。
この激務が体を蝕んだのではないか、という見方も根強くあります。
当時52歳という年齢は、現代の感覚よりも高齢とみなされていました。
過重な政務負担が持病を悪化させた可能性は、十分に考えられる推測です。
毒殺された説はどこまで本当?
豊臣秀長の症状がヒ素中毒に似ているという指摘から、毒殺説が語られることもあります。
しかし、この説を裏付ける具体的な史料や証拠は、現時点で見つかっていません。
豊臣秀長は温厚な人柄で知られ、大名たちからの信頼も厚い人物でした。
目立った政敵が存在したという記録も乏しく、毒殺説はあくまで一つの俗説として捉えるのが妥当です。
亡くなる直前の秀長の様子
死の間際まで、豊臣秀長がどのように過ごしていたのか。
周囲の記録から、最期の日々の様子が見えてきます。
下半身が動かなくなるほどの重い病状
晩年の豊臣秀長は、下半身が思うように動かせないほど、病状が悪化していたと伝えられています。
それでも政務から完全に退くことはなく、可能な限り職務にあたろうとする姿勢を崩さなかったといいます。
秀吉たちも快復を祈っていた
天正18年(1590年)10月、豊臣秀長の病気平癒を願って作成された都状が、奈良国立博物館に現存しています。
同時期には、甥にあたる豊臣秀次も、談山神社で豊臣秀長の快復を祈願していたことが『談山神社文書』からわかっています。
豊臣秀吉自身がどのような言葉をかけたかという直接的な記録は残っていません。
しかし秀吉の甥までもが快復祈願に動いていた事実は、豊臣家全体が豊臣秀長の病状を深く案じていたことを物語っていますね。
秀長が眠る場所「大納言塚」
豊臣秀長が眠る場所は、現在の奈良県大和郡山市に今も残っています。
奈良県大和郡山市に今も残るお墓
豊臣秀長の墓所「大納言塚」は、奈良県大和郡山市箕山町にあります。
近鉄郡山駅から真西へ徒歩10分ほどの場所です。
江戸時代になると、この墓所は一時荒廃していました。
安永6年(1777年)、地元の春岳院の僧・栄隆や町民たちの尽力によって五輪塔や土塀が整備され、現在に伝わる姿になっています。
死のわずか50日後に起きた千利休の切腹
豊臣秀長の死からおよそ50日後、豊臣政権を揺るがす出来事が起こります。
千利休の切腹です。
豊臣秀長は生前、大友宗麟から相談を受けた際
「内々の儀は宗易(利休)に、公儀のことは宰相(秀長)に」
と言われるほど、豊臣政権内の調整役を担っていました。
この調整役を失ったことが、千利休の運命を左右したのではないかという見方は根強く語られています。
ただし、これも豊臣秀長の死因そのものとは別の話であり、あくまで死後の政権に与えた影響として捉えるべきでしょう。
まとめ
以上、豊臣秀長の死因についてご紹介しました。
『多聞院日記』の発熱・痙攣の記録や、『医学天正記』が示す胃腸系疾患説など、複数の史料から胃腸系の重い病であった可能性が高いとわかります。
ただし正確な病名は、現代でも特定されていません。
癌説や過労説、毒殺説といった諸説も、史料による裏付けが乏しい推測にとどまります。
大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、豊臣秀長の最期がどのように描かれるのか、最後の見どころとなりそうですね。
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