2025年の大河ドラマ 『べらぼう』、楽しみにしている方も多いのでは?
このドラマでは、田沼意次(たぬま おきつぐ) が重要な役どころとして登場していますね!
田沼意次といえば、江戸時代の"改革者"。賄賂政治の象徴として悪評もありましたが、近年は 「実は有能だった!」 と再評価される流れも。そんな意次ですが…… 彼の子孫は今、どうしているのでしょうか?
今回は、
✅ 田沼意次の子孫の現在
✅ 田沼家の家系図や歴史
について詳しく紹介!「現在も田沼家は続いてるの?」と気になるあなたに向けて、スッキリ解説します!
田沼意次の子孫の現在は?
2025年の大河ドラマ『べらぼう』で再び注目される田沼意次。
(渡辺謙さんが演じていらっしゃいますね)
江戸時代の改革者として近年評価が見直されているものの、「子孫は今もいるのか?」と気になる人も多いはず。
実は、田沼家の血筋は 13代目当主・田沼道雄さん に受け継がれています。
かつては「悪名高き政治家の末裔」と言われることもありましたが、近年の意次再評価とともに、その姿勢も大きく変わりつつあります。
田沼道雄さんのこれまでの歩み、そして田沼家の現在の様子について詳しく見ていきましょう。
13代目当主・田沼道雄さんとは?
田沼家の13代目当主である田沼道雄さんは、1924年生まれ。
歴史の中で「賄賂政治の象徴」とされてきた田沼意次の子孫として、複雑な思いを抱えながら育ちました。
学生時代には、日本史の授業で先祖が悪く言われることが耐えられず、授業を休むこともあったというエピソードも残っています。
当時の歴史教育では、「田沼意次=悪政の元凶」といった評価が一般的だったため、子孫としては苦しい思いをしたのかもしれません。
しかし近年、田沼意次の「商業振興」や「財政改革」といった政策が見直される中で、田沼道雄さんも 先祖の名誉回復に向けた活動に関わるようになります。
特に、田沼意次の生誕300年を記念したイベントでは、歴史学者や研究者と共に「田沼意次の真の評価」について語る場に出席。
単なる子孫としてではなく、歴史を見つめ直す一人の立場としても注目を集めました。
田沼意次の名誉回復への取り組み
田沼意次といえば、かつては「賄賂政治」の象徴とされ、長らく負のイメージがついていました。しかし、近年の研究では、経済政策や財政改革を積極的に推し進めた先進的な政治家だったと再評価されていますよね。
こうした流れを受け、田沼道雄さんも「田沼意次=悪政」という誤ったイメージを払拭するべく、さまざまな取り組みに関わっています。
具体的には、
✔ 田沼意次の政策を研究する学術イベントへの参加
✔ 田沼家にまつわる歴史の発信
✔ 地域での講演活動
などを通じて、先祖の本当の姿を伝える活動 を行っています。
田沼家の血筋は今も続いている?
「田沼家の血筋は今も続いているの?」という疑問を持つ方も多いかもしれませんが、答えは YES です。
田沼道雄さんには1960年代生まれのお子さんが二人おり、現在も田沼家の血筋は続いています。
特に公の場に登場することは少ないものの、田沼道雄さんを通じて、意次の遺伝子は現代にも受け継がれています。
家系の歴史や意次の名誉回復への取り組みは、次の世代へとしっかり受け継がれていくことでしょう。
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田沼意次の家系図ー父親と子供たち
さて、田沼意次の家系って、どうなっているのでしょうか?
【家系図】田沼意次の子孫を図解!
まずは家系図のご紹介です。
田沼意次の父・田沼意行とは?
田沼意次の父、田沼意行(たぬま おきゆき) は、もともと紀州藩の藩士でした。
しかし、意行はただの武士ではありません。なんと、あの徳川吉宗(八代将軍)の側近として仕えた人物なのです!
吉宗といえば、「享保の改革」で有名な倹約家の将軍。
その吉宗が江戸幕府の将軍になる際に、一緒に江戸に上がり、田沼家は幕臣(旗本)として出世コースに乗ることになったのです。
これが田沼家の「のし上がり」の第一歩!
意行の代で幕府の中枢に食い込み、息子・意次の活躍へとつながっていきます。
田沼意次の子供たち
田沼意次の長男、田沼意知(たぬま おきとも) は、若くして幕府の要職「若年寄」に抜擢されたエリート武士。
しかし、そんな彼を襲ったのが「天明の刺殺事件」です。
天明4年(1784年)、江戸城内で佐野政言という旗本に突然斬りつけられ、重傷を負いました。
この事件、単なる個人的な恨みではなく、田沼政権に対する不満が背景にあったと言われています。
結果として意知は8日後に死亡。
父・田沼意次の失脚の引き金となってしまいました。
まさに「田沼政治の終焉」を象徴する悲劇です。
田沼意正、父の失脚を乗り越えて家名を復活!
田沼家の歴史は、意次の失脚とともに終わるかに思われました。しかし、その流れを覆したのが意次の四男・田沼意正(おきまさ)でした。
数奇な運命をたどる意正
意正は、もともと駿河沼津藩主・水野忠友の養子になっていました。
しかし、父・意次の失脚により、田沼家へ戻され、母方の姓「田代」を名乗ることになります。
その後、田沼本家の意定が嗣子なくして没すると、40歳を過ぎた意正が本家の家督を相続!
ここから、田沼家の復活が始まります。
意正は、
✅ 大番頭(幕府の要職)
✅ 若年寄(幕閣の高官)
に任命されるなど、幕府内での地位を回復。
ついには、田沼家の旧領である遠江・相良藩に復帰し、相良城二の丸跡に居館を築くまでになります。
一度は冷遇された田沼家が、なぜここまで回復できたのか?
そこには、ある強力な後ろ盾があったのです。
田沼家の復活の鍵は“水野家の後ろ盾”だった!?
意正が相良藩に復帰できたのは、11代将軍・徳川家斉の側近だった水野忠成(ただあきら)の引き立てがあったから。
実は、意正は一度水野家を養子として離れた後、再び水野家に婿入りしていたという経歴がありました。
この"コネ"が功を奏し、田沼家は幕府の要職に返り咲くことになります。
人脈の重要さは、江戸時代も変わらなかったようですね。
こうして、田沼家は「一族まるごと没落」という最悪のシナリオを回避し、江戸時代後期へと続いていくことになります。
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田沼意次の子孫ー幕末の田沼家の歴史
時代の大きなうねりに翻弄された田沼家。
幕末の激動期を迎える中、 7代目・意留(おきとめ)、8代目・意尊(おきたか)へと家督が引き継がれていきます。
水戸天狗党の乱
8代目意尊の歩みは次のとおり
- 天保11年(1840年) 家督を相続
- 文久元年(1861年) 若年寄に就任
- 元治元年(1864年) 「水戸天狗党の乱」に関与
この「天狗党」とは、水戸藩の尊王攘夷派の武士たちです。 彼らの反乱を鎮圧するため、8代目・意尊は驚くべき決断を下しました。
意尊は、捕らえられた天狗党の武士たちを監禁し、足枷をつけたまま処刑。なんと、352人もの斬首を命じたのです。
この厳しすぎる処罰は、幕府への不信感をさらに高め、 結果的に田沼家の評価を大きく揺るがすことになります…。
明治維新後の田沼家
1869年(明治2年)、意尊が亡くなると、田沼家は存続の危機に直面。
そこで、新たな血筋を迎え入れることに。武蔵岩槻藩を治める名門・大岡家から養子を迎え、田沼家の新たな当主として9代目・田沼意斉(おきなり)が誕生しました。
.田沼家は上総小久保藩へと移り、意斉が藩知事を務めました。 しかし、時代の流れは止まることを知らず…。
翌年、廃藩置県が実施され、 田沼家の武士としての歴史に幕が下ろされます。
江戸時代を生き抜いた田沼家。 その武家としての歴史の終焉は、単なる終わりではなく、 新たな時代への転換点となったのでした。
華族から一般家系へ(子爵時代と爵位返上)
9代目田沼意斉が隠居したあとは、8代目意尊の長女の智恵が継ぐことになりました。
明治時代、田沼家は子爵の称号を受け、華族の一員となりましたが、大正時代になると、田沼家は爵位を返上し、一般の家系へと戻ることを選びます。
とはいえ、田沼家の歴史が途切れたわけではありません。
現代でも田沼家の血筋は続いており、現在は13代目の田沼道雄さんがその家系を継いでいます。
田沼家・歴代当主の流れ
ここで改めて、田沼家の流れを整理してみましょう!
代 | 名前 | 意次との関係 | 生没年 | 役職・特徴 |
---|---|---|---|---|
田沼意行 | 父 | 1686年 - 1735年 | 紀州藩士→幕臣(旗本) | |
1 | 田沼意次 | 本人 | 1719年 - 1788年 | 老中(田沼政治の中心人物) |
田沼意知 | 長男 | 1749年 - 1784年 | 若年寄(江戸城内で暗殺) | |
2 | 田沼意明 | 孫(田沼意知の長男) | 1773年 - 1796年 | 24歳で死去 |
3 | 田沼意壱 | 孫(田沼意知の次男) | 1780年 - 1800年 | 21歳で死去 |
4 | 田沼意信 | 孫(田沼意知の四男) | 1782年 - 1803年 | 22歳で死去 |
5 | 田沼意定 | 又甥 | 1784年 - 1804年 | 家督を継いで1年で死去 |
6 | 田沼意正 | 四男 | 1762年 - 1818年 | 家名を再興 |
7 | 田沼意留 | 孫(田沼意正の長男) | 不明 - 1861年 | 天狗党の乱を鎮圧 |
8 | 田沼意尊 | 曾孫(田沼意留の子) | 1819年 - 1870年 | 版籍奉還により知藩事となる |
9 | 田沼意斉 | 大岡家からの養子 | 1855年 - 1925年 | 廃藩置県により知藩事を解任 |
10 | 田沼智恵 | 玄孫(意尊の長女) | ||
・ ・ ・ |
||||
13 | 田沼道雄 | 子孫(13代目) | 1924年 - 現在 | 13代目当主 |
こうして田沼家の家系の流れを見ると、田沼家がいかに波乱万丈な歴史を歩んできたかが分かりますね。
養子を迎えたりしながらも、幕末・明治維新の時代を乗り越え、現在もその血筋が続いているのは驚きです。
まとめ
田沼意次の家系は、江戸時代の改革の最前線に立ち、数々の試練を乗り越えてきました。
✔ 父・田沼意行の出世によって、田沼家は幕臣に
✔ 長男・意知は暗殺され、田沼政治は終焉
✔ 四男・意正が家名を再興し、幕末まで続く
✔ 明治時代には華族となるが、大正期に爵位を返上
✔ 現代では13代目の田沼道雄さんがその血筋を継承
「賄賂政治の象徴」とされていた田沼意次ですが、彼の子孫たちは歴史の荒波を乗り越え、現代までその名を受け継いでいます。
2025年の大河ドラマ『べらぼう』で田沼意次がどのように描かれるのか、ますます楽しみですね!
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