2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」では、蔦屋重三郎が主人公として描かれますね。
「蔦屋重三郎」と聞くと、浮世絵や江戸時代の出版文化を思い浮かべる人も多いかもしれませんが、彼の家族や背景についてはあまり知られていません。
この記事では、
- 蔦屋重三郎の家系図や家族構成
- 重三郎が養子として迎え入れられた喜多川家との関係
- 蔦屋重三郎の子孫
などについて、わかりやすく解説していきます。
蔦屋重三郎の家系図
蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう、1750年頃 - 1797年)は、江戸時代のメディア王。江戸時代中期の日本の出版業者であり、浮世絵版画や黄表紙といった出版物で有名な人物です。重三郎は、浮世絵師の喜多川歌麿や葛飾北斎、戯作者の山東京伝など、多くの芸術家や作家を支援し、その作品を出版しました。
まずは蔦屋重三郎の家系図をみてみましょう。
蔦屋重三郎の家系図
では蔦屋重三郎の家系と家族について詳しくみていきましょう。
蔦屋重三郎の家族と両親
蔦屋重三郎は寛延3年(1750年1月7日)に父・丸山重助と母・津与の間に生まれました。
幼名は珂理(からまる)で、本名は丸山珂理、養子に出された後は喜多川珂理となります。
父: 丸山重助(まるやま じゅうすけ)
重三郎の父・丸山重助は、御三家の筆頭・尾張徳川家の領地から江戸に移り住み、吉原(現在の台東区千束)で働いていました。当時の「人材派遣業」「職業安定所」であった口入屋の斡旋を受けた可能性が高いとされています。父親の仕事の詳細については明らかにされていません。
母: 広瀬津与(ひろせ つよ)
江戸出身で、津与という名前で記録されています。重三郎が7歳の時に両親が離婚し、その後、重三郎は喜多川家の養子となりました。重三郎の兄弟姉妹の有無も不明です。
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蔦屋重三郎の養家は喜多川家
両親が離婚した後、重三郎は喜多川家の養子となり、「蔦屋」の屋号を引き継ぎました。この喜多川家は元々茶屋を経営しており、蔦屋の名はここから来ています。
養父・養母について
蔦屋重三郎の養父についてですが、重三郎が育った喜多川家は江戸時代の吉原で茶屋を営む家系でした。重三郎は、実両親が離婚した7歳のときに喜多川家の養子として迎えられています。
養家である喜多川家は、吉原の引手茶屋を経営しており、茶屋の屋号「蔦屋」の名を継いで、重三郎は「蔦屋重三郎」として知られるようになりました。この環境が、後の蔦屋重三郎の出版業への進出の大きなきっかけとなったのです。
喜多川家の詳細については、蔦屋重三郎の養父や養母に関する明確な名前の記録は見つかっていません。しかし、家業としての茶屋を支えながら、重三郎を育てたと考えられます。重三郎はその後、浮世絵や黄表紙の出版に力を注ぎ、喜多川歌麿や東洲斎写楽といった才能を発掘しました。
義理の兄・蔦屋 治郎兵衛
喜多川家には、重三郎の義理の兄となる「次郎兵衛(じろべえ)」がいました。
次郎兵衛は、喜多川家の一員で、蔦屋の名を継いで引き手茶屋(吉原の入口付近で顧客を引き入れる茶屋)を営んでいたとされています。
次郎兵衛の存在が、重三郎の事業の基盤作りに影響を与えた可能性がありますね。
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蔦屋重三郎の妻や子どもは?家族構成は謎が多い
蔦屋重三郎には妻がいたことは史実でも確認されていますが、その人物像についてははっきりとした記録が残っていません。
一部の書籍や映画では、妻の名前を「トヨ」とする説が見られます。たとえば映画『HOKUSAI』や増田晶文氏の小説『稀代の本屋 蔦屋重三郎』では、本屋の町娘「トヨ」が重三郎を支える存在として登場します。ただし、これは創作に基づく描写であり、史料としての裏付けは不確かです。
また、大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』では、橋本愛さんが演じる妻「てい」が登場します。
こちらは脚本家・森下佳子さんによるオリジナルのキャラクターで、実在の証拠があるわけではありませんが、史実の断片や戒名などをもとに脚色されたと考えられます。
➡詳しくは「蔦屋重三郎の妻『てい』は実在した?」の記事でくわしく紹介しています。
妻との間に子どもは?子孫はいるの?
蔦屋重三郎と妻との間に子どもがいたかどうかは不明です。残された記録では、重三郎の死後、番頭が婿養子となって家業を継いだとされており、血縁の子孫が残ったかどうかは確かめられていません。
なお、現在全国に展開している「TSUTAYA(蔦屋書店)」は、蔦屋重三郎の直系子孫が経営しているわけではなく、重三郎の文化的な功績にあやかって名付けられたブランド名となっています。
⇒ 蔦屋重三郎とTSUTAYAの関係とは?名前の由来や共通点を解説!
蔦屋重三郎の跡継ぎは?
蔦屋重三郎の死後、蔦屋の事業は番頭であった勇助が引き継ぎました。
勇助は、蔦屋家の婿養子として二代目の「蔦屋重三郎」を襲名し、事業を引き継ぎました。この二代目勇助は、葛飾北斎が描いた狂歌本『潮来絶句集』を出版しましたが、その装丁が華美であるとして処罰を受けたことが記録されています。
二代目の後は、息子の祐助が三代目を継承し、四代目には後の「二世三亭春馬」が、五代目には喜多川竹吉がその名を継いだと記録されています。
蔦屋重三郎の死後も、事業は「耕書堂」という屋号のもとで存続し、江戸時代から明治初期に至るまで、蔦屋の名は江戸の出版業界で一定の影響力を持ち続けました。この継続には、代々の当主たちが事業の基盤を守りながらも、浮世絵や教育書といった新たなジャンルへの取り組みを進めたことが大きかったようです。
以上、今回は「蔦屋重三郎の家系図や家族」についてお伝えしました。
蔦屋重三郎の成功には、家族や育った環境の影響が大きかったことは間違いなさそうですね。幼い頃に喜多川家の養子になったことで、江戸の庶民文化に触れ、人とのつながりを自然と育んでいったのでしょう。妻や、義理の兄といった家族の支えも、蔦屋重三郎が出版の道を歩み続けるための心の支えになったはず。血のつながりだけでなく、人との縁を大切にしながら柔軟に生きた重三郎の姿が、今も私たちに親しみ深く感じられますね。

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