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佐野政言の家系図|田沼家は本当に佐野氏の家臣だったの?|べらぼう深掘り

2025年の大河ドラマ『べらぼう』で注目を集めている佐野政言(さの・まさこと)。

田沼意次の屋敷を訪れ、「田沼家は佐野氏の家臣だった」と意知に家系図を示すシーンを覚えている方もいるのではないでしょうか?

とはいえ、本当に佐野家は名門だったのでしょうか?そして田沼家との主従関係は事実だったのか――。

今回は、佐野政言の家系図をひもときながら、その真相に迫ります。

 

佐野政言の家系図は名門?本家・佐野氏との関係は?

大河ドラマ『べらぼう』で、佐野政言が田沼意次に「自分の家は名門・佐野家の出だ」として家系図を差し出す場面が描かれました。

ところが、田沼は「由緒などいらぬ」とその系図を池に投げ捨ててしまいます。

この印象的なやり取りが放送後話題となりましたが、視聴者の間では「本当に佐野政言の家は名門だったの?」という疑問も浮かび上がってきますね。

ここでは、佐野政言のルーツや家系図、本家・佐野氏との関係について、詳しく見ていきましょう。

 

もともと佐野氏は名門の家柄だった

佐野政言が名乗った「佐野氏」は、そもそも名門の血筋を持つ武家です。

藤原秀郷の流れをくむ一族で、鎌倉時代には源頼朝に仕えて御家人として活躍。

室町時代から戦国期にかけては、現在の栃木県佐野市を拠点とし、唐沢山城に居を構えた戦国大名としても知られています。

戦国時代の佐野氏は紆余曲折を経ながらも一時は3万9000石を領し、江戸初期には旗本として再興されました。

つまり、「佐野氏」という名はたしかに由緒ある家柄を象徴するものだったのです。

 

佐野政言の家系図は“本家”とは別系統

では、佐野政言の家系はその名門・佐野氏と直結していたのでしょうか?

実はそうではありません。

政言の家系は、「正安系佐野氏」と呼ばれる別系統の旗本家の一族であり、本家である下野の佐野氏とは別の家として記録されています。

その祖は佐野正安という人物で、すでに戦国時代の中頃には三河の松平清康(徳川家康の祖父)に仕えていたとされます。

つまり、本家が戦国大名として活躍していた頃、政言の祖先はすでに別地域で活動していたことになります。

 

政言の家系図「佐野善左衛門家」

佐野政言の家系は、由緒ある佐野氏の流れをくむ家柄ではありますが、家系図をたどると「本家」から枝分かれした分家にあたります。

政言が生まれた「佐野善左衛門家」は、佐野政宣の子・政之を祖とする系統で、いわば“分家の家系”にあたります。

以下に、政言の家系をまとめた略系図を示します。

 

【初代】佐野正安
 └──【二代】佐野正吉
    └──【三代】佐野正長
      ├──【四代】政宣(本家)
      │   └──【五代】政信──…
      └──【四代】政之(分家:佐野善左衛門家)
         └──政朝
            └──政矩
               └──政武
                  └──政豊
                     └──政言(六代目・善左衛門家として)

 

政言の家系「佐野善左衛門家」は、蔵米300俵という比較的少ない知行の旗本で、家格としては決して高くありませんでした。

確かに佐野氏の血を引く“名門の流れ”ではありますが、幕府内で重きを置かれていた本家筋とは異なり、政言の家が本家と同列に見なされることは難しかったのが実情です。

佐野政言の家系図は“名門”の名を借りたアピールだった?

佐野政言が差し出した「名門・佐野家」の家系図は、たしかに藤原秀郷流の一族としての系譜はありましたが、実際は名門・下野佐野氏の直系ではなく、古くに分かれた旗本家の末裔でした。

というわけで、なお、佐野政言が持参した系図に記されていた「田沼家が佐野氏の家臣であった」という主張については、史料上の裏付けは確認されていません。

政言の家系が本家佐野氏の分家中のさらに庶流であることを考えると、この主張は家格を上げるための方便だった可能性も否定できないでしょう。

つまり、政言は“佐野”という名と家系図を使って、自らの家柄を実力以上にアピールしようとした可能性が高いのです。

その誇りと悔しさが、最終的に田沼意知への刃傷事件へとつながっていったのかもしれません。

 

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なぜ政言は「名門の系図」にこだわったのか?

『べらぼう』では、佐野政言が田沼意知に家系図を差し出す場面が描かれましたね。

その“由緒正しさ”はドラマ演出?それとも史実?ここではその背景についてみていきましょう。

「由緒正しさ」の強調は演出だけではない

ドラマで政言が「由緒ある佐野家の出自」を誇る姿には、政言独自のプライドと焦りが同居しています。

実際、系図には「藤原秀郷流・佐野正安を祖とする」との記述があり、幕府系図集『寛政重修諸家譜』にもその家系は登録されていました 。

これは見せかけではなく、政言が自分の家を堂々と“名門”として語れる根拠の一つだったのです。

 

『寛政重修諸家譜』にも載る系図の存在

寛政重修諸家譜』は、江戸時代後期に諸家の家系を集めた公式の系図集です。

そこには「佐野善左衛門政言」の名とともに、家督相続や役職などが記載されています 。

こうした記録によって、政言の系図は単なる自称ではなく、史料としての信憑性も備えていたといえます。

にもかかわらず、田沼家は鄭重に差し出された系図を見ても全く心を動かさず、「由緒は無用だ」と一蹴し、系図を池へ投げ捨てます 。

これは「名門アピール」が世間に通じないことを象徴しており、政言が抱く痛烈な屈辱と焦燥感がこの行動に集約されているようにも思えますね。

プライドは武器にならず、悲劇の起点に

政言が家系図に執着したのは、「自分は名門の旗本だ」という誇りと、そこから期待される社会的価値を示したかったからに他なりません。

しかし、田沼家からの反応は全く逆でした。自らのルーツを盾にすらできなかった政言の痛みが、この時点で頂点に達し、後の田沼意知に対する刃傷事件へと至る伏線になっているのです。

 

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まとめ:家系図にすがった佐野政言

名門・佐野家の出自を誇る佐野政言は、家系図を手に田沼意知との対話に臨みました。

それは旗本としての誇りをかけた、いわば“最後の武器”でもありました。

しかし、その系図は田沼に無造作に扱われ、政言の思いはあっけなく否定されます。

ここに見えるのは、家柄へのこだわりと、それにすがらざるを得なかった一人の武士の哀しさです。

家系図は名誉の証か、それとも過去に縛られる重荷なのか。

佐野政言の姿は、現代に生きる私たちにも「肩書や背景に頼らず、どう自分を生きるのか?」という問いを投げかけているのかもしれません。

佐野政言がこだわった「名門の家系図」は、田沼意知を斬るという事件の伏線のひとつではありますが、それだけが原因ではありません。

佐野政言の中には、時代の変化についていけない苦悩や、名門旗本としての誇りと焦り、そして田沼家への複雑な感情が渦巻いていたように思えます。

なぜ佐野政言は、若年寄・田沼意知に刃を向けたのか

その背景を深掘りした記事も、ぜひあわせてご覧ください。

⇒ 佐野政言(まさこと)はなぜ田沼意知を斬った?世直し大明神と呼ばれた理由

 

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