2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」では三条天皇が病気で苦しむ姿が描かれていますね。
三条天皇の病気は眼病でしょうか?原因はいったい何だったのでしょうか?
今回は、
- 三条天皇の眼病や耳の病気の原因
- 三条天皇の最期と死因
について解説します。
三条天皇の病気は何?眼病?
2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」では、病に苦しむ三条天皇の姿が描かれています。この三条天皇の病気について、史料の中で特に注目されるのが「眼病」、つまり目の病気です。
三条天皇は視力の低下に悩まされていましたが、なぜそれが起こったのでしょうか?具体的にどのような病状だったのか、当時の治療法や考えられる原因も含めて探ってみましょう。
三条天皇が抱えていた「眼病」とは?
三条天皇の眼病について、最も詳細に書かれているのが
- 『大鏡』
- 『小右記』
といった平安時代の記録です。
これらによると、三条天皇は片目の視力が著しく低下していたとされています。
『小右記』には、1014年(長和3年)3月1日に「片目が見えなくなった」という記述があり、これが三条天皇の病気の深刻さを示しています。
当時の医学では、視力低下の原因について十分な理解がありませんでした。そのため、天皇の視力が失われていく様子は霊的な原因、たとえば「怨霊の祟り」などとも結びつけられていました。
『大鏡』には、
延暦寺の僧である桓算(かんさん)の怨霊が三条天皇の目に影響を与えた
という話が残されています。このように、病気に神秘的な解釈を付けることで、その原因を説明しようとしたのです。
眼病の「治療法」としての水銀服用
三条天皇は眼病の治療のため、「金液丹(きんえきたん)」と呼ばれる薬を服用していたとされています。この金液丹は、当時の貴族の間で重宝されていた薬で、水銀を主成分とするものでした。
水銀は現代では毒性があることが知られていますが、当時は薬効成分として利用されており、特に視力改善や長寿の薬として信じられていたのです。
しかし、三条天皇の視力は回復せず、逆に悪化していきました。
水銀の毒性は神経にダメージを与え、長期間の服用により中毒症状を引き起こす可能性があります。これにより、視力のみならず、全身の健康状態にも影響が及んでいたとも考えられます。
当時は水銀の危険性が理解されていなかったため、三条天皇が「薬」として信頼していたものが、実際には病状を悪化させてしまっていたのです。
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三条天皇は聴力も低下していた?
三条天皇が視力低下に苦しんでいたことはよく知られていますが、実は聴力にも問題があったことが史料からわかっています。三条天皇がどのような状況で聴力を失っていったのか、その原因や背景について詳しく見てみましょう。
耳が聞こえなくなるという症状は、当時の治療法が乏しかったことから、非常に深刻な問題だったと考えられます。
聴力低下の症状と背景
三条天皇の聴力低下については、『小右記』に記録されています。
『小右記』には、1014年(長和3年)3月1日の日付で、
天皇が「片耳が聞こえない」という状態に陥っていた
と記されています。
視力だけでなく聴力にも問題があるということは、三条天皇の病状が全身的な健康状態の悪化を示唆していた可能性があります。
視力や聴力を同時に失っていく状況は、政務を行う上で大きな支障を来し、天皇としての権力や威信にも影響を及ぼしたといえるでしょう。そのため、政治的にも譲位を考えざるを得ない状況が生まれたのです。
耳の治療法が限られていた平安時代
当時の平安貴族の間では、病気が霊的な力によって引き起こされると信じられることが多く、耳の聞こえが悪くなることについても同様でした。
三条天皇もまた、視力低下の原因を怨霊の祟りだと考えられていたように、聴力の低下についても霊的な力が原因と見なされた可能性があります。
これにより、耳の治療においても物理的な手段よりも祭祀や祈祷が主な治療法とされました。
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三条天皇の最期の様子は?死因は何?
三条天皇が亡くなったとき、三条天皇の健康状態はすでにかなり悪化していました。
視力の低下や聴力の障害があっただけでなく、治療薬として服用していた水銀を含む薬が影響を及ぼしたとも考えられます。三条天皇の最期の様子や、その死因について詳しく見てみましょう。
三条天皇が亡くなったのはいつ?
三条天皇が崩御されたのは、譲位してからわずか1年後の1017年6月5日(寛仁元年5月9日)です。
視力や聴力がほとんど失われていた三条天皇は、政務を遂行できない状態にまで衰弱しており、在位中からすでに苦しんでいました。譲位後も体調は回復せず、崩御を迎えることになったのですね。
天皇の最期について、具体的な記録は多く残っていませんが、当時の習慣から推測すると、側近や親族が最後を見守っていた可能性があります。
死因は?
三条天皇の視力と聴力の問題は、政治を行う上で大きな妨げとなりました。
三条天皇は眼病に悩まされ、片目が見えなくなったことが記録されています。さらに、片耳の聴力も失われており、これが政務に大きな影響を及ぼしました。さらに水銀が含む薬の長期間の服用が天皇の体調をさらに悪化させたと考えられています。
当時は水銀の危険性が知られておらず、視力改善や健康維持のための薬として信じられていましたが、三条天皇にとってはむしろ逆効果となりました。視力と聴力を同時に失っていく中で、天皇の心身の負担は相当なものであったと考えられます。
ストレスも原因?
視力や聴力の問題以外にも、三条天皇は脚気(かっけ)などの健康問題に悩まされていたとされています。また、藤原道長から譲位を迫られたことで精神的なストレスも大きく、これが体調の悪化に拍車をかけた可能性があります。
政治的な圧力を受け、第一皇子である敦成親王(後一条天皇)に位を譲った三条天皇は、その後も健康が回復することはなく、最期を迎えることとなりました。
三条天皇の崩御は、単に病気や体調不良だけでなく、当時の政治的な背景や医療の限界も影響していたのではないでしょうか。三条天皇の最期は、平安時代の権力争いや貴族社会の複雑さを象徴しているともいえるでしょう。
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三条天皇が晩年に詠んだ百人一首の歌が哀しい...
三条天皇が晩年に詠まれた和歌
「心にも あらで憂き世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな」
は、百人一首の第68番として知られています。この歌の背景や現代語訳について詳しくみてみましょう。
現代語訳と背景
現代語訳
「本意ではなく、この辛い世の中で生き続けるならば、きっと恋しく思い出すことだろう、この夜更けの月を。」
三条天皇(976年~1017年)は、第67代天皇であり、在位期間は1011年から1016年までの約5年間でした。在位中、眼病に悩まされ、視力が低下していく中で、藤原道長からの圧力もあり、退位を余儀なくされました。
この歌は、退位を決意された頃、夜空の月を見上げながら詠まれたとされています。
解説
この和歌は、三条天皇の深い悲しみと無念さを表現しています。
- 「心にもあらで」は「本意ではなく」
- 「憂き世」は「辛い世の中」
- 「ながらへば」は「生き続けるならば」
という意味です。
つまり、望まぬままにこの辛い世の中で生き続けるならば、今夜見ているこの美しい月を、後に懐かしく思い出すことだろう、という心情を詠んでいるのですね。
これは三条天皇が譲位を決意した際の心境を映し出しており、三条天皇の孤独感や無力感が伝わってきます。また、月を通じて永遠性や普遍性を感じさせることで、三条天皇の深い感慨を表現していますね。
この和歌は『後拾遺和歌集』にも収録されており、平安時代の和歌文学の中でも特に感慨深い一首として評価されています。
三条天皇に譲位を迫った道長もそういえば、同じ「月にまつわる歌」を詠んでいますよね。なんだか対照的なふたりの句です。
以上、今回は「三条天皇の病気」についてお伝えしました。
三条天皇は視力や聴力の低下、さらには水銀を含む薬の影響も重なり、健康状態が悪化していったのですね。その背景には、当時の医療技術の限界や、藤原道長との政治的な圧力も関わっていたことがわかりましたね。
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