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三条天皇と藤原道長の関係は?不仲だったの?対立した理由を解説!

平安時代、皇位と権力をめぐる激しいドラマが繰り広げられていました。その中心にいたのが、理想主義の三条天皇と、絶大な影響力を誇る藤原道長。二人の関係は、表向きは協調的に見えながらも、実は裏で対立が絶えなかったと言われています。

  • 本当に三条天皇と藤原道長は「仲が悪かった」のか?
  • なぜ対立してしまったのか?

この記事では、二人の関係とその裏にある政治闘争を掘り下げていきます。

 

三条天皇と藤原道長の性格と背景ー2人の関係は?

平安時代の政権を舞台に、三条天皇と藤原道長は異なる背景を持つ二人でした。

ふたりの血縁関係

藤原道長と三条天皇は、母方を通じて血縁関係にあります。三条天皇の母・超子は道長の姉であり、そのため三条天皇は道長の甥にあたります。

つまり、道長は三条天皇の母方のおじにあたる人物です。

三条天皇の家系図

 

三条天皇の理想

三条天皇は理想主義の天皇として、藤原氏の影響下に置かれたくないという強い意志を持っていたといいます。

 

特に即位までの25年間、皇太子として辛抱強く過ごし、ついに35歳で天皇に即位。

一条天皇の治世を長年みてきて、自分の方が血筋もよく、優秀であると自負していた三条天皇は、独自の政治を行いたいという意志が強かったのです。

「小右記」によると、三条天皇は「即位したからには自分の思うようにやりたい」と語っていますね

 

一方で、藤原道長は権力の頂点に立ち、自らの娘を天皇の后に送り込むことで絶大な影響力を行使していました。道長は自身の娘、彰子を通して次の天皇に自分の孫を据えようとしており、この意図が三条天皇との対立を深める一因となりました​。

このように、三条天皇の理想と道長の野望が衝突することで、二人の関係は微妙であり、権力闘争の火種が生まれることになります。

 

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三条天皇の即位ー道長との対立関係の始まり

三条天皇が即位したのは36歳の時。彼は長く皇太子の座にあり、しっかりした考えを持った大人として即位しました。

一方、藤原道長にとっては幼い天皇の方が操りやすく、自分の力を発揮しやすい環境だったため、すでに成熟した三条天皇との間に緊張が生まれました。

特に、道長は自分の娘・妍子を天皇の中宮(正式な妃)とする一方で、三条天皇は長年の妻である娍子を皇后としました。この「二后並立」の状態は異例で、道長はこれに強く反発。こうして、天皇親政を目指す三条天皇と、自分の外孫である敦成親王を次の天皇にしようとする道長の権力争いが本格化し、二人の対立が決定的なものとなったのです。

 

三条天皇と藤原道長の対立関係の最大要因は?

三条天皇と藤原道長の関係が悪化した最大の理由は、後継者問題でした。

三条天皇は、自身の皇子である敦明親王を次の天皇に据えたいと考えていましたが、道長は自分の孫である敦成親王(後の後一条天皇)を強く推していました。この対立は、単なる意見の食い違いではなく、朝廷全体を巻き込む大きな権力闘争へと発展します。

さらに、三条天皇が妃・娍子を皇后にしたことも道長を怒らせます。

道長は自分の娘・妍子を中宮として送り込んでいたのですが、天皇が娍子を皇后に任命したことで、道長は自らの影響力が弱まることを恐れたのです。

 

このような背景から、道長は三条天皇に対して嫌がらせを繰り返し、結果的に天皇は病と戦いながらも道長の圧力に屈し、退位を余儀なくされました。

このように、二人の関係は表面的には冷静を装いながらも、深いところで激しい権力闘争が繰り広げられていたのです。

 

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道長の圧力勝利?三条天皇の譲位劇の舞台裏

三条天皇が譲位するまでの経緯をみてみましょう。

道長と三条天皇の対立関係の流れ

具体的に説明していきますね。

 

道長の執拗な圧力と三条天皇の苦悩

三条天皇は、即位後も親政を目指し道長の権力を抑え込もうとしましたが、道長の圧力は容赦ありませんでした。

特に1014年から天皇の健康状態が悪化すると、道長はこれを理由に繰り返し譲位を迫ります。さらに内裏の火災などの不運が重なり、三条天皇は政治を続けるのが困難になっていきます。

 

譲位の条件

三条天皇は譲位を決意する際、息子の敦明親王を皇太子にすることを条件としました。道長はこの要求を一度は飲んだものの、最終的には敦明を退位させ、道長の孫である後一条天皇を即位させます。

失意の三条天皇の最期

譲位した翌年、三条天皇は42歳という若さで亡くなります。三条天皇は最後まで道長の圧力に抗い続けましたが、最終的には譲位を余儀なくされました。この譲位劇は平安時代の権力闘争の象徴的な出来事となっています。

 

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三条天皇と道長の対立関係が平安時代に残したインパクト

三条天皇と藤原道長が対立した結果、平安時代にどのような影響を与えたのでしょうか?

 

道長の力がピークに

三条天皇と藤原道長の対立は、最終的に道長の権力をより強固にしました。道長は、自分の孫を次の天皇にし、天皇の家族として政治に強い影響力を持ちました。この時代は、道長の力が最も強かった時期と言われています。

道長が「この世は自分のものだ」と詠んだ有名な句があるように、まさにその言葉通り、道長の力はこの時代の頂点に達していました。

⇒ 藤原道長の辞世の句とは?この世をば…の新解釈と有名な歌まとめ

 

天皇の力が弱まる

一方で、三条天皇が譲位(天皇の座を譲ること)したことで、天皇自身の力が弱くなっていきました。

三条天皇は、自分で政治をしたいと思っていましたが、その願いは叶わず、結局道長のような人に頼らざるを得なくなりました。これにより、天皇の政治的な役割がどんどん小さくなっていきます。

 

後三条天皇の復活へのきっかけ

三条天皇の無念さは、後に彼の子孫である後三条天皇が、再び天皇の力を取り戻すために頑張るきっかけとなりました。

後三条天皇は、道長のような人物が政治をコントロールするのではなく、天皇がもっと力を持てるようにしようとしました。これが「院政(いんせい)」と呼ばれる新しい政治の始まりです。

こうして、三条天皇と道長の対立は、平安時代の政治に大きな変化をもたらしたのです。

 

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静かな余生を送った三条天皇の晩年

三条天皇は1016年に天皇の座を譲り、太上天皇(上皇)という称号を得ました。

しかし、彼の健康はどんどん悪くなり、特に目が見えづらくなったことが大きな問題でした。そのため、政治に関わる力を持つことは難しくなってしまいました。

1017年、天皇は仏教に心を向け、出家してお坊さんになり、静かに暮らすことを選びます。そして同じ年の6月5日、42歳で亡くなりました

三条天皇が亡くなった後、三条天皇は「三条院」という名前で知られるようになりました。これは、彼が退位後に住んでいた宮殿の名前からきています。退位後の生活では、健康を少しでも回復しようとしながら、仏教に帰依し、穏やかに過ごしていたということです。

 

まとめ

藤原道長と三条天皇の対立は、「光る君へ」の物語でも描かれている、平安時代の大きな権力争いの一部です。三条天皇は、自分で政治を行いたいと強く望みましたが、道長の力には勝てず、最終的には天皇の位を譲らざるを得ませんでした。

この対立が、道長が有名な「この世をば…」の句を詠んだ絶頂期を象徴しています。道長の策略と三条天皇の苦悩は、平安時代の政治と権力の流れを知るためにとても重要なポイントですね。

光る君へ第41話以降ではこの二人の対立が描かれることになります。どんな解釈で描かれるのかとても興味深い、楽しみですね!

 

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