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大岡弥四郎事件をわかりやすく解説!家康に謀反!処刑の鋸挽きとは?

どうする家康第20話で登場する大岡弥四郎。

信康の家臣として描かれますが、史実ではどんな人物だったのでしょうか?

今回は、大岡弥四郎事件について背景、原因や処刑方法をリサーチしました。

 

大岡弥四郎とはどんな人物?

戦国時代から安土桃山時代の武士で、徳川家康の長男・松平信康の家臣であった大岡弥四郎。

大岡弥四郎の生誕は不明ですが、大岡忠賀として生まれ、通称「弥四郎」と呼ばれていたようです。

 

家康の御用も務めていた人物で、元々は徳川家の家臣。

中間(ちゅうげん)と呼ばれる身分でした。

 

優秀な家臣?

大岡弥四郎は、生まれ持った能力が高く、農村に詳しく計算を得意としていました。

そこで、会計や租税に係る役職をこなします。

 

気が利く人物で、矢作川が氾濫した際も真っ先に瀬踏みをしました。

200石を取り、渥美郡20余郷の代官に。

松平家の家臣で松平信康の家老・二俣城主の中根正照の娘を妻にしています。

 

家康の浜松城と信康の岡崎城を往来するほど信頼されていましたが、仕事が出来るほど悪いことも考えていたようで、老臣たちを困らせていたとの話も。

 

大岡弥四郎事件で処刑に

家康が浜松城に移り、岡崎城を信康に任せてから5年後の1575年には、大岡弥四郎は岡崎町奉行となります。

しかし、数々の悪事が家康の耳に入り、家財没収等の処分を受けることに。

家康に恨みを持ったとされ、「大岡弥四郎事件」につながっていくのです。

 

家康への謀反のたくらみは失敗に終わり、大岡弥四郎は家康に処刑されたのでした。

 

その大岡弥四郎事件とは、具体的どのような出来事だったのでしょうか?

詳しくみていきましょう。

 

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大岡弥四郎事件をわかりやすく解説

1575年(天正3年)頃、松平家と武田信玄の後を受け継いだ武田勝頼との戦いは、激しさを増しており、足助城に向かった松平軍には、負傷者が多数出ていました。

そんな中、岡崎では、浜松城の家康に反発するかのような動きがあります。

 

大岡弥四郎と松平新右衛門が中心となって、敵対する武田軍とコンタクトを取るのです。

さらに、岡崎城の門を開き武田軍を岡崎城内に引き入れる作戦を立て、武田勝頼にその旨の書状を送っていたのでした。

 

しかし、松平家に謀反を企んだものの、共犯の山田八蔵がおじけづき、家康側に密告します。

松平家は、逆に大岡弥四郎を罠にはめることで謀反を防ぎ、反乱を収めたのです。

家康にも連絡が伝わると、家康は無情ともいえるほどの刑罰を与えました。

 

処刑方法は鋸挽きの刑

大岡弥四郎の謀反に怒り心頭の家康は、大岡弥四郎の妻子5人をはりつけの刑にしました。

そして、大岡弥四郎を浜松城下に馬で引き回し、妻子の刑を見せつけます。

 

大岡弥四郎は鋸挽き(のこびりびき)の刑に処せられました。

岡崎で生き埋めにし、竹の鋸で首を挽かせる刑により、生き地獄にしたのです。

※鋸挽きとは、罪人の首に浅く傷をつけ、鋸を近くに置いて被害者親族や通行人に少しずつ挽かせながら、ゆっくりと死なせる刑罰です。江戸時代以降は、『御定書百箇条』最も重い死刑として掲げられました。

 

大岡弥四郎の処刑では、往来する人に鋸を挽かせ、7日後に死亡するまで続けられたとのこと。

 

それは、織田信長の命令ではなく、家康自身の命令でした。

武田氏に与しようとする者に対する見せしめともいえるものです。

 

共犯の、松平新右衛門は、大樹寺で自害。

他の共謀者も討ち取られる等、責任を取らされました。

 

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信康事件へとつながる

大岡弥四郎事件は、大岡弥四郎が武田勝頼と内通するという事件ですが、家康の正妻・築山殿の関与を示す資料もあります。

息子の信康も関与していたのでは?との説もありますが、当時は罪に問われることなく終わっています。

 

大岡弥四郎事件から9年後、1579年(天正7年)8月3日、岡崎城に入った家康が、信康を岡崎城から追い出し、二俣城に移します。

築山殿が8月29日に遠江で殺害され、9月15日には、信康が家康の命令により自害
(これが信康事件ですね)

 

織田信長の娘・五徳は、岡崎の動きを常に信長に連絡しており、酒井忠次がある程度の動きを認めたことで、家康自身が処罰を決めたとされています。

 

武田勝頼と内通しているのではないかとの疑いによるものですが、当時の松平家は、武田との戦を続けていこうとする浜松と、岡崎を守る派とに分裂しかけていました。

そこで、武田側が岡崎城につけこんだのではないかとされています。

 

大岡弥四郎事件と信康事件は、どちらも武田勝頼との内通の疑いから始まっており、無関係とはいえないでしょう。

 

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大岡弥四郎と大岡越前の関係は?

さて、少し話は変わりますが、時代劇でも有名な南町奉行・大岡越前(大岡忠相)と大岡弥四郎(大岡忠賀)との関係も気になるところ。

大岡越前は、大岡弥四郎の従兄弟である大岡忠勝の子孫に当たります。

 

一説では、大岡弥四郎事件のこともあり、そこで大岡一族に配慮する形で、大岡弥四郎を大賀弥四郎という名前にしたと伝えられています。

 

「どうする家康」で大岡弥四郎を演じるのは?

NHK大河ドラマ「どうする家康」で大岡弥四郎の役を演じるのは「毎熊克哉」さん

徳川家康の息子・信康に仕える優秀な家臣として登場するものの、野心家で家康に謀反する人物を演じます。

どうする家康の大岡弥四郎役

毎熊克也さんは、1987年3月28日生まれの36歳。

2010年の舞台「TIC-TAC」で、初舞台でありながら初主演を務めています。

 

2019年には、NHK連続テレビ小説「まんぷく」で朝ドラ初出演

存在感を出していましたね。

 

今回のどうする家康では大河ドラマ初出演となります。

岡崎クーデターと題された第20話限りの出演となりそうですが、どんな爪痕を残すのか、楽しみですね!

 

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