2025年のNHK大河ドラマ『べらぼう』では、松平定信が幕政改革に挑む重要人物として描かれています。
将軍・徳川吉宗の孫として生まれた定信は、家系図をたどれば将軍に最も近い存在でしたが、なぜその座につくことはなかったのでしょうか?
そして松平定信が行った寛政の改革は、町人文化や蔦屋重三郎ら出版人にどんな影響を与えたのでしょうか?
この記事では、
- 松平定信の家系図と徳川家治との血縁関係
- 将軍になれなかった理由とその背景
- 寛政の改革の内容と、蔦屋重三郎ら町人文化への影響
などについて、史実をもとにわかりやすく解説します。
松平定信は何した人?家系図から見る出自と生涯
江戸幕府の名改革者として知られる松平定信。
その名は「寛政の改革」で広く知られていますが、家系図をたどれば、実は将軍の座にきわめて近い存在だったことが見えてきます。
将軍・徳川吉宗の血を引く家柄、そして徳川家治との関係──。
ここでは、松平定信の家系図からその出自をたどり、どのような歩みで政治の中枢にたどり着いたのかをご紹介します。
家系図でたどる松平定信の出自|徳川吉宗の孫という立場
松平定信は、将軍家の後継候補を出すために設けられた御三卿のひとつ、田安家に生まれました。
その家系図を見れば一目瞭然。定信の祖父は、享保の改革で知られる第八代将軍・徳川吉宗。父はその次男・田安宗武で、文人としても知られる人物です。
つまり定信は、徳川将軍家の血筋を濃く引く“将軍候補生”とも言える存在。
その立場は、同時代の将軍・徳川家治とも強く結びついており、まさに江戸政界の中心に近い人物だったのです。
田安家から松平家へ|将軍に近い存在だったからこその養子縁組
将軍家の家系に連なる田安家の跡取りとして育てられた定信でしたが、若き日に大きな転機が訪れます。
安永3年(1774年)、幕命により突然、白河藩主・松平定邦の養子となることが決まったのです。
この決定には、当時政権を握っていた老中・田沼意次の思惑が絡んでいたとされます。
徳川家治の側近として権力を握っていた田沼は、将軍家の血を引く定信が、将来政権に食い込んでくることを警戒していた──という見方もあります。
一方で、兄の田安治察が病弱だったことから、家臣たちは「定信に田安家を継いでもらいたい」と嘆願しましたが、この願いは退けられました。
結果として、定信は将軍家に近すぎたがゆえに、あえて遠ざけられた存在でもあったのです。
老中としての手腕と「寛政の改革」
その後、定信が再び歴史の表舞台に登場するのは、将軍・徳川家治の死後のこと。
若年の徳川家斉が将軍職を継ぐと、幕政の立て直しを任されるかたちで老中首座に就任しました。
ここから始まるのが、「寛政の改革」です。
財政の再建、農村政策、風紀の粛正、そして学問の統制まで──まさに江戸幕府の空気を変えようとする大改革でした。
一時は将軍候補と目されながら、遠ざけられた松平定信。
その悔しさと信念が、この改革に込められていたのかもしれません。
彼の人生を家系図から眺めれば、単なる“名老中”ではなく、“将軍になれなかった者の改革”という、もう一つのドラマが見えてきます。
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徳川家治との関係は?将軍家との距離と家系
将軍家に連なる家系図をたどると、松平定信と徳川家治の関係は、運命ともいえる複雑なものでした。
ここでは、二人の血縁関係と当時の幕政における立場を、歴史の流れに沿ってじっくり整理してみましょう。
将軍・徳川家治と定信は親戚?家系図で見るつながり
徳川吉宗(第8代将軍)
├── 徳川家重(長男/第9代将軍)
│ └── 徳川家治(家重の子/第10代将軍)
│
└── 田安宗武(次男)
└── 松平定信(宗武の子)
松平定信は、将軍家の血筋を強く引く御三卿の田安家の出身。実際に家系図で見ると、祖父は第八代将軍・徳川吉宗、父は田安宗武です。
一方、徳川家治は吉宗の孫として第十代将軍に就任。つまり定信と家治は「いとこ関係」にあたるので、家系図上では近い親戚です 。
将軍家との血縁の強さにおいて、定信は将軍候補として実にふさわしい存在だったわけです。
距離を置かれた理由
本来、若き将軍・徳川家治にとって、俊才と評された松平定信は頼れる親戚であり適任の後継候補とも言えました。
しかし、政治の中心には重商主義色の強い老中・田沼意次が君臨し、若き定信を意図的に遠ざけていきます。
家治自身も田沼政権を支持し、多くの政策を委ねていたため、定信が台頭することによって権力構造に波風が立つことを恐れたのでした。
そのため、定信は血縁上は近くとも、実際には将軍家と一定の距離を保たれることになったのです。
家治政権と田沼意次
徳川家治の時代は、政治的には田沼意次が老中首座として「田沼時代」を築いたまさに真っ只中でした。
田沼意次は重商主義を掲げ、印旛沼開拓や蝦夷地の政策に着手し、都市と貨幣経済を活性化させた一方で、士風の乱れなど社会的な課題も生み出しました。
田沼と対立していた松平定信は、そんな家治政権の「陰の存在」に甘んじていましたが、実は一橋治済などの派閥の力もあって、定信を田安家から白河藩に養子に出す構想が進められたのです。
結果として、将軍家との関係は表面的な近さを持ちながら、定信は現実には幕政の主流から外れざるを得ませんでした。
続いて、その具体的な背景をさらに深掘りしてみましょう。
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なぜ松平定信は将軍になれなかったのか?
吉宗の孫として、また田安家の跡取りとして将軍の座に最も近かったはずの松平定信。しかし、なぜ将軍への道は閉ざされたのか──。
ここでは家系図上では近い存在だった定信が動かされた背景を見ていきます。
家治の死と後継問題
徳川家治の時代、定信は「将軍候補」として期待されていました。実際、家治には子がいなかった頃、将軍継嗣候補には定信の名も浮上しました。しかし、宝暦12年(1762年)に家治に長男・家基が誕生し、将軍後継問題は一度解消されました。
ところが、家基は若くして病没。続く子も夭折したため、将軍継嗣問題が再び持ち上がると、最有力候補とされたのが松平定信だったのです。しかし結論は異なる方向へ。家治は、定信ではなく一橋家の子・徳川家斉を養子に迎えることを選びました。
この決定が、将軍候補としての定信の道を断つことになります。
一橋治済の策略
この継嗣決定の裏には、一橋治済という黒幕的存在がいました。一橋家を代表する治済は、自らの息子家斉を将軍に据えるため、定信よりも自派閥に有利な血統を優先させたのです。
さらに、治済は定信を「田安家」から遠ざけるために、白河藩への養子縁組を画策・実行しました。これは、田沼意次と協力して進められた政治的な駆け引きの末の決断でした。
政治的駆け引きに敗れた定信
こうした動きの中で、定信は将軍の後継候補から外され、白河藩へと追いやられます。政治改革で知られる田沼意次に批判的だった定信の存在は、意次派にとって邪魔な存在でした。そして、定信を遠ざけることで、一橋派の影響力が強まったのです。
結果として、定信は「血筋」で将軍家に近いものの、「権力構造」では主流から排除されることに。家系図上はいとこという関係でも、実際の幕政ではその近さがむしろ足かせとなったのかもしれません。
このように、「松平定信 家系図」を起点にすると、将軍の座に近い存在だったからこそ動かされた側面が浮かび上がります。
次章では、定信が後に主導した「寛政の改革」と、その評価について深く見ていきます。
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松平定信が成し遂げた「寛政の改革」
将軍の座を逃した松平定信でしたが、その後、老中首座として幕政の舵を握ります。
そこで彼が断行したのが、江戸幕府を立て直すための「寛政の改革」。
この改革は、財政や風紀の是正だけでなく、町人文化や出版界、そして蔦屋重三郎たちにも大きな影響を及ぼしました。
ここでは、その改革の中身と、江戸の表現者たちに何が起きたのかを見ていきましょう。
「寛政の改革」とは?
寛政の改革(1787年〜1793年)は、松平定信が老中首座として主導した幕政の大改革。
財政立て直し、士風の刷新、農村の復興などを目的とし、清廉で厳格な政治を打ち出しました。
主な施策には、
- 倹約令:贅沢禁止で無駄を抑制。将軍家や大名の出費にもメスを入れました。
- 棄捐令(きえんれい):武士の借金を帳消しにして経済再建を促進。
- 囲米・積立金制度:災害や飢饉に備えた備蓄を義務化。
- 農村政策・人足寄場の創設:無宿者を更生させる仕組みも導入。
- 朱子学の正学化と異学排除:思想や出版への締め付けを強化しました。
これらの改革は「質実剛健」を求める一方で、町人文化や自由な表現への規制強化にもつながっていきます。
評価の分かれる改革
一時的に幕府の財政が好転し、農村支援策も評価される一方で、町人や商人、そして表現の自由を求める人々にとっては「息苦しい政治」となりました。
特に出版・学問分野では、洒落本や黄表紙といった風刺や色気を含んだ作品群が、取り締まりの対象となります。
町人文化の担い手であった蔦屋重三郎や黄表紙作家・恋川春町、山東京伝らも、この時期に弾圧の対象となり、出版活動の継続が困難になります。
蔦屋が手がけた洒落本や戯作の多くが発禁となり、山東京伝は「仕掛文庫事件」で処罰され、恋川春町も活動の表舞台から姿を消しました。
つまり、寛政の改革は文化統制の側面も強く、“江戸の華”ともいえる自由な出版文化を一時的に凍結させたのです。
改革の終焉
1793年、松平定信は将軍・徳川家斉との政治的対立などから老中首座を辞任し、寛政の改革は事実上の終焉を迎えます。(約6年間の在職でした)
改革の厳格さは、士風の引き締めや幕府財政の安定という面で成果を上げましたが、一方で、町人文化や出版界に与えた打撃は大きく、江戸の知的活気と風刺文化が一気に萎縮した時代でもありました。
しかしこの抑圧は、のちの時代により洗練された文化・思想の萌芽を生む土壌ともなります。
蔦屋重三郎の存在や、その系譜に連なる出版文化は、寛政以降も形を変えて受け継がれていくのです。
以上、今回は「松平定信の家系図と将軍家との関係、寛政の改革の影響」についてお伝えしました。
「将軍にはなれなかった改革者」としての松平定信。
その理想と統制は、政治の安定と文化の抑圧という、ふたつの顔を持つことになりました。『べらぼう』で描かれる彼の姿にも、その二面性がきっと滲み出てくることでしょう。
2025年のNHK大河ドラマ『べらぼう』では、蔦屋重三郎や文化人たちとの緊張感あるやりとりがどのように描かれるのか、注目が集まりそうです。
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