2025年のNHK大河ドラマ『べらぼう』に登場する松平武元(まつだいら たけちか)。
老中として田沼意次と対立したことで知られる人物ですが、実は徳川家とゆかりのある名門の出身だったことをご存知ですか?
さらに、後に「寛政の改革」を行った松平定信とも関係があるように思えますが…果たしてふたりはどんなつながりがあったのでしょうか?
この記事では、
- 松平武元とはどんな人物だったのか
- 徳川家との関係を家系図で解説
- 松平定信との共通点や違い
- 松平武元の子孫
について、わかりやすくご紹介します!
松平武元とは?徳川家のつながりを家系図で解説
2025年の大河ドラマ『べらぼう』に登場する松平武元は、江戸時代中期に幕府の中心で活躍した人物です。「老中」として重要な役割を果たし、政治の世界でも大きな存在感を放ちました。

松平武元はまた、徳川家康の本家である松平氏の一門にあたる家系に生まれており、徳川将軍家ともゆかりの深い人物でもあります。
この章では、松平武元の生い立ちや政治上の経歴、そして徳川家とのつながりについて、家系図を交えながらわかりやすく紹介します。
松平武元はどんな人物?老中として将軍に仕えた大名
松平武元(まつだいら たけちか)は、1719年に常陸国府中藩主・松平頼明(よりあき)の四男として生まれました。
その後、上野国館林藩主・松平武雅(たけまさ)の養子となり、1728年に館林藩主として家督を継ぎます。まもなく、陸奥国棚倉藩へ移され、そこの藩主となりました。
1746年には幕府の「西丸老中」に任命され、翌年には「本丸老中」となります。老中とは、将軍の側近として幕府の政治を動かす立場であり、大名の中でも特に信頼された人物が選ばれます。
松平武元は、徳川吉宗・家重・家治の三代の将軍に仕え、1764年には「老中首座(ろうじゅうしゅざ)」という老中の中でも最も上位の役職に就任しました。1779年に亡くなるまで、長く幕府の中心で政治に関わり続けました。
徳川家と深い縁をもつ「越智松平家」
松平武元が属していた「越智松平家(おちまつだいらけ)」という家系。あまり知られていないかもしれませんが、実はこの家、将軍家とゆかりのある由緒正しい一族です。
その歩みをたどってみると、徳川幕府の歴史のなかで重要な役割を果たしていたことがわかります。
将軍の弟からはじまった家系
越智松平家の初代は、松平清武(まつだいら きよたけ)という人物です。
清武は、甲府藩主・徳川綱重の次男であり、第6代将軍・徳川家宣の弟にあたります。つまり、将軍家の“すぐそば”にいた血筋の人物ということになります。
清武は甲府藩士・越智家の養子となり、その後、将軍家とのつながりを示す「松平」姓を与えられました。ここに「越智松平家」という家系が誕生したのです。
たびたび藩を移る、実力ある大名家
越智松平家は、江戸時代を通じてさまざまな藩を任されました。
はじめは上野国館林藩、その後は陸奥国棚倉藩、さらに石見国浜田藩、そして最終的には美作国鶴田藩へと転封されています。
このように、幕府から重要な藩を任されるたびに移動していたことからも、幕府内での信頼の厚さがうかがえます。
なかでも、清武のあとを継いだ松平武元は、老中として長く幕政に関わり、政治の要人としてその名を残しました。
家系図で見る徳川家と松平武元のつながり
文章だけでは少し分かりづらいかもしれませんので、松平武元の家系と徳川家の関係を簡略化した家系図で見てみましょう。
このように、松平武元の出身である越智松平家は、徳川家康の本家である松平宗家と並ぶような立場にあり、将軍家にとっても信頼できる家柄だったことがわかります。
その背景があったからこそ、松平武元は老中として長く幕府の中枢で活躍することができたのですね。
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松平武元と松平定信の関係
江戸時代の政治に登場する「松平さん」は実に多いですが、なかでも松平武元と松平定信は、幕府の中枢で活躍した代表的な人物です。ふたりとも「松平」の姓を名乗り、老中という重職に就いた点では似ていますが、家の出自や時代背景はまったく異なります。
ここでは、松平定信の生い立ちや将軍家との関係をふまえながら、松平武元とのちがいをわかりやすく見ていきましょう。
松平定信は徳川吉宗の孫
松平定信(まつだいら さだのぶ)は、1759年生まれ。
父は、8代将軍・徳川吉宗の子である徳川宗武(むねたけ)です。つまり定信は、吉宗の孫にあたります。
生まれたのは、将軍家の分家「田安徳川家(たやすとくがわけ)」。この田安家は、いざというときに将軍を出す可能性もある、いわば“控えの将軍候補”が育つお家柄でした。
その後、松平定信は福島県の白河藩(しらかわはん)に養子に入り、藩主として経験を積んでいきます。
⇒ 徳川御三卿とは?家系図で解説!田安・一橋・清水家の役割と序列
松平武元との家系とは別
ここで改めて思うかもしれません。「松平って名前が同じなら、ふたりは親戚なの?」と。
答えは…直接の血縁はありません。
松平武元は「越智松平家(おちまつだいらけ)」という家系の出身。これは、徳川家の親戚にあたります。
一方の松平定信は、もともと徳川姓で、将軍家そのものの血筋。後から「松平姓」を名乗ったのは、白河藩の当主になったときに松平家へ養子入りしたためです。
つまり、「武元は徳川家の分家筋」「定信は徳川家の本流から派生」という立ち位置になります。
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ふたりは幕政のキーパーソン
松平武元が老中として活躍したのは、主に18世紀前半から中頃にかけて。
吉宗・家重・家治という三代の将軍に仕え、長く幕府の政務を担いました。
一方の松平定信は、18世紀後半に登場。
「寛政の改革」で知られるように、老中首座として改革政治を進め、幕府の立て直しに尽力しました。
時代も役割も少しずつ違いますが、ふたりとも将軍の信任を得て、老中という重い役目を任された政治の中心人物だったという点では共通しています。
「松平姓」を持つふたりの老中。
家系は違っても、江戸の政治を支えた名門の力と、個人の才覚が光る人物でした。
ドラマ『べらぼう』では、そんな歴史の深みも感じられるかもしれません。
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松平武元の子孫は?
松平武元の家系は、江戸時代を通じて藩主家として続き、明治以降は華族に列せられるなど、長く格式ある家として存続しました。ここでは、武元の子孫について、系譜をもとにご紹介します。
四男・松平武寛が家督を継承
松平武元には複数の子がいましたが、家督を継いだのは四男の松平武寛(たけひろ)です。
武寛は父のあとを継いで館林藩主となり、その後、棚倉藩を経て浜田藩、最終的には美作国鶴田藩へと転封されました。
武寛の後、数代を経て子爵となった松平武修
武寛の子である松平斉厚(なりあつ)が浜田藩主を継ぎ、さらにその子・松平武成(たけなり)が鶴田藩主を務めました。
この武成の養子となったのが、松平武聰(たけあきら)です。武聰は水戸藩主・徳川斉昭の子であり、越智松平家に迎えられて家督を継ぎました。
そして、武聰の子である松平武修(たけなが)が、明治17年(1884年)に子爵に叙せられ、華族に列せられます。武修は、東京市中野区に邸宅を構えるなど、近代以降も家の格式を保ち続けました。
系譜のまとめ(簡略系図)
松平武元
└─ 松平武寛
└─ 松平斉厚
└─ 松平武成
└─(養子)松平武聰
└─ 松平武修(明治期の子爵)
このように、松平武元の家系は江戸から明治へと連なり、武元の血統は越智松平家として歴史に名を刻んでいます。
越智松平家は徳川将軍家とも縁が深く、幕府の中枢を支えた名門として、時代の変化を経てもその名を残し続けました。
以上、今回は松平武元と松平定信の関係、そしてそれぞれの家系についてご紹介しました。
ふたりは同じ「松平」の姓を持ち、幕府の中心で活躍したという共通点がありながらも、その出自や時代背景は異なります。松平武元は徳川家と縁のある松平家の出身、松平定信は将軍家の直系という、それぞれ特別な立場で政治の表舞台に立っていました。
2025年の大河ドラマ『べらぼう』では、このふたりがどのように描かれるのか、注目している方も多いのではないでしょうか。
事前に家系や背景を知っておくと、ドラマの人物関係や展開がより立体的に見えてきますね。
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