徳川家康の側室で2代将軍・秀忠の生母であるお愛の方(西郷局)。
大河ドラマ「どうする家康」では広瀬アリスさんが演じていますが、どんな方だったのでしょう?
今回は、お愛の方の生い立ちや死因、また家康の正室・築山殿との関係などをリサーチしました。
家康の側室・お愛の方ってどんな人?生い立ちは?
美しく、家康から深く愛され、まわりの家臣や侍女たちからも慕われていたという側室・お愛の方。
西郷ノ局(さいごうのつぼね)とも呼ばれていますね。
お愛の方は家康の側室となる前も波乱万丈の人生を送ってきた方です。
生い立ちから、家康との出会いまで順にみていきましょう。
1552年、掛川で生まれる
お愛の方は、現在の静岡県掛川市内にあたる、遠江佐野郡上西郷に生まれました。このときの名前は「お昌(おあき)」です。
(のちに「お愛」に改名します。)
- 父親は、戸塚忠春
- 母親は、西郷正勝の娘
しかし、わずか3歳のときに、今川と武田の戦において父を亡くし、母方の祖父・西郷正勝のところで育ちます。
服部正尚の養女に
1557年に、お愛の母親が、服部正尚に嫁ぐことになります。
この服部正尚については、本能寺の変が起き、家康が伊賀越えをしたときに、家康にみのと菅笠を着させて無事三河に帰国させた人物という逸話もあります。
(また、服部半蔵と服部正尚が同一人物という説も…。)
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西郷義勝との結婚
成長したお愛の方は、従妹の西郷義勝の継室となりました。
一男一女を設けますが、結婚して3年後の1571年に、夫の義勝が三河国竹広の戦いで武田軍に討死。
お愛の方はわずか20歳で寡婦(未亡人)となってしまったのです。
長男は幼く、家督を継ぐこともできなかったため、お愛の方は、叔父の西郷清員(さいごうきよかず)のところに身を寄せました。
家康との出会い
西郷清員のところに寄寓するお愛を家康が見初めたのは、天正6年(1578年)のこと。
西郷の屋敷を訪れた家康がお愛を気に入り、西郷清員の養女として徳川家康の側室となりました。
このときに、家康の指示で「お昌(おあき)」から「お愛」に名を変えたといいます。
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お愛の方の子供は?
お愛の方は、家康との間にふたりの子供(男の子)を授かっています。
ひとりは、徳川幕府第2代将軍となる徳川秀忠。(家康の三男)
もうひとりは、尾張国清洲城主となった松平忠吉(家康の四男)です。
三男・秀忠(ひでただ)
天正7年(1579年)、浜松生まれ。
家康の嫡男とされ、羽柴(豊臣)秀吉から「秀」の字を与えられました。家康の跡を継いで徳川幕府二代将軍となります。
秀忠が生まれたとき、家康は、長丸と言う名前をつけて可愛がったといいます。
また、翌年には自分自身の幼名「竹千代」に改名していますから、かなりの愛情をかけていたのではないでしょうか。
四男・忠吉(ただよし)
は天正8年(1580年)、浜松生まれ。幼名は於次(おつぐ)、福松丸。
小牧長久手の戦いの後に、人質として大阪の豊臣秀吉のもとに送られますが、戻ってきます。
関ケ原の戦いの後、尾張国清洲城52万石城主となり、尾張国を領有しますが、27歳で没します。
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お愛の方の死因は?
天正14年(1586年)の12月に家康とともに浜松から駿府に移ったお愛の方でしたが、天正17年(1589年)に38歳という若さで亡くなります。
死因は心労?
極度に視力が悪かったというお愛の方。
死因は不明ですが、心労や疲労による病気という説が一般的です。
目の不自由な人たちへの慈善活動も精力的に行っていたお愛の方、とりわけ盲目の女性に対して、食べ物や衣服の提供をしていたといいます。
お愛の方の死去が伝わると、目の不自由な女性たちが、寺の前に集まり、祈りを捧げたそうです。
築山殿と関わりが?
また、お愛の方の死因に関しては、築山殿の侍女が毒を盛ったためとの説もあります。
色白で美しく、温厚な性格も慕われたお愛の方に対する家康の寵愛は、周囲の妬みをも買うほどでした。
お愛の方が男の子をふたり産んだころ、築山殿の息子・信康(家康の長男)と正室・徳姫(織田信長の娘)との間には、男の子がおらず、築山殿は焦っていたのでしょう。
築山殿は信康に側室を勧めます。
そのことが徳姫から信長のもとへ送られる「十二ヶ条の書立(書状)」にも含まれることになり、「信康事件」や「築山御前事件」へとつながっていくのです。
お愛の方が亡くなった頃、築山殿はすでに亡くなっていますので、築山殿の侍女が毒を盛ったという説は信ぴょう性が低いものと思われますが、
それほどお愛の方は家康が愛したということなのでしょう。
お愛の方は、死後、駿府の龍泉寺(現・宝台院)に葬られています。
以上、今回は家康の側室「お愛の方(西郷局)」についてご紹介しました。
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