2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」では、松本若菜さん演じる家康の側室が登場し、話題になっていますね!
阿茶局と徳川家康の間には子供はいたのでしょうか?
今回は、阿茶局(雲光院)の子どもや養子など家系図をご紹介します!
阿茶局と家康との間に子どもは?
家康が最も信頼を寄せていたといわれる側室・阿茶局。
2023年の大河ドラマ『どうする家康』では、松本若菜さんが演じています。
家康は、子孫を残すために、出産経験のある女性を側室に選んでいたとも伝えられていますね。
しかし、阿茶局と徳川家康の間に子供はいません。
ただ、前の夫との間には2人の子供をもうけています。
前夫との間に子供が2人
家康との間に子供を産むことは叶わなかった阿茶局ですが、前の夫との間には子供2人を授かっています。
阿茶局の前夫・神尾忠重は一条信龍に属していた人物。
一条信龍は今川家の家臣です。
神尾忠重との間に、
- 「神尾守世」(かみおもりよ)
- 「神尾守繁」(かみおもりしげ)
の二人の子供(息子)をもうけました。
しかし、夫の「神尾守繁」は結婚後3年で亡くなってしまいます。
その後阿茶局が25歳のときに、家康の側室になりました。
長男の神尾守世は、徳川家康の三男「長丸」(のちの「徳川秀忠」)の小姓として仕えています。
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家康との子どもを流産
では、家康との子供はどうでしょうか?
実は、阿茶局は30歳のころ家康との子どもを身ごもっていました。
しかし、豊臣秀吉と争った小牧・長久手の戦いに参戦し、この戦いが元で流産してしまったのです。
以来、子どもが産めないからだとなり、結果家康との間に子供を授かることはありませんでした。
阿茶局は、お愛の方の死後、家康の息子・秀忠と忠吉の養育を任されています。
母親代わりとなった阿茶局は、秀忠の娘が入内するときにともに上洛。
秀忠と忠吉の母親はお愛の方(西郷局)ですが、若くして亡くなりましたので、阿茶局は自分の子供のようにしっかりと養育し、愛情をもって育てたのではないでしょうか?
阿茶局と家康の養子
家康との間に実の子供はできませんでしたが、阿茶局と家康は、慶長14年(1609年)に、山崎藩主・岡部長盛の娘・菊姫を養女としています。
菊姫は、佐賀藩主・鍋島勝茂に嫁ぎました。
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阿茶局(雲光院)の家系図
ここで、阿茶局の系譜(家系図)をかんたんにまとめておきましょう。
子供はいないけど、阿茶局のデキる女っぷりがすごい!
阿茶局は家康との間に子供こそいませんが、20人ほどいたとされる正室・側室の中で、家康から最も厚い信頼を寄せられ、政治の場でも活躍した人物です。
武芸と馬術に優れており、側室という枠には収まることができないくらいデキる女だった、と言ってよいでしょう。
ここでは、阿茶局のデキる女っぷりも併せてご紹介しておきたいと思います。
家康が最も信頼していた側室
阿茶局は、武田家の家臣・飯田直政の娘。
19歳のときに、今川家家臣の神尾忠重と結婚して2男をもうけましたが、夫は4年後に戦死、23歳で未亡人となりました。
そして25歳のときに家康に見初められ、側室となります。
阿茶局は容姿端麗で頭脳明晰。
戦にも同行するほど馬術や弓術に長けており、側室でありながら、外交の場に徳川代表として出向いたことも。
外交の場でも活躍
阿茶局は表向きの諸事においても任されており、
- 関ケ原の戦いの後の方広寺鐘銘事件における、大蔵卿局との交渉
- 大坂の陣への同行
- 冬の陣の後の和睦交渉
などの大任を果たしました。
夏の陣においては、
真田信繫が家康に迫ったとき、身を挺して家康を守ろうとした
といわれています。
その活躍は、『徳川実記』にも次のようし記録されるほど…。
「阿茶の局という、女にめずらしき才略ありて、そこ頃出頭し、おほかた御陣中にも召具せられ、慶長十九年(一六一四)大坂の御陣にも常高院とおなじく城中にいり、淀殿に対面して御和睦の事ども、すべて思召ままになしおほせけるをもて、世にその才覚を感ぜざるものなし」
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阿茶局の最期は?
家康の死後、江戸に移り、雲光院と号します。
しかし側室では唯一、剃髪することを許されず、将軍・家忠の補佐役を果たしました。
秀忠の娘・和子の入内時には、母親代わりとして身の回りの世話を行い、その功績で、「一位局・一位尼」と称されるようになります。
秀忠没後に正式に剃髪し、寛永14年に83歳の生涯を終えました。
女性としては、憧れるよりほかない人物ですね。
家康が大切にしたのもよくわかります。
以上、今回は阿茶局の子供についてリサーチしてご紹介しました。
どうする家康で松本若菜さん演じる阿茶局も、まさにイメージどおり!
今後の活躍が楽しみです。
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