NHK大河ドラマで「どうする家康」を楽しんでいる方も多いと思います。
今回はその登場人物・石川数正をピックアップ。
石川数正はなぜ秀吉に寝返ったのか、その後はどうなったのか?
など、数正の出奔理由を考察してみました。
石川数正の寝返りはなぜ?出奔理由を考察
徳川家康の側近であり、松平家からの家臣であり、酒井忠次と共に長く家康を支えていた徳川の重臣・石川数正。
家康が幼い頃、人質にされていた時から見守り、ことあるごとに徳川家康を助けてきました。
しかし、徳川家臣団の重臣であった石川数正が、天正13年(1585年)11月13日に突如出奔したのは有名な話ですね。
石川数正は、なぜ豊臣秀吉側に寝返り、出奔したのでしょう?
出奔理由はひとつではない
理由にはいくつかの説があります。1つの理由で出奔したとは考えられていません。
多くの要素が重なり、それらが数正を出奔に走らせたのだと思われます。
考えられる理由や説をいくつか挙げてみましょう。
- 秀吉の力量を高く評価し、また秀吉からも説得された
- 徳川家の中での立場が悪くなり、孤立した
- 家康との仲がうまくいかなかった
- 小笠原貞慶の内通に責任を感じたから
- スパイになるため
それぞれ考察してみたいと思います。
出奔理由1.秀吉の力量を高く評価し、また秀吉からも説得された
秀吉との交渉役を任されていた石川数正。
これまでに数多くの交渉事を任されており、難題を解決に導いてきました。
秀吉と直に接することで、秀吉の人柄や力量に魅了され、天下人として相応しい人物との評価までも下していたのかもしれません。
事実、出奔する直前に、徳川家康に、秀吉との和陸を主張することもあったようですね。
一方で、秀吉もまた、数正を豊臣に引き抜こうと工作をしたかもしれません。
数正を失った家康が大きな痛手を負うことは容易に想像できます。
地位も高く、財政力もあった秀吉は、恩賞攻めで数正を誘ったとも考えられるでしょう。
出奔理由2.徳川家の中での立場が悪くなり、孤立した
徳川家中では、秀吉の取次役という立場であった石川数正は、関係改善に尽力したことでしょう。
豊臣秀吉の強さを目の当たりにしているからこそ、徳川家康と豊臣秀吉を戦わせたくないとの思いも強かったのではないでしょうか。
ただ、他の家臣たちに理解されない部分はあったかもしれません。
自分だけが秀吉との戦いを避け妥協点を見出すことで、家臣団の中で孤立していったことが推測でき、居場所がなくなったことも出奔理由のひとつだと考えられます。
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出奔理由3. 家康との仲がうまくいかなかった
主君・家康との関係性はうまくいっていたのでしょうか?
家康の長男・松平信康の後見人であった石川数正は、信康や築山殿との間にも信頼関係を築いていたはずです。
その中で、切腹を余儀なくされた信康、そして築山殿の最期に納得できない部分もあったでしょう。
その前の水野信元の誅殺への関与では、家康の母・於大の方(信元の妹)の恨みを買ったともいわれています。
その他、叔父の家成が石川家の嫡流となり家督を継がせたことで、家康に不満があったとする説も。
細かいことを言い出したら、きりがないですが、石川数正が家康との関係において100%納得していたかと言われれば疑問が残ります。
出奔理由4.小笠原貞慶の内通に責任を感じたから
石川数正が出奔する際に、ともに豊臣家に連れていった小笠原貞慶の息子。
その小笠原貞慶も出奔理由に関わっているのでは?との考え方があります。
主君、織田信長を失っていた小笠原貞慶。
その後、徳川家を頼り、忠誠を誓うべく、小笠原貞慶は長男・小笠原秀政を人質として差し出します。
そして、石川数正がその身柄を預かっていました。
しかし、小笠原貞慶が豊臣秀吉と内通していたことが発覚し、数正の監督責任が追及されることに。
小笠原秀政を預かっていた石川数正は、内通を見抜けなかったことに責任を感じたか、または政治手腕に疑念を持たれ、徳川家中での立場が軽んじられたのかもしれません。
出奔理由5.スパイになるため
最後に考えられる石川数正の出奔理由は、数正が秀吉の情報を家康に提供するために、スパイとして出奔した(形にした)という説です。
考えられなくはないし、それはそれでちょっと面白い説ですね。
ただ、石川家のその後を考慮すると、この出奔理由は可能性として低いかなと感じます。
このように、石川数正の出奔理由には様々な説があります。
個人的には、上記①から④のすべてが理由だったと考えます。
数正を取り巻く複数の要素が重なり合って、徳川家から出奔し、豊臣秀吉に寝返ったのではないでしょうか。
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石川数正のその後・最期は?
家康から出奔した石川数正のその後はどうなったのでしょうか?
松本藩初代領主に
豊臣秀吉側に寝返った石川数正は、天正14年(1586年)河内国に8万石の所領を与えられます。
その後、北条氏が滅び、天正18年(1590年)の小田原征伐後、徳川家康が江戸に移封されると、石川数正は、松本藩10万石に移封されました。
石川数正は、ここに美しい松本城を築き、城下町の整備に力を注ぎます。
陣中で死去
そして豊臣秀吉の家臣として、主な戦に身を投じてきた石川数正は、豊臣秀吉による天下統一が行われた後、文禄2年(1592年)の文禄の役で出陣。
500騎の兵を率いて肥前に出陣しますが、原因不明の病に倒れて死亡したとされています。61歳でした。
石川家のその後は?
数正が亡くなった後、家督は長男の康長が継ぎました。
遺領10万石のうち、康長が8万石、二男の康勝は1万5,000石、三男の康次は5,000石をそれぞれ分割相続しています。
豊臣家が滅び、家康が天下をとった後は、幕府の命により江戸時代初期に断絶しました。
その背景には数正の出奔があったのかもしれません。
というわけで、前項の出奔理由⑤スパイ説はなさそうですね。
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大河ドラマ「どうする家康」では出奔理由をどう描く?
さて、NHK大河ドラマ「どうする家康」の中では、石川数正の出奔理由はどのように描かれるのでしょうか?
数正の出奔が描かれるのは「どうする家康」第33話から第34話にかけてです。
ガイドブックやノベライズ本では、すでに紹介されています。
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(※ネタバレを含みますのでご注意ください)
突然、妻子と家臣を連れて、秀吉のもとへ出奔した石川数正。家康はその理由にまったく見当がつかず、怒りさえ感じます。
そんな中、お愛が数正が残した仏像を見つけます。その台座の中には…。
その中身から、家康と家臣たちは、数正の真意を知ることになります。
- お方さまの「戦をなくして平和な世をつくりたい」という願いは、果たして家康本人が天下をとり、成し遂げなければならぬことなのか…。
- 自分が出奔することで、秀吉との戦を避けられるのであれば、そして世から争いが無くなるのならばそれが一番ではないか。
数正は自分が出奔することで、秀吉との戦を阻止したのでした。
「数正が悪いんじゃ!奴のせいでわしらは戦えなくなった。」
「数正のあほたあけー!」
泣きながら数正を罵り続ける家康と家臣団。
と、ずいぶんと端折りましたが、こんな展開。
どうする家康では、ちょっとロマンチックな描かれ方をされるようですね。
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石川数正の真の出奔理由を確定することはできませんが、歴史ミステリーとして、それぞれ理由を想像して楽しんでみるのも良いかもしれません。
以上、今回は石川数正はなぜ秀吉に寝返ったのか、出奔理由を考察してみました。
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