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長篠の戦いをわかりやすく解説!誰と誰の戦?家康の戦い方やその後も

2023年大河ドラマどうする家康では、第21話から長篠の戦いが描かれますね。

長篠の戦いとは、どんな戦で、家康はどのように関わったのでしょうか?

誰と誰の戦で信長・家康はどう戦ったのか?など、わかりやすくまとめてみました。

 

長篠の戦いをわかりやすく簡単解説!

三方ヶ原で大敗した徳川家康。

武田信玄の死によって、ほっとしたのもつかの間、信玄の息子・武田勝頼率いる武田軍が駿河・遠江の侵攻を繰り返します。

その中で起こった長篠・設楽原の戦いについてみていきましょう。

 

長篠の戦いはいつ?誰と誰の戦?

長篠の戦いは、織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍との戦いです。

数は、それぞれ

  • 織田信長・徳川家康連合軍3万8000
  • 武田勝頼軍1万5000

1575年(天正3年)5月21日、長篠城の籠城戦の後に、両者が長篠城の西に広がる設楽原で激突したことから、長篠・設楽原の戦いとも呼ばれます。

結果は、織田・徳川連合軍が勝利をおさめました。

 

長篠の戦いの場所は?

長篠城の場所は、豊川(寒狭川)と宇連川(三輪川)の2本の川が合流して豊川となる、Y字形の地形の所にありました。

 

信濃と東海道を結び、信濃・三河間の重要な戦略拠点であった長篠城。

元は今川氏による築城でしたが、武田信玄が奪い、その後天正元年(1573年)には徳川家康が手中におさめ、奥平貞昌を城代に任命します。

 

・長篠城の現在の住所↓↓

〒441-1634 愛知県新城市長篠市場22ー1

 

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長篠の戦いはなぜ起きた?時代背景は?

京都へ進軍していた武田信玄が病死した1573年。

あとを継いだ勝頼は、駿河・遠江の侵攻を進め、1574年に高天神城を攻め落とします。

 

これですっかり自信をつけた勝頼は、父・信玄の志を継いで京都へ進軍する西上作戦を続行。

そのためには、家康・信長を倒すことが必要でした。

 

1575年に大軍を率いて三河に入った勝頼。

家康のいる浜松城を攻めるには天竜川を渡る必要があり、その手始めに長篠城を攻めたのです。

 

しかし、城主の奥平信昌及び500人の家臣が粘り強く籠城戦で応戦

城が落ちる前に信長が大軍を動かし、信長と家康の連合軍が到着。

 

長篠城を助けようとする織田・徳川連合軍と、それを阻止しようとする武田軍が設楽原で激突したのでした。

 

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長篠の戦いー布陣図

 

長篠・設楽原での戦い方、家康の動きは?

信長は極楽寺山、家康は高松山に陣を構えます。

信長は騎馬の突撃を防ぐ柵をつくり、迎撃に専念するよう徹底します。

 

一方の家康は、前の日から酒井忠次が率いる400人もの別動隊を動かし、鳶ヶ巣山など長篠城を囲む砦を攻略

武田軍を挟撃する態勢を作り上げます。

 

5月21日早朝、酒井忠次の軍が、菅沼山の尾根沿いに背後から武田軍の4つの砦を奇襲。

奥平軍も城から出て武田軍に応戦します。

これで武田軍は足並みを崩すことになります。

 

設楽原では、家康・信長軍と武田軍が開戦。

  1. 突撃する武田軍に鉄砲で応戦。
  2. 射撃後の手入れと装弾時間は、弓矢で応じる。

を繰り返しながら、形勢不利と判断した武田軍が敗走。

 

こうして織田・徳川連合軍は、柵を出て追撃し、大勝利となったのでした。

 

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勝敗を決めたのは?

兵の数ですでに武田軍を大きく上回っていた織田・徳川連合軍。

しかし、それ以上に勝敗を決定づけたのは、物量、具体的には、弾薬の数といわれています。

 

長篠古戦場での発掘調査では、武田陣中で発見された銃弾数が、徳川陣中で見つかったものよりも、はるかに多いことがわかっているそうです。

設楽原では武田軍の予備の銃弾が先に無くなってしまったと推測できます。

 

また、織田・徳川連合軍が到着した時点で長篠城が武田に落ちていれば、勝頼は城に入ることができたので、武田の損害はそれほど大きくはならなかったと予測できます。

籠城した奥平信昌のふんばりも勝敗の決め手となった一因でしょう。

 

長篠の戦いで討死したのは誰?

長篠・設楽原の合戦では、武田四天王として知られる名将を含む、武田軍約1万の兵が討死しました。

討死した主な武将は次の方たちです。

  • 武田軍で赤備えを率いた山県昌景
  • 『不死身の鬼美濃』と称された馬場信春
  • 真田信綱・昌輝兄弟
  • 内藤昌豊
  • 土屋昌次
  • 甘利信康
  • 原昌胤

など。

 

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長篠の戦い、その後は?

長篠の戦いの後、家康、信康、勝頼はどうなったのでしょうか?

それぞれの、その後をみてみましょう。

 

家康は勢いに乗り、駿河の奥深くまで侵攻します。

高天神城は落とせませんでしたが、遠江の大半を支配下に置きました。

 

また、信長は畿内で権力基盤を確固たるものとし、天下人として駆け上がっていきます。

1582年には甲州征伐に乗り出しました。

 

家康や北条氏政も同時に攻めていき、1582年4月、武田勝頼は天目山(山梨県甲州市)で自刃

武田氏は滅びることとなります。

 

以上、今回は長篠・設楽原の戦いとその後をわかりやすくまとめてみました。

どうする家康ではどんな風に描かれるのか、それぞれの戦いぶりが楽しみですね!

 

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