2023年の大河ドラマ「どうする家康」では、5月7日と5月14日放送の2回に渡って三方ヶ原の戦いが描かれましたね。
今回は、三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなって討ち死にした夏目広次(吉信)の生涯や子孫ついてリサーチしました!
「どうする家康」のネタバレも含みますのでご注意ください。
三方ヶ原の戦いで家康の身代わりになったのは、夏目広次(吉信)
徳川家康が武田信玄に立ち向かった「三方ヶ原の合戦」。
どうする家康第17話では、浜松城を素通りした武田軍を追いかけた家康が、武田信玄の罠にはまり、武田軍と激突。
たった2時間のうちに大敗を喫するという残念な結果になりました。
そして、家康が討ち死にしたという知らせが届きますが、実は家康の身代わりになった家臣がおり、それが夏目広次(なつめ ひろつぐ)です。
夏目広次はどんな家臣だった?
夏目広次は、家康の生家・松平家の家臣団のひとり。
(どうする家康では、甲本雅裕さんが演じていますね。)
夏目広次は1518年(永正15年)松平家の家臣「夏目吉久」の長子として、三河で生まれました。
- 通称は「次郎左衛門」(じろうざえもん)
- 夏目「吉信」(よしのぶ)
と呼ばれることも多いですね。
家康の三河平定の際には、長沢城攻めや三州八幡合戦(八幡村城)で軍功をあげるなど活躍しました。
しかし、三河一向一揆では、家康に離反し一揆側に加担。
一揆鎮圧後、夏目広次は生け捕りにされましたが、これまでの武功と忠誠が認められたこと、また他の家臣たちからの嘆願もあり、徳川家康の家臣に復帰します。
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夏目広次が身代わりになった経緯
夏目広次は高齢だったため、三方ヶ原には出陣せずに、浜松城を守っていました。
しかし、徳川軍の敗北が濃厚であることを知り、家康のもとに駆け付けます。
ここで討ち死にすると言ってきかない家康を、夏目広次が無理やり浜松城へ向けさせ、家康の兜を被り、
「我こそは総大将家康なり!」
と言って、武田軍に突入。
身代わりとなって討ち死にしました。(享年55歳)
夏目広次のほかにも身代わりがいた?
夏目広次のほかにも、家康を浜松城へ逃がすために、おとりとなった家臣たちがいます。
家康がまとっていた朱色の鎧を自分の物と交換した松井忠次。
また、鈴木久三郎は家康の采配を奪って、家康になり代わって敵中に留まり、家康が逃げる時間を稼いだと伝えられています。
家康は三方ヶ原の戦いで、8000人いた家臣のうち800人を失っていますが、そのうちの何人かは家康の身代わりとなって討ち死にしたようですね。
徳川の家臣たちは命をおとして、主君を守ったのですね。
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三方ヶ原の戦いで身代わりになった夏目広次の子孫は?
三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなった夏目広次の子孫はどうなったのでしょうか?
夏目広次は、かの文豪・夏目漱石の祖先であるという説もありますので、チェックしていきましょう。
夏目広次の子どもたち
夏目広次には、5人の子どもがいました。
- 長男:夏目吉治
- 次男:夏目吉季
- 三男:夏目信次
- 四男:夏目吉忠
- 五男:夏目吉次
三方ヶ原の戦いときには、長男と次男はすでに亡くなっており、三男も出奔していたため、
夏目家は四男の吉忠が後を継ぎます。
しかし、病死し子も6歳で亡くなったそうです。
一方で、人を斬り殺した罪で出奔していた三男の信次は、姓を変え徳川に仕えていました。
夏目広次の息子であると知った家康は、罪は重いとしながらも、信次を許します。
その後信次は、常陸国で530石を領する旗本となったといいます。
夏目広次の家康への忠節が、家康を動かしたのですね。
ちょっと泣けてしまいます。
子孫は夏目漱石?
さて、私たちになじみのある明治時代の文豪・夏目漱石ですが、夏目広次の子孫だという説があります。
- 夏目漱石は、吉信の先祖である夏目左近将監国平の子孫
- 夏目漱石は、夏目吉次の次男・夏目吉尚の子・夏目吉之の子孫
など、いろいろあるようです。
どうする家康第18話は、身代わりとなった夏目広次がメインの泣きの回となりそうですが。
夏目広次の子孫が夏目漱石…。そんなことを想像しながら観れば気もまぎれるのでしょうか…。
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