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蔦屋重三郎の母・つよの死因とは?病気で亡くなった最期とお墓の場所|べらぼう深掘り

2025年の大河ドラマ『べらぼう』第26話以降、それまで語られてこなかった主人公・蔦屋重三郎の“母親”が登場していますね。

幼くして母と離れ、激動の人生を歩んだ蔦屋重三郎にとって、母・津与(つよ)はどんな存在だったのでしょうか?

今回は、

  • 蔦屋重三郎の母・つよとはどんな人物なのか
  • つよの死因について
  • 離れても続いた母子の絆とは?
  • つよを演じる高岡早紀さんの見どころ

などをご紹介します。

 

蔦屋重三郎の母・つよの死因は?病気で亡くなった最期

蔦屋重三郎の母親

蔦屋重三郎の母・津与(つよ)がどのような最期を迎えたのか、多くの方が気になるところでしょう。

ここでは、母の死因や亡くなった時期、そして重三郎との最期の関係について、詳しく見ていきます。

母・つよの死因は病気とされている

蔦屋重三郎の母・津与は寛政4年(1792年)10月26日に病気で亡くなりました

具体的な病名については記録が残されておらず、詳細は不明です。当時の医療水準を考えると、現代のように病名が正確に診断されることは稀でした。

ただ、大田南畝による「実母顕彰の碑文」や石川雅望の「喜多川柯理墓碣銘」といった史料から、母の死が重三郎に大きな影響を与えたことは確かです。

母・つよが亡くなった時期と重三郎との最期

母・津与(つよ)が亡くなったのは寛政4年(1792年)。

このとき、重三郎は42歳でした。重三郎自身が亡くなるのはその5年後の寛政9年(1797年)ですから、母との最期の時間は、人生の晩年における貴重な日々だったといえます。

天明3年(1783年)に重三郎が江戸・通油町に新居を構えた際、父母を迎えてともに暮らし始めました。「後移居油街、乃迎父母奉養(のちに油街に移り、すなわち父母を迎えて奉養す)」という墓碑の記録が、その事実を物語っています。

母・津与(つよ)との同居期間は約10年。幼い頃に別れた母と過ごせた時間は決して長くはありませんでしたが、重三郎にとってかけがえのない日々だったことでしょう。

つよの死後、重三郎が取った行動

母・津与の死後、重三郎は友人である戯作者・大田南畝に依頼し、「実母顕彰の碑文」を作成してもらいました

この碑文の中で南畝は、重三郎のまっすぐな生き方は、幼い頃に母から授かった教え――いわば"遺教"によるものではないかと記しています。

母と過ごした幼少期のわずか7年間が、後の人生を支える芯になっていたということが、そこから読み取れます。

また、重三郎の墓碑銘「喜多川柯理墓碣銘」にも、母は「耕書堂の母」として明記されており、重三郎が母に深い敬意を抱いていたことが伝わってきます。

興味深いのは、父・重助についてはそのような記録が残っていない一方で、母のための碑文は丁寧に残されていること。重三郎の心のなかで、母という存在がいかに特別だったかがうかがえます。

蔦屋重三郎の母・つよの墓はどこにある?

蔦屋重三郎の母つよのお墓や顕彰碑について気になる方も多いでしょう。

ここでは、つよの墓の場所と、重三郎が母のために建てた顕彰碑についてご紹介します。

母・つよの墓の場所

母・津与(つよ)の墓については、蔦屋重三郎の菩提寺である正法寺(台東区)に関連する記録が残されています。

正法寺には「実母顕彰の碑文」が保管されており、重三郎が母を偲んで建立した顕彰碑の存在が確認できます。

当時、親子が同じ寺に葬られることは珍しくなく、母・津与も正法寺周辺に眠っている可能性が高いと考えられます。

実母顕彰の碑文とは

蔦屋重三郎の母親についてわかる史料

蔦屋重三郎の菩提寺 正法寺(台東区)内

 

「実母顕彰の碑文」は、戯作者・大田南畝(1749–1823)が蔦屋重三郎の母・津与のために刻んだ碑文です。

そこには、重三郎が7歳で母と別れた経緯や、幼い頃の教えが今も彼を導いているという思いがつづられています。

また、大人になって墓前に立ったあとの「片言の言葉で母の労を報いたい」という彼の切実な想いも記されており、親子の深い絆と敬意が浮かび上がります。

この碑文は、重三郎にとって母がどれほど大切な存在であったかを物語るものといえるでしょう。

 

蔦屋重三郎の母・つよとはどんな人物?

ここでは、史料から読み取れる母・津与(つよ)の人物像について詳しく見ていきましょう。

つよの出自と生い立ち

重三郎の母・津与(つよ)は、「広瀬氏」と呼ばれる家に生まれ、江戸の地で育ったとされています。

夫となった重助は、尾張国(現在の愛知県)出身の人物で、何らかの事情で江戸に出てきたと考えられます。

ふたりのあいだに生まれたのが、後の蔦屋重三郎

本名は「柯理(からまる)」で、通称として「重三郎」と呼ばれていました。この「重」の字は、父・重助の名前から一文字もらったものだと見られています。

重三郎が生まれた場所は「江戸吉原の里」。華やかな遊郭の文化が栄えていた場所でもあり、重三郎の両親が吉原に関係する仕事をしていた可能性も否定できません。

7歳で訪れた母との別れ

重三郎の幼少期に、家族に大きな変化が訪れます。

父母は離縁し、母・津与(つよ)は幼い息子を残して家を出ていきました。理由については記録されておらず、詳細は不明のままです。

ただ、重三郎自身は「母と離れたのは7歳のときだった」と後年に語っており、その出来事が彼の心に深く残っていたことがうかがえます。

たった7年の関わりだったとしても、母親の存在は忘れられるものではなかったのでしょう。

髪結いとして生きた母の人生

親子が別れた後、津与(つよ)は髪結いとして生計を立てていたとされています。

江戸時代の髪結いは、単に髪を結うだけでなく、客との会話を通じて情報を得たり、人と人とをつなぐ役割も担っていました。

大河ドラマ『べらぼう』では、つよは口がうまく、愛され上手な"人たらし"として描かれています。こうした人柄は、髪結いという職業にも適していたのかもしれません。

⇒ 蔦屋重三郎の家系図|子孫の現在は?跡継ぎも調査

 

蔦屋重三郎と母・つよの関係

べらぼうキャラ蔦屋重三郎

母・津与と離れたのは、重三郎がわずか7歳のとき。けれど、そこで親子の縁が切れたわけではありません。

成長するにつれ、彼の中で"母の存在"はむしろ鮮やかに残り続け、やがて一つの形として結実することになります。

成長してから迎えた"親との再会"

蔦屋重三郎が両親と再び関わるのは、彼が大人になってからのこと。

天明3年(1783年)、重三郎は江戸・通油町に新居を構え、そこへ父母を迎えてともに暮らし始めます

「後移居油街、乃迎父母奉養(のちに油街に移り、すなわち父母を迎えて奉養す)」という墓碑の一節が、その事実を静かに物語っています。

幼いころに引き裂かれた家族との暮らしを、自らの手で取り戻した重三郎。その姿には、親を思う真心と、自立した息子としてのやさしさがにじんでいますね。

墓碑に残した、母への敬愛の証

津与(つよ)の名は、重三郎の墓碑銘「喜多川柯理墓碣銘」にも登場しています。

「喜多川柯理墓碣銘」は、狂歌師・石川雅望(1754–1830)が執筆した墓碑銘で、重三郎(柯理)の出生や性格、人柄について記されています。

その中で雅望は、重三郎の志の強さや人への誠実さを讃え、死を悲痛な気持ちで受け止めているさまが描かれており、当時の二人の友情と信頼関係の深さが伝わってきます。

そして墓碑には「耕書堂の母」として津与の存在が明記されており、重三郎が母に深い敬意を抱いていたことが伝わってきます。

7年間の教えが支えた一生

大田南畝による「実母顕彰の碑文」では、重三郎のまっすぐな生き方は、幼いころに母から授かった教えによるものではないかと記されています。

母と過ごした7年間が、後の人生を支える芯になっていたということが、そこから読み取れます。

わずか7年という短い時間でしたが、母・津与との関係は重三郎の人生に深い影響を与え続けたのです。

 

べらぼう蔦屋重三郎の母親役は高岡早紀

べらぼうキャスト高岡早紀

大河ドラマ『べらぼう』第26話以降、重三郎の母・つよが深く関わってきています。

演じるのは、艶やかな存在感と確かな演技力で知られる女優・高岡早紀さん。

経験豊かな演技派女優・高岡早紀

高岡早紀さんは、神奈川県出身の女優・歌手。

1980年代にデビューし、1994年の映画『忠臣蔵外伝 四谷怪談』では日本アカデミー賞主演女優賞を受賞。以降も数々の映画やドラマ、舞台に出演し、妖艶さと母性を自在に行き来する稀有な演技力で多くの作品に深みを与えてきました。

ここ数年も『リカ』シリーズや話題の舞台などでその存在感を発揮。成熟した女性像から、狂気をはらんだキャラクターまでこなす幅の広さは圧巻です。

今回の津与役は、大河ドラマとしては3度目の出演となります。

"蔦屋重三郎の母"をどう演じる?注目の津与像

高岡さんが演じる津与は、7歳の重三郎と別れて以降、髪結いとして生きてきた江戸の女性。

口がうまく、愛され上手な"人たらし"として描かれる津与は、重三郎の人生に再び現れることで、新たな波紋を呼ぶ存在となりそうです。

高岡さん自身も

"この親にして、この子あり" と納得していただけるように、流星さんが作り上げた蔦重を、更に深みが増すように演じられたらと思います。

出典:美術展ナビ

とコメントしています。

 

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以上、今回は蔦屋重三郎の母・津与(つよ)の死因と最期、そしてふたりの親子関係についてご紹介しました。

重要なポイントをまとめると:

  • 母・津与は寛政4年(1792年)10月26日に病気で亡くなった(具体的な病名は不明)
  • 重三郎と母の同居期間は約10年間
  • 母の死後、重三郎は「実母顕彰の碑文」を作成し、母を偲んだ
  • 母の墓は蔦屋重三郎の菩提寺・正法寺(台東区)に関連する場所にある
  • 7歳で別れた母との記憶が、重三郎の人生を支え続けた
高岡早紀さんの演じる母・つよによって、物語がどのように動き、重三郎の心にどんな変化が生まれるのか――今後の展開にもますます目が離せませんね。

 

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