藤原道長といえば、平安時代を代表する貴族であり、藤原氏の栄華を極めた人物ですね。
道長の名を聞けば、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の…」という望月の歌が思い浮かぶ方も多いでしょう。この歌は道長の辞世の句として知られることがありますが、実はその背景は少し異なります。
この記事では、藤原道長の辞世の句とされる有名な和歌の真相に迫り、道長が詠んだ他の代表的な歌やその意味をわかりやすくまとめます。彼の栄華の象徴ともいえる和歌の数々を通して、道長がどのように人生を感じ、詠んだのかを紐解いていきましょう。
藤原道長と「辞世の句」について
藤原道長といえば、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という有名な和歌が思い浮かびますね。この歌は「辞世の句」として知られることもありますが、実は彼が臨終の際に詠んだ歌ではありません。
この歌は、道長が権力の絶頂期にあったときに、人生の成功と栄華を誇示するために詠んだものなんです。
そもそも、この歌が詠まれたのは1002年、彼の自宅で満月(望月)を眺めていたときのこと。この歌は自分の栄光が満ち足りていて、欠けることがないという自負を表現しており、死を目前にした「辞世の句」とは性格が異なります。
道長の辞世の句は記録されていない?
実際、藤原道長の辞世の句が歴史的に記録されているわけではありません。
『大鏡』や『栄花物語』といった彼にまつわる重要な歴史書にも、彼が臨終の際に詠んだ歌としての記録は残されていません。これらの書物では「この世をば…」の歌が彼の栄華を象徴するものとして描かれていますが、辞世の句としては紹介されていません。
また、平安時代には多くの貴族が辞世の句を詠みましたが、すべての人が必ずしも臨終に歌を残したわけではありません。道長の辞世の句が記録として残っていないのは、道長が詠まなかったか、記録が後世に伝わらなかったためだと考えられます。
「この世をば…」という望月の歌は辞世の句ではない?
こうした背景から、藤原道長の「この世をば…」の歌は辞世の句ではなく、彼の絶頂期を象徴する和歌であるということがわかります。
道長が臨終の際に詠んだ和歌は記録に残されていないものの、この「この世をば…」の歌が後世において彼の栄華とともに語り継がれ、まるで辞世の句のように扱われるようになったのです。
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藤原道長の辞世の句として知られる望月の歌
道長の最も有名な歌について解説していきます。
「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
意味としては、
「この世は私のものであるかのように思える。満月のように欠けることもなく、すべてが完璧であると思っている」
と解釈されます。藤原道長は権力の絶頂期にあり、自らの栄華を誇った歌として知られています。
家族の繁栄を願う親心を詠んだ歌
しかし、最近ではこの歌に対する新しい解釈も提案されています。
1つの新しい視点として、この歌は権力の誇示だけではなく、道長の娘たちの結婚を祝い、家族の繁栄を願う親心を詠んだ歌であるというものがあります。
この説では、道長が皇后に嫁がせた娘たちの栄光を「望月」にかけて表現しているという解釈です。また、「月」が権力や成功の比喩ではなく、宴の際に使われた盃(さかづき)を表しているという掛詞も指摘されていますね。
未来への展望や不安を暗示?
和歌が詠まれた日が「満月」ではなく「十六夜」(満月から少し欠けた月)であったことから、完全な栄華ではなく、次に続く課題や試練をも含んだ複雑な心情を込めたものという解釈もあります。
この解釈に基づくと、道長の歌は自己満足だけではなく、未来への展望や不安も含まれているというものです。
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藤原道長が詠んだ有名な歌
藤原道長の歌として、辞世の句として知られる「この世をば…」の望月の歌以外にもいくつかの和歌が伝わっています。
有名なものをご紹介していきますね。
道長の若き日の歌
「時鳥 声をば聞けど 花の枝に まだ文なれぬ ものをこそおもへ」
意味
「ほととぎすの声は聞こえるけれど、その声が花の枝に留まることはない。私はまだ、手紙を書くことに慣れておらず、思いを伝えられないことを嘆いている。」
この歌は、恋愛や感情を手紙で表現することに対してまだ不慣れな様子を表現しており、声(想い)はあるが、それが相手に届かないもどかしさを描いています。
時鳥(ホトトギス)の鳴き声を聞いたが、まだ手紙を送るには不慣れで、思いが届かないことを表現した歌です。この歌は、男女の文通において、まだ文通に慣れていない心情を示すもので、特に若い時期に詠まれたものだとされています。
具体的な相手についての記録は明確ではありませんが、こうした詠歌は宮廷での恋愛のやり取りに関連するものなので、女性に向けて詠まれた可能性が高いと考えられます。誰のことを想って詠んだのかちょっと気になりますね。
紫式部へ返した歌
「白露は 分きても置かじ 女郎花 心からにや 色のそむらむ」
この歌は、紫式部が道長に詠んだ歌に対する返答であり、道長は彼女の心情を励ますような意味を込めています。
歌の背景として、紫式部が女郎花を題材に詠んだ歌があります。紫式部が藤原道長に送った歌は次のようなものでした。
「女郎花 盛りの色を 見るからに 露のわきける 身こそ知らるれ」
意味
「女郎花の盛りの美しい色を見ていると、露が自分を分け隔てているように、私の身は美しさに恵まれないと感じる」
紫式部は、自分の境遇や感情を「露に恵まれない女郎花」と重ね、嘆きの気持ちを込めています。
この歌に対する道長の返歌が先に紹介した「白露は 分きても置かじ 女郎花 心からにや 色のそむらむ」。
彼は紫式部を励ますように「白露(露の恵み)はすべての場所に平等に降り注ぐ。女郎花の美しさも、心がけ次第で輝く」と応えました。
このやり取りは、道長が紫式部に対して温かく、かつ少し親しみを込めて返したことを示しています。このように、道長は紫式部との詩歌のやり取りを通じて、微妙な関係を表現しつつ、心を通わせていたと考えられます。
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道長が出家後に詠んだ歌
「唐衣 花のたもとに たちかへよ 我こそ春の 色はたちつれ」
道長が出家した直後の時期に詠まれた歌です。この和歌は、彼の娘である彰子(上東門院)に宛てたものとされています。
歌の内容は、道長が
自分は出家して墨染めの衣を纏う身となったが、彰子にはまだ美しい衣装をまとって欲しい
とすすめるもので、季節の移り変わりと自身の人生の変化を対比させています。
この和歌に込められた思いとして、道長が家族を気遣いながらも、自身はすでに世俗から離れたことを示しています。出家による心境の変化を示しつつ、道長が依然として家族を大切に思っていたことがこの和歌からも感じ取れます。
まとめ
以上、藤原道長の辞世の句について、また望月の歌以外の歌についてもご紹介してきました。
藤原道長が晩年に詠んだ歌に関する記録は多く残っていませんが、やはり、彼の晩年を象徴する出来事や心情が表れる和歌としては、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることもなしと思へば」が特に有名ですね。
この歌は、道長が出家前、権力の絶頂期に詠んだもので、自らの成功を満月に例えて、何も欠けるものがないことを誇示しています。しかし、その後、道長は晩年に病に苦しみ、出家して仏教に深く帰依し、法成寺の造営に尽力しました。
そして、晩年の道長は、自らの栄華に対して感慨を抱くと同時に、無常観を感じた可能性もあります。病により苦しむ中で、仏教的な思想が強まり、極楽往生を願う心情が日記などからもうかがえます。
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