山東京伝(北尾政演)は江戸後期を代表する戯作者のひとりですが、幕府の出版統制により処罰を受けた人物としても知られています。
人気作家と版元・蔦屋重三郎の名コンビに下された処罰は、当時の出版界に大きな衝撃を与えました。
この記事では、
- 山東京伝に科せられた処罰の内容
- 蔦屋重三郎との関わり
- 処罰後の京伝の歩み
についてお伝えします。
寛政の改革と出版統制
江戸の出版界にとって大きな転機となったのが、松平定信による「寛政の改革」です。風紀の引き締めと幕政批判の抑え込みを狙ったこの改革は、書物の世界にも厳しい規制をもたらしました。
松平定信と「出版統制令」
寛政2(1790)年、定信は「出版統制令」を発布しました。
これにより、黄表紙や洒落本といった娯楽的な書物は次々と取り締まりの対象に。
幕府を揶揄したり、吉原など遊郭の風俗を描いたりすることは厳しく禁じられ、書き手だけでなく版元までも処罰の対象となったのです。
出版文化に広がった影響
この取り締まりによって、江戸の出版文化には「冬の時代」が訪れました。
特に蔦屋重三郎が育ててきた黄表紙作家たちが次々と弾圧され、華やかに盛り上がっていた戯作の世界は一気に冷え込んでいきます…。
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山東京伝の処罰の内容は?
出版統制の矛先は、ついに人気作家・山東京伝(北尾政演)と版元の蔦屋重三郎に向けられました。
二人は吉原を舞台とした作品で時代の空気をつかみ、読者から熱烈に支持されていましたが、その表現が幕府の規制網にかかってしまったのです。
処罰の原因となった作品
山東京伝が幕府からにらまれたのは、寛政元年(1789年)のことでした。
『黒白水鏡』
京伝は北尾政演の名義で戯作『黒白水鏡(こくびゃくみずかがみ)』の挿絵を手がけますが、これが最初の発禁処分につながります。
舞台設定は鎌倉時代でありながら、実際には田沼意次の子・意知暗殺事件を風刺しており、幕閣の内紛を暗に描いた内容でした。
執筆者の石部琴好は江戸追放に、京伝自身は罰金刑という形で処罰を受けたのです。
この出来事で一時は筆を置こうと考えた京伝。
しかし、版元の蔦屋重三郎から強く説得され、再び執筆に踏み出します。
『箱入娘面屋人魚』
寛政3年(1791年)に出した黄表紙『箱入娘面屋人魚(はこいりむすめめんやにんぎょう)』はその象徴でした。
浦島太郎と人魚を題材にした奇抜な筋立てで、グロテスクかつ風刺の効いた展開は、まさに京伝らしい作風です。
洒落本3作
ところが、その年に発表された洒落本『仕懸文庫』『青楼昼之世界錦之裏』『娼妓絹篩』の3冊は、吉原の遊里を生々しく描いたことから幕府の取り締まりを受けました。
作品はすべて絶版、京伝には自宅で鉄の手枷をはめたまま謹慎する「手鎖50日」が言い渡され、蔦屋重三郎には財産に応じた罰金刑が科されます。
この一連の事件は後に「山東京伝の筆禍事件」と呼ばれ、江戸出版界に大きな衝撃を与えました。
勢い余った創作意欲と、蔦屋とのタッグによる自由奔放な表現が、結果として幕府に真っ向から挑む形となってしまったのです。
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手鎖50日―見せしめとしての処罰
山東京伝に下された「手鎖50日」という刑罰は、両手を前に組ませ、そこに瓢箪型の鉄製手錠をかけたまま自宅で謹慎させるものです。
つまり50日間は事実上の“執筆禁止”であり、作家として活動を断たれる厳しい処罰でした。
このような刑が選ばれたのは、見せしめの効果を狙ったからだと考えられます。
というのも、問題となった洒落本は爆発的に売れ、出版社に大きな利益をもたらしていました。
人気作家と有力版元を同時に罰すれば、出版界全体に強い警告を与えられる──幕府はそう踏んだのでしょう。
なぜ蔦屋は危険を承知で洒落本を出版したのか
当時、草紙類に対する統制はますます厳しくなっていました。
それでも蔦屋重三郎が京伝の作品を出し続けたのは、収益面で大きな魅力があったからだと推測できます。
というのも、寛政の改革の影響で、大田南畝や朋誠堂喜三二、恋川春町といった武士身分の戯作者たちは筆を折るか、公には活動できなくなっていました。
幕府に批判的な視線を向ける“文化サロン”の担い手が次々と消えたことで、版元にとっては大きな痛手だったのです。
そのなかで、町人出身ながら旺盛な筆力を保ち、庶民の人気を集め続けたのが京伝でした。
多少リスクがあるとわかっていても、蔦屋重三郎にとって京伝は外せない存在だったのでしょう。
利益を見込める作品を世に送り出すことを優先し、結果的に幕府の怒りを買うことになったと考えられます。
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山東京伝とはどんな人物?
処罰を受けた山東京伝(北尾政演)とは、いったいどんな人物だったのでしょうか。
戯作だけでなく絵の才能にも恵まれ、江戸の出版文化に大きな足跡を残した作家でした。
戯作者としての出発点
京伝は宝暦11(1761)年、深川の質屋の長男として生まれました。
本名は岩瀬醒(さむる)。十代で京橋へ移り、15歳のときに絵師・北尾重政に弟子入りします。
最初は「北尾政演」の名で画工として活動し、18歳で黄表紙の挿絵を担当。その後、自作の物語にも挑戦するようになり、20歳のときには『娘敵討古郷錦』を世に出して戯作者としての道を歩み始めました。
大田南畝による高い評価
京伝の名を一気に広めたのが、戯作者・狂歌師として知られる大田南畝の存在です。
『御存商売物』で注目
天明2(1782)年刊行の『御存商売物』では、「青本」「赤本」「黒本」「黄表紙」「洒落本」といった当時の書物を擬人化し、出版界の様子を風刺的かつユーモラスに描いたことで大きな注目を集めました。
この斬新なアイデアに南畝は強い関心を寄せ、京伝の才を高く評価しました。
『岡目八目』でランキング上位に
また南畝が著した黄表紙評判記『岡目八目』では、15人の作者の中から京伝を第4位に選出。
上位3人は朋誠堂喜三二、恋川春町、芝全交という当時の人気作家ばかりで、京伝は彼らに続く有望株と位置づけられたのです。
画工としても名を残す
さらに南畝は、同書の「画工の部」でも京伝を評価しました。
名だたる絵師・鳥居清長に次いで「北尾政演(=京伝)」の名を挙げており、戯作だけでなく画才においても注目すべき存在と認められていたことがわかります。
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べらぼうに登場する山東京伝の代表作は?
数多くの戯作を残した京伝のなかから、ここでは、大河ドラマべらぼうにも登場する『江戸生艶気樺焼』と『心学早染草』についてご紹介しようと思います。
どちらも江戸庶民の心をつかみ、後世にまで影響を与えた作品です。
『江戸生艶気樺焼』
天明5(1785)年に刊行された作品で、見た目に自信のない若旦那が「イケてる男」になろうと四苦八苦する姿を描いた滑稽な物語。
友人たちの助言を受けながらも空回りする様子は、当時の読者に大ウケ。
庶民の笑いを誘うだけでなく、身の丈を超えた虚栄心を皮肉る風刺としても楽しまれました。
井上ひさしの直木賞受賞作『手鎖心中』は、この作品をパロディにしていることでも知られています。
大河ドラマべらぼう第29話に登場しましたね。
『心学早染草』(しんがくはやそめぐさ)
寛政2(1790)年に刊行された作品で、人間の心の中にある「善魂」と「悪魂」を擬人化し、葛藤をコミカルに描いたもの。
ふんどしや袴姿で「善」「悪」と書かれた顔を持つキャラクターは強烈なインパクトを放ち、読者の人気を集めました。
この「善玉・悪玉」のモチーフは後に浮世絵や歌舞伎でも用いられるようになり、江戸文化を代表する表現のひとつとなっていきます。
こちらのエピソードは、べらぼう第37話に登場しそうです。
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蔦屋重三郎との関係
そして、京伝の才をいち早く見抜いたのが、版元の蔦屋重三郎です。
大田南畝から高く評価された『御存商売物』をきっかけに注目され、蔦屋の後押しで『江戸生艶気樺焼』を発表。
この作品は江戸庶民の笑いを誘う大ヒットとなり、二人は「売れる作家と仕掛ける版元」という名コンビとして名を馳せました。
蔦屋重三郎との出会いの記録
山東京伝と蔦屋重三郎が本格的に結びつくきっかけは、当時の人気作家・恋川春町の日記に記されています。
天明2(1782)年12月17日、春町が開いた酒宴に京伝が招かれていました。
この場が、蔦屋や戯作者仲間と京伝が親しくなる最初の機会だったと考えられています。
そのわずか2年後、蔦屋重三郎は京伝の作品集を刊行しました。
才能を早くから見抜いた蔦屋重三郎が、京伝を自らの出版戦略の中心に据えようと動いたことがうかがえます。
ここから二人の名コンビとしての歩みが始まったのです。
⇒ 恋川春町はいつ処罰された?弾圧の理由や蔦屋重三郎との関係を解説
吉原との深い縁
また、山東京伝の人生には、常に吉原が影のように寄り添っていました。
京伝は生涯で二度結婚していますが、妻となったのはいずれも吉原の遊女でした。
遊里での交流が、生活の一部としてごく自然に溶け込んでいたことがうかがえます。
蔦屋重三郎も吉原に生まれ育った人物。
二人は遊郭での経験を共有し、時に馬鹿話を交わしながらも、そのやりとりから新しい発想が生まれたとも伝えられています。
遊びと創作が切り離せない関係だったのかもしれませんね。
⇒ 吉原遊郭は現在のどこにあった?どんな場所?吉原の歴史を解説
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処罰後の山東京伝のその後?
手鎖50日の刑に処された山東京伝はその後、どのような活動を行っていたのでしょうか。
処罰後から晩年までの足跡を追ってみましょう。
商人としての一面
京伝は戯作者としての活動だけでなく、商才も発揮しました。
寛政5年(1793年)には、煙草入れなどの小物を扱う店を開業し、自らの意匠による洒落た商品を売り出します。
これが町人に大いに受け入れられ、商売としても成功を収めました。
戯作者から商人へと活動の幅を広げた点は、京伝の柔軟さを物語りますね。
創作活動の継続
また、処罰後も執筆活動をやめることはなく、山東京伝は黄表紙や洒落本にとどまらず、読本や合巻といった新たなジャンルに挑戦しました。
時代の規制を受けながらも工夫を凝らし、物語世界を広げ続けたのです。
また、考証的な随筆なども手がけるようになり、戯作者としての枠を超えた知識人の側面も見せています。
晩年と最期
文化13年(1816年)、山東京伝は56歳でその生涯を閉じました。
戯作だけでなく商売や随筆に至るまで、幅広い分野で江戸文化に足跡を残し続けた生涯でした。
処罰を受けた後も、戯作の筆を止めず商売や新しい創作に挑戦し続けた山東京伝。逆境を糧に柔軟な道を切り拓いたその姿は、江戸の出版文化を生き抜いたクリエーターの象徴といえますね。

⇒ 2025年大河ドラマ『べらぼう』のあらすじとネタバレ全話まとめ
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