江戸時代後期、幕府の立て直しを担った松平定信は「寛政の改革」で知られる人物です。
質素倹約を掲げたその改革は、財政の改善を図りながらも庶民文化を厳しく取り締まり、賛否の声を呼びました。
2025年の大河ドラマ『べらぼう』でも描かれる松平定信の姿を理解する手がかりとして、史実を振り返ってみましょう。
この記事では
- 松平定信は何をした人なのか
- 寛政の改革の内容とその評価
- 蔦屋重三郎との関係
についてお伝えします。
松平定信とは?何をした人?
江戸幕府の政治を語るとき、必ず登場する人物のひとりが松平定信です。
松平定信は幕府の財政や人々の暮らしを立て直そうと、厳格な改革に取り組んだことで知られています。
その真面目で妥協を許さない姿勢は、時に称賛され、時に反発を招きました。
白河藩主から幕政の中心へ
松平定信は、徳川吉宗の孫にあたる人物で、若くして白河藩主(今の福島県)となりました。
そこでの政治手腕を買われ、1787年(寛政元年)、幕府の最高職にあたる老中首座へ抜擢されます。
これは、ちょうど田沼意次の失脚後で、財政悪化や社会の乱れに歯止めをかけるリーダーが強く求められていた時期でした。
幕府の立て直しを託された改革者
定信が目指したのは、贅沢や浪費を抑え、人々に質素で安定した暮らしを取り戻させること。
そのために彼は「寛政の改革」と呼ばれる一連の政策を進めていきます。改革は徹底しており、農村経済から学問・出版の世界にまで及びました。
では、実際にどんな政策を打ち出したのでしょうか。次に詳しく見ていきましょう。
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松平定信の寛政の改革とは?
幕府の財政難や社会の混乱に対応するため、松平定信は、質素倹約と秩序の回復を軸に、寛政の改革(1787〜1793年)を推進しました。
ただしその厳格さゆえに、評価が分かれる改革でもありました。
主な政策とその背景を見ていきましょう。
倹約令や風紀の引き締め
まず幕府自身が率先して支出を削減する倹約令を断行しました。
大奥の経費を大幅に削減し、贅沢品を禁止する命令も発布。
そして、武士が商人から抱えていた借金を帳消しにする棄捐令によって、旗本や御家人たちに救済の手を差し伸べました。
これらの政策は歓迎された一方、株仲間の解散によって商人層からの反発を招きました。
また、公衆浴場での男女混浴の禁止や、風俗の粛清なども実施し、社会全体の規律を強化しました。
農村救済と米の備蓄(囲い米の制)
続いて農村政策です。
天明の大飢饉の影響で困窮した農村を救うために、江戸には無宿人を受け入れて職業訓練を行う人足寄場が設けられました。
これは「仕事を与えて自立支援する施設」として、社会復帰の仕組みを整えたものです。
また、故郷に帰りたい農民に旅費を支給する旧里帰農令や、貧しい家庭への支援として貸米策なども実施されました。
都市部では、飢饉や物価上昇に備えて旗本・御家人1万石あたり50石の米を備蓄する「囲い米の制」を導入。
さらに、町会費の節約分の7割を積み立てて緊急時に備える七分積金制度も整備されました。
学問統制
松平定信の改革は思想と教育にも及びます。
幕府は、朱子学を正統な学問とし、それ以外の学説や教育を制限する「寛政異学の禁」を発表しました。
これにより、陽明学や古学の講義は禁止され、学問の統制が行われました。
さらに、湯島聖堂を幕府直轄の昌平坂学問所と改称し、制度化・官制化を進めました。
これにより、幕府は学識層を統制・掌握し、思想統一によって幕政への忠誠を強化しようとしました。
町人文化への規制(洒落本・黄表紙の弾圧)
文化面においても、幕府は徹底した統制を敷きました。
遊里などの風俗を題材にした洒落本や、政治風刺などを含む黄表紙といった出版ジャンルに対しては、発行の禁止や処罰を行なっています。
代表的な弾圧対象として、洒落本作者・山東京伝、黄表紙作者・恋川春町、そして出版元の蔦屋重三郎が挙げられます。
それぞれ処罰や財産没収の対象となりました。
さらに、思想家の林子平も海防政策を訴えた著作『海国兵談』や『三国通覧図説』の中で批判をしたため、処罰されました。
寛政の改革は、幕府が財政難と秩序の乱れに正面から立ち向かうための厳戒態勢の仕組みを広く敷いたものでした。
ただし、その徹底した規律と統制の強さは、庶民からの反発や文化的抑圧を招き、改革後に広く批判を浴びる一因ともなります。
続いては、これらの政策が具体的にどのような評価を受けたのかを見ていきます。
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松平定信「寛政の改革」の評価は?
松平定信による寛政の改革には、短期的に見れば一定の成果があった一方、長期的には限界や副作用も指摘されます。
ここでは、当時と後世の両視点からその評価を整理していきましょう。
一時的な効果と長期的な限界
まず、財政再建の面では一定の効果が認められます。
幕府の出費削減や借金棒引き(棄捐令)、諸制度の整備により、松平定信就任初期の財政は一時的に立て直されました。
たとえば、七分積金や人足寄場などは後の社会制度の基盤ともなりました。
しかし、こうした成果は長続きせず、根本的な経済構造の改善には至りませんでした。
厳しすぎる倹約と規制は、経済活動の疲弊や庶民の暮らしへの圧迫として残り、その後の改革にも影響したのです。
民衆からの反発(贅沢の禁止・出版規制)
寛政の改革の厳格さは、民衆の間に反発を広げました。
贅沢の禁止や出版・風俗への統制は、次のような狂歌に象徴されます。
「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」
(松平定信の清廉潔白すぎる政治は息苦しく、多少汚れていても暮らしやすかった田沼意次の時代が懐かしい)
松平定信の統治スタイルへの反発が、単なる文化的懐古でなく、生活者のリアルな声であったことを示しています。
さらに、思想統制や著作規制は、町人文化や学問の自由にも重くのしかかりました。
後世の歴史家からの評価
後世の歴史研究では、松平定信の寛政の改革は「復古的・保守的」と評価される一方で、制度化や秩序回復の意図も認められています。
たとえば、諸関係を制度的枠組みで整理する姿勢は、幕府体制の再強化を意図したものとされます。
さらに、海防意識を幕府に根付かせた点も見逃せません。
当時、外国船の出没が増えていたにもかかわらず、『海国兵談』の林子平を処罰した一方で、防備整備の必要性を感じながらも行動に踏み出さざるを得なかった松平定信の危機意識は、後の測量事業や海防政策へつながっています。
現代では、寛政の改革が否定的に見られがちですが、松平定信の「秩序回復と防衛意識の芽」は、評価されるべき点とされています。
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松平定信と蔦屋重三郎との関係
寛政の改革により、松平定信が進めた出版や風俗への統制政策は、文化人たちへ大きな影響を及ぼしました。
その中で、江戸の出版界をリードした蔦屋重三郎との関係には、緊張と復活の物語があります。
弾圧を受けた蔦屋重三郎
寛政の改革期、松平定信は風紀を乱すとみなされた洒落本や黄表紙などの出版を厳しく取り締まりました。
その結果、蔦屋重三郎は山東京伝の洒落本出版により重過料、すなわち身上半減(財産の半分を没収)の処分を受けました。
(身上半減とは、財産の半額を没収する重い罰です)
この処分によって、一時は出版から引いたものの、後の策略で再起に向かいます。
黄表紙作家・恋川春町への処罰と影響
黄表紙の代表的作家恋川春町も、寛政改革の風刺的要素が問題視され処罰されました。
代表作『鸚鵡返文武二道』で文武奨励策を皮肉ったとされ、幕府から呼び出されましたが応じず、まもなく病没。
一部には自殺説もあります。
⇒ 恋川春町はいつ処罰された?弾圧の理由や蔦屋重三郎との関係を解説
蔦屋重三郎はこの時期、こうした作家たちの出版を執拗に支えてきた責任を問われたものの、その後も文化的視点から出版活動を続けました。
江戸文化と幕府統制の対立構図
このような動きを通して浮き彫りになるのが、江戸庶民文化と幕府の規制姿勢の対立です。
蔦屋重三郎は町人文化の中心人物として、山東京伝・恋川春町ら創造的な作家や、喜多川歌麿・葛飾北斎など浮世絵師を支え、出版界に革新をもたらしました。
一方、松平定信の寛政改革は「秩序回復と質素倹約」を掲げ、風俗や出版を対象とする統制を強めたものです。
これに対し、自由な文化的表現を追い求めた蔦屋重三郎は、出版への圧力に対して粘り強く対応し、時には“反骨の出版人”として知られることとなりました。
以上、今回は松平定信が何をした人なのか、寛政の改革の内容とその評価、そして蔦屋重三郎との関係についてお伝えしました。
清廉な改革者として幕府の立て直しに挑んだ松平定信と、町人文化を支えながら弾圧にも立ち向かった蔦屋重三郎。
二人の交差は、江戸の政治と文化のドラマそのものです。
2025年の大河ドラマ『べらぼう』では、この対立や緊張がどんな風に描かれるのか――大きな見どころになりそうですね。
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