大河ドラマ『べらぼう』第35話には、江戸の出版界を揺るがした風刺本『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)』が登場します。
黄表紙の代表作として知られるこの作品は、恋川春町の筆によって描かれ、当時の幕政を痛烈に風刺した話題作でした。
この記事では
- 『鸚鵡返文武二道』とはどんな作品か
- 『鸚鵡返文武二道』のあらすじ
- 作者・恋川春町の生涯
についてお伝えします。
『鸚鵡返文武二道』とは?
大河ドラマ『べらぼう』でも登場する『鸚鵡返文武二道』。
江戸の町で人気を集めた黄表紙のひとつで、ユーモアたっぷりに時代を映し出した作品です。
刊行当時から話題を呼び、江戸っ子たちの笑いと驚きをさらいました。
刊行と作者・画師
刊行は1789年(寛政元年)。作者は黄表紙作家の恋川春町、絵を描いたのは北尾政美です。
版元を務めたのは、出版界の名プロデューサーともいえる蔦屋重三郎。
文章と挿絵のかけ合いがテンポよく進み、黄表紙ならではの軽妙な読み口で大ヒットしました。
タイトルの意味
「鸚鵡返」という言葉は、松平定信の著書『鸚鵡言(おうむのことば)』をもじったもの。
おうむ返し=ただの真似、
というニュアンスを持たせながら、「文武二道」という言葉を組み合わせてあります。
当時の政策や世相をちらりと想起させる、洒落のきいたタイトル。
タイトルを見ただけでも、この作品が風刺精神に満ちていたことが伝わってきますね。
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鸚鵡返文武二道のあらすじ
鸚鵡返文武二道とはどんなあらすじなのでしょうか?
『鸚鵡返文武二道』は、時代を借りて当時の世相を映し出した風刺物語。
真面目な教えが、庶民にとってはトンチンカンに受け取られてしまう
──そんなズレを笑いにした内容です。
名だたる武将の召喚と大騒動
舞台は延喜の御代、醍醐天皇の時代。世の中は平和でしたが、人々は贅沢に流れ、遊びや飾りにばかり熱中していました。
困った帝は、家臣の菅秀才に武芸を広めさせようと考えます。
ところが秀才は、よりによって源義経や源為朝、小栗判官といった時代も立場もバラバラの武将たちを呼び出して指南役にします。
まるで草双紙(娯楽本)の世界のような強引さで、まずここから笑いが生まれます。
けれども人々は、名将たちの教えを素直に受け止めすぎてしまいました。
弓を放てば無闇に矢を射かけ、剣を習えば通りで真似をして大暴れ。
結果、あちこちで騒動が起きてしまい、秩序を正そうとしたはずの教えが混乱を招くという皮肉な展開になります。
凧揚げブームと鳳凰の見世物
収拾がつかなくなった帝は、秀才に学者・大江匡房を呼ばせ、彼の著した『九官鳥のことば』を教科書にして民を導こうとします。
ところがそこに「天下を治めるのは凧を揚げるようなもの」という一文がありました。
本来は比喩のはずが、人々は
「凧たこを揚あげれば、天下国家は治まる」
と、文字通り受け取ってしまいます。
街じゅうで凧揚げが流行し、空は無数の凧で埋め尽くされました。
やがて空からは鳳凰まで現れます。
人々は「めでたい兆しだ」と大騒ぎしますが、結局その鳳凰は茶屋の見世物小屋に押し込まれてしまいます。
さらに麒麟まで登場しますが、こちらは鳳凰に人気を奪われ、檻の隅に追いやられる始末。
せっかくの聖獣たちが、庶民の娯楽として扱われるという、なんとも滑稽な結末を迎えるのです。
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鸚鵡返文武二道の風刺のポイント
この作品はただの昔話ではなく、当時の江戸で行われていた政策をからめて、笑いと皮肉を交えて幕府のやり方を問う内容になっています。
風刺の“矢印”がどこに向いていたのか、2つの観点から見てみましょう。
①「文武奨励」と「質素倹約」の空回り
寛政の改革(1787〜1793年)は、松平定信(老中)が主導した政策で、「学問(文)と武芸(武)の両方を奨励」し、「質素倹約」を進めて、幕府の財政再建や民心の引き締めを図る目的がありました。
『鸚鵡返文武二道』は、この「文武奨励」のスローガンが実際にはどう現実に受け取られ、運用されているかを劇的に誇張して描きます。
例えば、武芸を教えるはずがやりすぎて町中で騒動が起きる、また質素を説くはずの“皇帝”(物語中の延喜の帝)が派手な服を捨てたり、贅沢な暮らしを放棄するという描写で、“質素倹約”の理念と人々の振る舞いのギャップを浮き彫りにしたのですね。
このような描写によって、「政策として掲げられた理念」と「民衆や役人・指導者が実際に振る舞う姿」の乖離が笑いの対象になっているのです。
②形だけ真似する「鸚鵡返し」の滑稽さ
そして、タイトルの「鸚鵡返文武二道」にある「鸚鵡返し」という言葉がすでに風刺の鍵を握っています。
鸚鵡返しとは、誰かの言ったことを真似るだけ、あるいは言葉をそのまま繰り返すだけの行動を指す慣用表現です。
この作品では、政(まつりごと)の指導者(菅秀才)が“武芸を励め”“学問を重んじよ”と教えるが、それを聞いた庶民が文字通り・浅く真似をするだけで、本質を理解せず空回りしてしまう様子が描かれています。
武芸の指南が荒っぽくなり、弓を乱射したり、剣の真似だけをして乱暴に振る舞ったりするなど、政策の“形式だけ”を模倣する滑稽さが強調されます。
この「真似するだけの模倣」が、笑いと批判を生み出すポイントになっており、「改革のスローガンがただのスローガンで終わること」への警鐘ともなっています。
このように、『鸚鵡返文武二道』は、寛政の改革を題材に、政策と実際のズレ、形式だけをなぞる人々の浅さ、言葉と行動のギャップを風刺する作品です。
この風刺が大河『べらぼう』でどのように描かれるか、注目ですね。
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鸚鵡返文武二道の作者・恋川春町の生涯
さて、『鸚鵡返文武二道』を世に送り出した恋川春町は、江戸後期を代表する黄表紙作家のひとりです。
武士としての顔を持ちながらも、洒落本や黄表紙を数多く手がけ、庶民の人気を集めました。
ここでは彼の歩みを簡単にたどってみましょう。
武士の家に生まれた異色の戯作者
恋川春町の本名は倉橋格(いたる)。
1744年、紀州田辺藩の武士の家に生まれました。
その後、伯父の養子となり小島藩の藩士として仕えます。
まさに“武士”としての道を歩んでいましたが、一方で文才と絵心を生かして戯作の世界へ足を踏み入れました。
1770年代には『金々先生栄花夢』を発表。
ユーモラスな筆致で人気を集め、「黄表紙の祖」と称されるほどの存在となります。
絵師としての技量も兼ね備え、文と絵の両輪で江戸の読者を楽しませました。
『鸚鵡返文武二道』と幕府との衝突
1789年に発表した『鸚鵡返文武二道』は、そんな恋川春町の代表作のひとつ。
時事風刺を盛り込み、当時の読者の心をつかんだベストセラーとなりました。
しかし、ちょうどこの時代は松平定信による寛政の改革の真っ只中。
出版統制も強まり、黄表紙や洒落本は厳しい監視下に置かれます。
『鸚鵡返文武二道』もその対象となり、春町は幕府から出頭を命じられましたが、病気を理由に応じませんでした。
その後まもなく、春町は46歳で急逝。
病死と伝えられていますが、自害だったのではないかという説も残されています。
幕府からの圧力と死が重なったことで、その最期は謎めいたものとして語り継がれているのです。
春町がどのように処罰対象となり、蔦屋重三郎とどんな関わりを持っていたのかについては、
恋川春町はいつ処罰された?弾圧の理由や蔦屋重三郎との関係を解説
で詳しく紹介しています。
こちらもあわせてご覧くださいね。
以上、今回は『鸚鵡返文武二道』のあらすじと作者・恋川春町の生涯についてお伝えしました。
黄表紙の代表作として当時の世相を風刺した本作は、大河ドラマ『べらぼう』でも描かれることで、江戸出版文化の奥深さをあらためて感じさせてくれるでしょう。
恋川春町がどんな運命をたどるのか、それも興味深いですね。
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