2027年のNHK大河ドラマは『逆賊の幕臣』。主演の松坂桃李さんが演じるのは、小栗忠順(おぐり ただまさ)という幕臣です。
幕末といえば坂本龍馬や西郷隆盛が注目されがちですが、実は小栗忠順も、日本の近代化に大きく貢献した人物のひとり。でも、彼の名は歴史の教科書ではあまり目立たず、「逆賊」として処刑されたことから、不遇の人物として語られることが多いのです。
この記事では、小栗忠順の功績や波乱の人生、そして「逆賊」とされた理由について、わかりやすく解説していきます。
小栗忠順とは?幕末を生きた異色の幕臣
幕末の日本には、歴史の表舞台で活躍した有名な武士がたくさんいます。坂本龍馬、西郷隆盛、勝海舟……しかし、2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』で主役となる小栗忠順の名前を聞いて「誰?」と思う人も多いのではないでしょうか?
実は彼、日本の近代化に大きく貢献した“異色の幕臣”だったのです。
けれども、時代の流れに翻弄され、最後は「逆賊」として処刑されるという波乱万丈の人生を歩みました。そんな小栗忠順とは、一体どんな人物だったのでしょうか?
小栗忠順のプロフィール:旗本の家に生まれた幕臣エリート
小栗忠順は、1827年7月16日(文政10年)に江戸・駿河台(現在の東京都千代田区)で生まれました。父は旗本の小栗忠高で、家禄は2,500石。これは幕臣の中でも比較的高い身分にあたります。幼名は剛太郎(ごうたろう)といい、のちに忠順と名乗るようになりました。
この時代、幕臣の子どもたちは剣術や学問を学ぶのが当たり前でしたが、小栗もまたその例に漏れず、幼い頃から武芸や学問に励みました。後に彼は剣術や砲術、兵学といった軍事分野にも精通するようになり、まさに文武両道の武士へと成長していきます。
どんな人物だったのか?大胆不敵な性格と先見の明
小栗忠順は、一筋縄ではいかない性格の持ち主でした。幼少期は「悪戯好きの悪童」として周囲に知られ、気が強く負けず嫌いな性格だったといいます。しかし、成長するにつれ、その頭の回転の速さと大胆さが評価されるようになりました。
小栗忠順の最大の特徴は、「時代の先を読む力」。
幕府がまだ鎖国政策を続けていた頃から、小栗はすでに「このままでは外国に遅れをとる」と考え、開国の必要性を説いていました。そして、後に横須賀製鉄所の建設や軍事改革を推し進め、幕府の近代化に尽力することになります。
ただし、彼の“まっすぐすぎる性格”は、時に敵を作ることにもなりました。小栗は権威に屈せず、ズバズバと物を言うタイプだったため、幕府内外で反発を受けることも少なくなかったのです。
幕末の動乱期における小栗忠順の立場
幕末といえば、徳川幕府と新政府軍(薩摩・長州など)による戦いが激化した時代。そんな中、小栗忠順は「幕府を強くして、この国を守らねばならない!」と考え、財政改革や軍備の近代化に全力を注ぎます。
特に、フランス公使レオン・ロッシュとの協力による軍事改革や、横須賀製鉄所の建設は、日本の近代化の大きな第一歩となるものでした。しかし、時代はすでに幕府から新政府へと流れており、小栗忠順の努力もむなしく、幕府は崩壊へと向かっていきます。
最後まで「幕府の力を立て直すべきだ」と主張した小栗でしたが、明治政府側からは「危険人物」とみなされ、ついには処刑されてしまいます。小栗忠順の最期については後ほど詳しくお話ししますが、この決断が正しかったのかどうか、今でも議論されることがあるほどです。
小栗忠順は、単なる幕臣ではなく、「未来を見据えた幕末の改革者」でした。しかし、時代の流れに逆らうことはできず、彼の功績は長い間、歴史の陰に隠されることになります。それが、今になって大河ドラマの主人公として取り上げられるということは、彼の生き方が改めて評価されつつある証拠なのかもしれません。
では、彼が具体的にどのような功績を残したのか? 次の章で詳しく見ていきましょう。
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小栗忠順は何をした人?
幕末の動乱期、多くの人々が時代の変化に戸惑うなか、小栗忠順は一歩先を見据えて行動していました。彼は「これからの日本は、西洋の技術を取り入れなければならない」と確信し、幕府の近代化を推し進めます。
しかし、当時の幕府には近代化に消極的な人も多く、小栗の考えはなかなか理解されませんでした。そんな逆風の中でも、小栗は諦めず、日本の未来を見据えた改革に尽力していきます。その代表的なものが「横須賀造船所の建設」「海軍の近代化」「財政改革」といった功績です。
では、小栗が実際にどんな取り組みをしたのか、詳しく見ていきましょう。
横須賀造船所の建設と軍事・経済政策
幕末の日本は、開国を迫られたものの、西洋列強と対等に渡り合える軍事力を持っていませんでした。「このままでは外国に侵略されてしまう」と危機感を抱いた小栗は、日本独自の造船技術を確立するため、最新鋭の造船所を作ろうと考えます。
そこで彼が目をつけたのが、現在の神奈川県横須賀市に建設された「横須賀造船所(当時は横須賀製鉄所)」です。これは、フランスの技術を導入し、日本国内で軍艦を建造・修理できる体制を整えるためのものでした。
しかし、当時の日本には「造船所を作るのにそんな大金を使うなんて無謀だ!」という声もありました。それでも小栗は、「今、近代化に投資しなければ日本は滅びる!」と主張し、フランス公使レオン・ロッシュを通じてフランス政府に協力を依頼。フランス人技術者レオンス・ヴェルニーを招いて、日本初の本格的な造船所の建設に成功しました。
この横須賀造船所は、後の日本の海軍力の基盤となり、のちの明治政府が近代海軍を整備するうえで欠かせない存在となります。小栗の先見の明が、ここでも発揮されていたのです。
また、小栗は「これからは商業の力が必要だ」と考え、日本初の株式会社ともいえる「兵庫商社」の設立を提案しました。これは海外貿易を促進し、国内産業を発展させることを目的としたもの。今で言う「経済のグローバル化」をいち早く見据えていたのです。
海軍の近代化・財政改革への取り組み
幕府の財政が苦しいなか、小栗忠順は「お金がないから何もしないではなく、限られた資源を使って国を強くしなければならない」と考えました。
そこで小栗忠順は、最新の軍艦や武器をフランスから輸入し、さらにフランスの軍事顧問団を招いて、日本の海軍の近代化を進めます。これは、単なる軍事力の強化ではなく、「自分たちの力で国を守る」ための大きな一歩でした。
さらに、小栗忠順は「お金がないなら、資金を調達すればいい」と考え、フランスからの借款(国際的な借り入れ)を活用することで、財政改革を推進。幕府が倒れる直前まで、彼は新しい経済システムを導入しようと尽力していました。
小栗忠順のこうした取り組みは、明治維新後の日本にも大きな影響を与え、結果的に近代国家への道を開くことになったのです。
幕府主導の近代化計画(フランスとの関係)
小栗忠順は、日本の近代化を進めるためには、フランスとの協力が不可欠だと考えていました。当時の幕府はイギリスやアメリカとも関係を持っていましたが、小栗は特にフランスの技術力と軍事力に注目。幕府とフランスの協力体制を強化し、日本を「独立した近代国家」にしようとしました。
横須賀造船所の建設や海軍の近代化も、フランスとの関係があったからこそ実現したこと。小栗忠順は、単に技術を取り入れるだけでなく、フランスとの外交関係を強化することで、日本が国際的な競争に負けないように戦略を立てていたのです。
小栗忠順の功績は、後の日本にどんな影響を与えたのか?
小栗が残した改革は、幕府が崩壊したことで未完成のまま終わってしまいました。しかし、彼の構想や取り組みは、その後の明治政府に大きな影響を与えています。
- 横須賀造船所 → 明治政府の海軍工廠として発展し、日本の近代海軍の基盤に
- 海軍の近代化 → 明治維新後、日本海軍の発展につながる
- 経済改革の試み → 明治政府の産業振興政策に影響を与える
もし小栗忠順の改革がさらに続いていたら、日本の近代化はもっと早かったかもしれません。
しかし、当時の日本では彼の考えは受け入れられず、最終的に「逆賊」として処刑されてしまいます。では、なぜ彼は「逆賊」とされてしまったのでしょうか?次の章で、その理由と彼の悲劇的な最期を詳しく見ていきましょう。
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小栗忠順が「逆賊」とされた理由と悲劇の最期
幕末の混乱の中で、日本の未来を見据えて近代化を推し進めた小栗忠順。しかし、彼がたどった運命は決して穏やかなものではありませんでした。幕府の要職に就きながらも、時代の流れに翻弄され、最終的には「逆賊」として処刑されてしまったのです。
なぜ小栗は新政府に追われ、命を落とすことになったのか? その背景を見ていきましょう。
幕府滅亡の流れと小栗の対応
1867年、徳川慶喜が政権を朝廷に返上する「大政奉還」を決行し、260年続いた徳川幕府の時代は終焉を迎えました。しかし、新政府(薩摩藩や長州藩を中心とした勢力)と旧幕府軍との対立は続き、翌1868年に鳥羽・伏見の戦いが勃発。幕府軍は敗北し、慶喜は江戸へと退却します。
このとき、小栗忠順は「幕府の力を立て直し、新政府軍と戦うべきだ」と主張していました。彼は横須賀造船所をはじめとする近代化政策を進めていたため、「幕府はまだ戦える」と考えていたのです。しかし、慶喜はこれを拒否し、恭順(新政府に従うこと)を決定。小栗の戦略は幕府内で受け入れられず、彼は職を辞すことになりました。
もはや幕府に居場所がなくなった小栗は、家族とともに上野国群馬郡権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町)へと移り住みます。ここで農業を営みながら静かに暮らすつもりでしたが、新政府軍は彼をそう簡単に見逃しませんでした。
新政府軍に追われ、処刑された経緯
幕府が倒れ、新政府が日本の新たな支配者となったとき、彼らにとって小栗忠順は「危険な存在」でした。なぜなら、小栗は幕府の財政を立て直し、軍備の近代化を推し進めた実力者だったからです。もし彼が再び幕府の力を結集すれば、新政府にとって脅威になりかねません。
そこで、新政府軍は小栗忠順を捕らえるために動き出しました。1868年4月6日、新政府軍の兵士たちは群馬の権田村に押し寄せ、小栗を捕縛します。そして、わずか2日後の4月8日、取り調べもほとんど行われないまま、反逆者として処刑されてしまったのです。享年42歳でした。
江戸幕府のために尽くし、日本の近代化を推し進めた小栗。しかし、新政府側にとって彼は「倒すべき敵」だったのです。
小栗忠順が「逆賊」とされた理由とその後の評価
小栗忠順が「逆賊」とされた最大の理由は、新政府にとって彼の存在が都合が悪かったからです。幕府の財政を支え、近代的な軍備を整えた彼が生きていれば、幕府勢力が再起する可能性があったのです。
また、小栗忠順がフランスと強い関係を持ち、近代化を推進していたことも影響していたと考えられます。当時の新政府はイギリスとの関係を重視しており、フランス寄りの政策を進めていた小栗は「敵」とみなされてしまいました。
しかし、小栗の死後、時代が進むにつれて彼の功績は見直されていきました。
- 横須賀造船所の建設 → 明治政府の海軍工廠(こうしょう)として発展
- 幕府財政改革 → 明治政府の近代経済政策に影響を与える
- 海軍の近代化 → 日本海軍の発展の礎となる
つまり、小栗が目指した「日本の近代化」は、結果的に明治時代の国づくりの大きな土台となったのです。
小栗忠順の生涯は?本当に「逆賊」だったのか?
小栗忠順は、幕末において最も先進的なビジョンを持ち、実行力のある幕臣でした。しかし、時代の流れに逆らうことはできず、新政府軍によって「逆賊」として処刑されました。
けれども、彼の築いた基盤は、日本が近代化していくうえで大きな役割を果たしました。今では、小栗忠順を「幕末の改革者」として評価する声も増えています。
2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、彼の生涯がどのように描かれるのか。これまであまり知られていなかった彼の人生が、ドラマを通じて多くの人々に知られることになるでしょう。
そして、「逆賊」ではなく、「日本の未来を見据えた男」として、小栗忠順の名が語り継がれていくのかもしれません。
以上、今回は2027年大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公・小栗忠順についてご紹介しました!
2027年の大河ドラマでは、彼の生き様がどのように描かれるのか? これまであまり語られてこなかった「もうひとつの幕末」が、どんなドラマを生み出すのか? 放送が待ち遠しいですね!
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