NHK大河ドラマ『べらぼう』では、蔦屋重三郎の出版活動の裏で、密貿易「抜荷」の存在が浮かび上がっていますね。
誰袖花魁も田沼意知と接点を持つようになり、なにやら怪しい雰囲気に突入しています。
この記事では、
- 抜荷(ぬけに)とは何か?江戸の密貿易の仕組み
- 松前藩が抜荷に関与した理由とその背景
- 田沼意次・田沼意知と抜荷との関係
についてご紹介します。
「抜荷(ぬけに)」とは?江戸時代の密貿易の実態
江戸時代――幕府の許可がなければ、物を売り買いすることすら自由にできなかった時代です。そんな中で、密かに行われていた「抜荷(ぬけに)」という貿易の形がありました。
規則の網をすり抜けて動いた“裏の荷物”は、経済の一端を支える存在でもありました。
正規ルートを外れた荷物、「抜荷」とは?
当時、幕府は長崎や一部の港だけに貿易を許可し、それ以外の取り引きは禁止されていました。
しかし現実はそう簡単ではなく、幕府の目をかいくぐって行われる密貿易が横行。そのような非公認のルートを通る商品を「抜荷」と呼んでいたのです。
抜荷は、外国との直接取引だけでなく、藩の専売制を無視した商い、株仲間の決まりに反する販売方法など、いわゆる“規則外”の経済活動全般を指すこともありました。
なぜリスクを冒して抜荷が>
幕府の制度は、関所、関税、届け出など、多くの手続きと制限がつきものでした。その結果、正規ルートでは十分な利益を得られないことも。
そこで藩や商人たちは、少しでも多くの利を得ようと抜荷に手を出します。特に財政が苦しい藩にとっては、幕府に黙って商売することが“裏の収入源”となっていたわけです。
とくに蝦夷地では、アイヌとの交易で得た海産物などを内地に流す際、正規のルートを経ずに抜荷として売ることが常態化していました。
どんなモノが、どんなルートで?
抜荷で扱われていた品はさまざまですが、代表的なルートをいくつか見てみましょう。
- 長崎ルート
オランダや中国からの絹織物、薬種などが、幕府の管理外で売買されていました。 - 松前藩ルート
アイヌ交易で得た昆布や干鮑、煎ナマコなどが、会所を通さず越後や薩摩に送られた事例もありました。 - 北方ルート
松前藩とロシアの間で中国製の絹織物や布などが密かに取引された記録も残っています。
いずれのルートも、制度の外側にあるにもかかわらず、当時の経済や文化の流通を下支えする役割を果たしていたのです。
江戸の経済にとって、抜荷とは?
「抜荷」は、幕府の規制を無視した“違法行為”であると同時に、過剰な制限の中で人々が生き抜くために選んだ手段でもありました。見方を変えれば、それは時代の枠組みを越えて流通を動かす力。抜荷があったからこそ、経済は柔軟に回っていたともいえるのです。
続いては、この抜荷と深く関わった松前藩、そしてそれを容認したともいわれる田沼意次との関係をひもといていきましょう。
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松前藩と抜荷の密接な関係
江戸時代の松前藩は、地理的な特性とアイヌ交易という独自の仕組みを活かし、抜荷という密貿易を全国的に展開しました。ここでは、その背景と流通の実態を見ていきましょう。
松前藩の特殊な立地とアイヌ交易
松前藩は北海道南部に位置し、稲作が難しいため藩の収入源はもっぱらアイヌ交易に依存していました。
1604年に幕府から与えられた黒印状に基づき、藩はアイヌと和人商人との交易を独占。その拠点は松前だけでなく、蝦夷地沿岸各地の「場所」と呼ばれる商場にも広がりました 。
その結果、藩は「無高の藩」でありながら全国的にも有数の経済力を有するに至ったのです。
蝦夷地を舞台に抜荷が拡大
蝦夷地の各地に設けられた「場所」は、松前藩が家臣に交易権を与える商場知行制によって管理されました。
一方で、これらの場は制度の抜け穴となり、正規ルートを横断する抜荷も頻繁に発生。アイヌ産品が許可なく他藩や商人を介して売買されることがあり、「場所」制度は抜荷を助長する構造ともなったのです 。
――つまり、もともと交易独占を目指して整備したシステムが、結果的に密貿易への道を広げてしまったわけです。
江戸に流れ込む“北方の贅沢品”
松前藩を通じて江戸へ届いた「北方の贅沢品」は、経済・文化面で大きな影響を与えました。
- 昆布・干鮑・煎ナマコなどの海産物は北前船で大坂・長崎へ運ばれ、内地の食文化や農業に利用
- 蝦夷錦はロシア・清など北方ルートから流入した高級織物で、藩主から大名・寺社への贈答用として重視された
- また、鷹などの珍鳥の尾羽やアツシ織(保存性の高い民族布)など、文化的価値の高い品々も取引
これらの品々は単なる物産を超え、江戸庶民や文化人たちの間にも憧れと価値を生み出したのです。
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抜荷を黙認した男?田沼意次の経済政策
田沼意次(たぬま おきつぐ)は、江戸時代中期に登場した異色の政治家です。幕府の財政を立て直すため、それまでの農業中心の考え方から商業重視の方針へと大きくかじを切りました。
その中には、“抜荷”と呼ばれる密貿易を事実上容認したとも思える動きが見え隠れします。
田沼が打ち出した新しい経済政策とは?
田沼が注目された理由のひとつが、これまでの「農民が土を耕してこそ国家は成り立つ」という考えから脱却し、商業の力でお金を回すという路線を打ち出したことです。
具体的には、
- 商人の集まり(株仲間)に特権を与える代わりに税を取る
- 銅・鉄・薬草などの専売制を広げて収入源を増やす
- 大規模な干拓や用水路工事を行って新たな産業を生み出す
といった政策で、商業を積極的に活用しました。
これは“重商主義”と呼ばれるやり方で、江戸時代としてはかなり大胆な発想だったのです。
抜荷を取り締まらなかった理由は?
田沼が抜荷を“見て見ぬふり”をしたのではないか――そんな説がよく語られます。
とくに、松前藩を通じて蝦夷地(北海道)とつながるルートでは、ロシアや清(中国)との品物のやり取りが、幕府の正式な許可なしに行われていた形跡がありました。
実は田沼はこうした密貿易の存在を把握していて、調査もしていたのですが、完全に取り締まるのではなく、制度として吸収していく姿勢を見せていたのです。
たとえば1784年に提出された『赤蝦夷風説考』という報告書には、こんな意味の記述があります。
「抜荷商いが巧妙になっており、港を開いたほうが管理しやすい」
つまり、厳しく禁止するよりも、開港して合法化するほうが現実的だという考えがあったことがうかがえます。
松前藩との関係は?
田沼は、松前藩との関係も強化していきました。
蝦夷地の交易ルートを見直し、松前藩の取り扱う貿易品を、幕府の正式な収入源として活用しようとしたのです。
1784年には、幕府の役人を蝦夷地に派遣して「蝦夷地の開発計画」を立てさせました。これには、
- 松前藩を通じた物資の流通ルートの整備
- 密貿易を合法的な貿易に切り替える
- 幕府が直接、蝦夷地の利益を得られるようにする
といった狙いがありました。
ところが、翌1786年、田沼は失脚。大規模な開発計画は実現しないまま終わってしまいます。
田沼意次は“悪役”ではなかった?
田沼意次というと、賄賂や汚職のイメージが強く、「悪役」として語られることもあります。
けれど、実際には幕府の財政を立て直すため、商業を活かした前向きな政策を進めていた政治家でもありました。
抜荷のような“グレーゾーン”も、排除するのではなく利用して幕府にとってプラスに変えようとした――そこに田沼のしたたかな現実主義が見えてきます。
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抜荷は悪か、知恵か?
抜荷(ぬけに)は、確かに幕府の規則違反であり違法行為でした。しかし、それだけでは言い表せない、人々にとっての“生存戦略”としての側面もあります。本見出しでは、抜荷がどこまで「賢い戦略」だったのか、じっくり考察します。
過剰な規制下の「生存戦略」?
江戸時代の貿易制度は極めて厳格。長崎や限られた藩専売制は利益の独占を生み、庶民や小商人にとっては「門戸が閉ざされたまま」の状況が続きました。
この制度下では、必要な糧や資材を入手できない地域や人々にとって、抜荷は“食べていくための知恵”。まさに国家の規制が過剰すぎたがゆえの、生活防衛策だったといえます。
市民目線で再評価される抜荷の意義
抜荷で得られた日用品や贅沢品は、江戸庶民の暮らしに彩りをもたらしました。たとえば木綿製品や砂糖、茶などは「異国の魅力」として歓迎され、出版や娯楽、食文化にも波及したとされています 。
また、長崎の町人からすれば、公定貿易では収益が限られ、生活が立ち行かない状況は明らかでした。生活を守る抜荷は、いわばシステムの歪みを利用した“正当な反発”でもあったのです。
「ルールを破る知恵」が江戸を回した?
長崎港で、唐物やオランダ製品が抜荷で売られる光景は、幕府にとっては外交的な恥でしたが、町人たちには“日常の延長”でした 。ある研究者も「抜荷取り締まりは無意味」と断言し、「人の欲求を法律で完全に抑えることはできない」とまで述べています。
制度の柔軟性や公正さが欠けていたとき、人々は“抜荷という抜け道”を作り出し、文化や経済を回し続けたのです。この“ルールを破る知恵”は、一見すると非合法ですが、当時の江戸を支えたもう一つの力だったとも言えるでしょう。
以上、今回は松前藩の抜荷についてご紹介しました。
『べらぼう』でも描かれた江戸の裏稼業――その一端には、蝦夷地を舞台にした松前藩の密貿易が深く関わっていました。
蔦屋重三郎たちが生きた時代には、表のルールだけでは語れない“したたかな知恵”が息づいていたのです。

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