NHK大河ドラマ『べらぼう』で、いよいよ、染谷将太さん演じる絵師・喜多川歌麿が登場します。
物語では蔦屋重三郎との交流が描かれていますが、史実での二人の関係も、江戸の出版界を動かした“名コンビ”として知られています。
この記事では、そんな二人の関係を深掘りしながら、
- 喜多川歌麿とはどんな人物だったのか?
- 蔦屋重三郎とどのような関係だったのか?
- 歌麿の晩年や死因、お墓は?
- 『べらぼう』で歌麿を演じる染谷将太さんの注目ポイント
について、史実をもとにわかりやすくご紹介します。
喜多川歌麿とはどんな人物?
NHK大河ドラマ『べらぼう』で再び注目を集めている浮世絵師・喜多川歌麿。
美人画の第一人者として知られる喜多川歌麿は、華やかな名声の裏に、謎に包まれた人生を歩んだ人物でもあります。ここでは、史実をもとに歌麿の人物像をひもといていきます。
喜多川歌麿の生い立ち
喜多川歌麿の生年ははっきりしていませんが、1806年に数え年で54歳で亡くなったことから、1753年頃の生まれと推定されています。出身地についても江戸、川越、大坂など複数の説があり、出生にまつわる確かな記録はほとんど残されていません。
そのため、歌麿は“素性の知れない絵師”として、どこか謎めいた印象をもたれ続けています。
師匠は妖怪画の名手・鳥山石燕
歌麿は、妖怪画で知られる絵師・鳥山石燕(とりやま せきえん)に学んだとされています。石燕は狩野派に連なる町絵師で、写実性と物語性を併せ持つ画風で知られ、弟子の育成にも熱心でした。
石燕の門下には、歌麿のほかに小川春町や歌川豊春といった後の名絵師も名を連ねており、歌麿もこの環境の中で画技を磨いていったと考えられています。
初期は役者絵師として活躍、やがて美人画でブレイク
歌麿が最初に注目を集めたのは、黄表紙や浮世草子などの挿絵、そして歌舞伎役者の似顔絵などを手がけた時期でした。表情豊かで生き生きとした役者絵は、江戸の人々に強く支持され、絵師としての地位を確立していきます。
しかし、喜多川歌麿の真骨頂はその後に取り組む「美人画」にありました。
バストアップ構図の「美人大」で人気を博す
従来の美人画は、ほっそりとした全身像を描くのが主流でしたが、喜多川歌麿はそこに大胆な変化を加えます。歌麿が確立した「美人大首絵(びじんおおくびえ)」は、女性の上半身や顔をクローズアップで描くスタイルで、表情や仕草のニュアンスを巧みにとらえました。
この構図は、あたかもすぐそばに女性がいるような親密さを感じさせ、江戸の庶民たちの共感を集めました。湯上がりの女性が歯を磨いていたり、酒を酌んだりといった、日常の中の美を描く手法は、それまでの浮世絵にはなかった新しさでした。
“リアルな女性像”を描いた異才のカリスマ絵師
歌麿が描いた女性は、単なる理想像ではありません。現実の生活に根ざした、どこか親しみやすく、しなやかで強さも感じさせる女性たち。
それまでの浮世絵に欠けていた“人間の息遣い”を感じさせる美人画は、まさに革新と呼ぶにふさわしく、喜多川歌麿の名を一躍有名にした要因でもあります。
続いては、そんな歌麿の才能に早くから目をつけ、数々の出版物を世に送り出した人物、蔦屋重三郎との関係に迫っていきます。
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喜多川歌麿と蔦屋重三郎の関係とは?
江戸の出版文化において、喜多川歌麿と蔦屋重三郎のコンビほど印象深いタッグはありません。
一人は、女性のリアルな魅力を浮世絵に定着させた天才絵師。もう一人は、時代の感性を鋭く読み取り、次々と新たな企画を打ち出した出版界の革命児。
その出会いと協力は、単なる“版元と絵師”という枠を超え、江戸文化そのものを動かす原動力となりました。
才能を見抜き、起用し続けた蔦屋の慧眼
喜多川歌麿が「歌麿」として名を成す以前、「鳥山豊章」「鳥豊章」などの名義で役者絵や挿絵を描いていました。
その才能にいち早く目をつけたのが、蔦屋重三郎です。吉原案内や洒落本、戯作本の出版で頭角を現していた蔦屋は、歌麿を起用し、挿絵だけでなく春画、教訓本、美人画など多彩なジャンルで活躍の場を与えていきます。
特に、歌麿が手がけた「絵本虫撰」「婦人相学十品」などは、蔦屋が仕掛けたヒット作として大きな話題を呼びました。
江戸を席巻した“企画力×画力”の黄金コンビ
蔦屋重三郎は、単に本を出すだけの版元ではありませんでした。
社会風刺を織り交ぜたストーリー構成や、サロン文化を巻き込んだ題材の発掘など、出版を通じて文化を創る“プロデューサー的存在”だったと言っても過言ではありません。
そこに、日常の中に潜む美しさをすくい上げる歌麿の画力が加わったことで、彼らの作品は江戸の街を席巻します。とくに、美人画における「大首絵(バストアップ構図)」という新機軸は、まさに二人の感性の融合から生まれた革新でした。
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時代の波とともに変化した二人の関係
1790年代後半になると、喜多川歌麿は蔦屋重三郎以外の版元のもとでも作品を発表するようになります。
明確な「仲たがい」の記録は残っていませんが、かつてのような密接な関係ではなくなっていったことは、複数の史料や出版動向からもうかがえます。
背景には、幕府による出版統制の強化や風紀取締りといった社会情勢の変化があり、蔦屋重三郎自身も検閲対象となって活動を制限されつつありました。それにともない、歌麿も他の版元と関係を築かざるを得なかったと考えられています。
さらにこの頃、蔦屋が仕掛けたもう一人のスター――東洲斎写楽が登場します。
東洲斎写楽のデビューは1794年。歌舞伎役者の似顔絵を中心に描いた斬新な作品で一世を風靡しますが、わずか10か月ほどで姿を消した“謎の絵師”としても知られています。
この写楽に対する蔦屋重三郎の傾倒ぶりが、歌麿との距離を広げたのではないかという説も存在します。あるいは、歌麿との関係に何らかの齟齬があったことで、新たな才能に目を向けたのか――。
その因果関係は明らかではないものの、当時の蔦屋重三郎の動きは、喜多川歌麿との関係に少なからぬ影響を与えたことは想像に難くありません。
それでも、両者の絆が完全に断たれたわけではなく、やがて再び協力し合う場面も見られるようになります。
弾圧の時代も、ともに戦った“表現者”
喜多川歌麿の創作は常に順風満帆だったわけではありません。
幕府の言論統制が厳しさを増す中、蔦屋重三郎と喜多川歌麿の作品群は検閲の標的となっていきます。特に問題視されたのは、美人画や洒落本に見られる風俗描写や社会批判性でした。
その結果、喜多川歌麿は「絵本太閤記」の発表により、時の将軍(徳川家斉)を揶揄したと見なされ、「手鎖50日刑(てぐさりごじつけい)」という厳罰を受けます。一方の蔦屋も出版活動に大きな制限を受け、新作の刊行が困難となりました。
それでも蔦屋重三郎と喜多川歌麿らは、判じ絵や架空名義の活用など、時に規制の目をくぐりながら創作を続け、表現の自由を守ろうとしました。
蔦屋重三郎の死
1804年、蔦屋重三郎は病により48歳で死去します。
この出来事は、歌麿にとって大きな喪失となりました。以後の作品には、かつてのような鋭さや遊び心が見られなくなり、歌麿の創作意欲が明らかに失速していく様子がうかがえます。
“仕掛ける者”と“描く者”が手を取り合ってこそ生まれた表現世界。その片翼を失った歌麿の晩年は、静かに幕を閉じていくことになります。
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べらぼう歌麿役は染谷将太さん!
2025年放送のNHK大河ドラマ『べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~』で、喜多川歌麿を演じるのは俳優・染谷将太さん。
作品ごとにまったく異なる顔を見せる染谷将太さんが、今度は“謎多き天才絵師”をどう演じるのか。その表現力に、大きな期待が寄せられています。
“異色の役づくり”
染谷将太さんは、2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』で織田信長役を演じたことで広く注目を集めましたね。
その信長像は、従来のイメージとは異なり、純粋さと狂気を併せ持つ人物として描かれ、賛否を巻き起こしながらも強烈な印象を残しました。
今回の『べらぼう』においても、型にはまらない演技への挑戦が期待されています。
染谷さん自身も、史料の少ない歌麿という人物を演じるにあたり、「自由に演じていいのかな」と語りつつも、「絵にはその人が出ると思うので、作品を見つめながら役を作っていきたい」と意気込みを語っています。
“内側からにじむ美”をどう表現するか
染谷さんが語る歌麿像は、単なる技巧派の絵師ではありません。
「人の痛みに寄り添える人だったのではないか」という視点から、美しさの裏にある感情の機微を読み取り、人物像を構築していく姿勢が見て取れます。
江戸の美人画を革新した歌麿は、同時に幕府からの弾圧にも直面し、芸術と自由の間で揺れながら生きた存在です。
その複雑な背景と内面を、染谷将太さんがどのように演じるのか。歌麿の“静かな激情”がどう描かれるのかは、『べらぼう』の見どころのひとつになるでしょう。

以上、今回は喜多川歌麿と蔦屋重三郎の関係についてご紹介しました。
NHK大河ドラマ『べらぼう』では、二人の出会いと創作の舞台裏がどのように描かれるのか、大きな注目が集まっています。実在の歌麿も、蔦屋という理解者とともに時代を切り開いた絵師でした。ドラマをきっかけに、史実の魅力にもぜひ触れてみてくださいね。
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