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紫式部の娘・賢子が詠んだ百人一首の歌を紹介!その背景と意味も解説

紫式部の娘、賢子(大弐三位)は、百人一首にもその名を刻むほどの優れた歌人です。母である紫式部の影響を受けながらも、自身の感性で自然や恋の情景を美しく詠み上げました。

特に和歌「有馬山〜」は、自然の風景と感情を巧みに織り交ぜた一首で知られています。

今回の記事では、

  • 紫式部の賢子が詠んだ百人一首の歌の解説
  • その他賢子の有名な和歌まとめ
  • 紫式部との親子関係

についてご紹介します。

 

紫式部の娘・賢子が詠んだ百人一首の歌を解説!

それでは、さっそく紫式部の娘・賢子が詠み、百人一首にのひとつとなっている歌をご紹介しましょう。

「有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする」

賢子の有名なこの歌は、百人一首の58番目に収められています。

この歌は、兵庫県神戸市にある有馬山と、その近くの「猪名の笹原」を題材にしています。

現代語訳

「有馬山から猪名の笹原に風が吹き降りてくると、笹の葉がそよそよと揺れて音を立てます。その音のように、どうして私があなたを忘れることがありましょうか。決して忘れませんよ。」

恋する相手を想う気持ちを表現していますね。笹の葉が風でそよぐ音を人の心にたとえ、相手への強い想いを訴えた一首です​。

歌の背景

この和歌の背景には、賢子が疎遠になった恋人からの疑念に対して応えた場面があるとされています。

詞書(ことばがき)には

「しばらく会っていない男性が、あなたこそ心変わりしてしまったのではないか、と言ってきた」

ことが書かれています。

つまり、賢子は「私を忘れたのはあなたの方でしょう」と少し皮肉を込めつつ、変わらぬ自分の気持ちを表現したのです。

また、この歌の「そよ」という言葉は、風の音を表すだけでなく、「そうですよ」という意味も含んでいます。風が笹をそよそよと揺らすように、賢子の心も常に相手を思っていることを伝えた優美な表現です。

賢子の歌は、母・紫式部の影響を受けつつも、彼女独自の感性で詠まれたものです。

続いて、紫式部の娘・賢子が詠んだその他の有名な歌を見ていきましょう。

 

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紫式部の娘・賢子が詠んだ有名な歌3選!(百人一首以外)

百人一首の歌のほかにも賢子が詠んだ歌はたくさんあります。なかでも有名なものをピックアップしてみました。

1.親仁親王への返しの歌

「住みよしの 松はまつとも 思ほえで 君が千歳の 陰ぞ恋しき」

この和歌は、賢子が乳母(お世話係)をしていた親仁親王(のちの後冷泉天皇)とのやりとりの中で詠まれたものです。

背景

あるとき、親仁親王が「賢子が自分の家に戻ってしまった」と聞き、心配して

「住吉の松があなたを待っているように、私もあなたを待っている」

という意味の和歌を送りました。それに対して賢子は、この和歌で返事をしたのです。

現代語訳

賢子の和歌をわかりやすく現代語にすると、

「住吉の松の木が私を待っているとは思えません。それよりも、千年続くあなたのそばが恋しいです」

といった意味になります。この和歌の中で「松」は昔から長寿の象徴とされており、長く続くことや待つことを表現しています。

賢子はそれを使い、親王の繁栄を願う気持ちと、親王への敬愛を表現しています。松を使ったたとえや、「千歳の陰」という言葉が、賢子の巧みな表現力を感じさせます。

こうした和歌を通じて、賢子がどのように人との関係を大切にしていたかが伝わってきますね​。

 

2.恋人への返しの歌

「春ごとに 心を占むる 花の柄に たがなほざりの 袖かふれつる」

これは、賢子(大弐三位)が、藤原公任の息子・定頼(さだより)とのやり取りの中で詠んだものです。この和歌には、恋愛の感情や相手への少しの不満が込められています。

背景

この和歌の背景には、定頼が賢子に送った別の和歌があります。

定頼は「梅の花を見ながら、あなたを思っていました。でも、この花が散ってしまったら、何を心の支えにすれば良いのでしょうか」という意味の和歌を送りました。

この歌に込められた意味は、「あなたが私に会ってくれないから、花を慰めにしていますが、それも散ってしまうと辛いです」という内容でした。

これに対して賢子が返したのが、この和歌です。

現代語訳

賢子の和歌を現代語にすると、「春が来るたびに私はこの花の枝に心を奪われていましたが、誰かがいい加減な気持ちでその花に袖を触れて、香りを移してしまいました」という意味になります。

この和歌のポイントは、「誰かがいい加減な気持ちで触れた」という部分です。

これは、定頼が他の女性と会っていたことをほのめかしており、「あなたの心が私から離れていたことは知っていますよ」という気持ちが込められています。

単に花を描写しているように見えますが、その裏には複雑な恋愛の感情が隠されているのです。

見た目は優美で自然の美しさを詠んでいるように見えますが、その中には相手に対する少しの嫉妬や不満が感じられる深い内容が込められているということですね。こんな表現ができる賢子は、まさに母・紫式部の才能を引き継ぎ、自らの詩才を磨いていったのでしょう。

 

3.恋人への断ち切れない想いを詠んだ歌

「つらからむ 方こそあらめ 君ならで 誰にか見せむ 白菊の花」

この歌もまた、賢子が当時恋仲にあった藤原定頼に対する想いを表現した歌です。

現代語訳

この和歌の現代語訳は、「あなたが私に冷たい態度を見せていることもあるでしょう。でも、この白菊の花を、あなた以外の誰に見せることができるでしょうか?」という意味です。

背景

背景として、藤原定頼との交際が途絶えがちになっていた頃に、この和歌を詠んで菊の花に添えて贈ったとされています。

賢子は、彼が見せる冷たい態度(「つらからむ方」)に対してやんわりと伝えつつ、定頼に対する想いを断ち切れない心情を表現しています​。

またこの和歌は、紀友則の「君ならで 誰にか見せむ 梅の花 色をも香をも 知る人ぞ知る」を元にしているとされ、本歌取りの技法が使われています。

 

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まだまだある!賢子が詠んだ歌まとめ

紫式部の娘・賢子が詠んだ歌はまだまだあります。新古今和歌集に記された賢子の歌もいくつかご紹介しますね。

秋風は ふきむすへとも しらつゆの みたれてをかぬ 草の葉そなき

この歌は、秋風が吹くとともに、草の葉に白い露が垂れ落ちる様子を詠んでいます。秋風が吹き抜けることで、草の葉にしみじみと落ちる白露の様子を、何か悲しげに見えるものとして表現しています。この歌は、露を通して、無常や儚さを感じさせる情景を描写していると考えられます。

あひをひの をしほの山の こ松はら いまよりちよの かけをまたなん

この和歌は、阿蘇の山にある小松原の松の木が、今後千年の時を経ても、その姿を見守るようにと願いを込めた歌です。松は古くから長寿の象徴とされており、長く変わらないことを祈る気持ちを込めています。

わかれけん なこりの袖も かはかぬに をきやそふらん 秋のゆふつゆ

この歌では、別れの場面で涙がこぼれ落ち、袖が濡れてしまう様子が詠まれています。「秋の夕露」という表現で、涙と露を重ね合わせ、別れの悲しさと自然の儚さを表現しています。

むめの花 なにゝほふらん みる人の いろをもかをも わすれぬるよに

この歌では、梅の花が香る様子を描写しながら、見る人がその美しさを忘れないようにと願う気持ちが表れています。梅の香りが残るように、見る人の心にその美しさがしっかりと刻まれることを祈る気持ちが感じられます。

これらの和歌はいずれも、自然の情景を巧みに利用しています。感情を繊細に表現している点が賢子らしいですね。

 

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紫式部の娘・賢子の歌が収録された歌集まとめ

紫式部の娘・賢子(大弐三位)の和歌は、以下の勅撰和歌集や個人の家集に収録されています。それぞれの特徴について簡単にまとめてみました。

『後拾遺和歌集』

賢子の和歌が多く収録されている歌集で、「有馬山 猪名の笹原〜」など、百人一首にも選ばれた作品が含まれています。この歌集では、主に恋愛に関連する歌が多く収められており、賢子が恋の駆け引きに優れた歌人であったことが伺えます。

『新古今和歌集』

ここには「住みよしの〜」や「春ごとに〜」などが収められています。これらの和歌は、自然描写と恋愛感情を繊細に表現しており、彼女の詠み人としての高い技量を示しています。

『金葉和歌集』

この歌集には賢子の和歌が1首収録されています。自然を題材にしたもので、季節や風景を通じて彼女の心情を表現する歌が特徴的です。

『大弐三位集(藤三位集)』

賢子の個人歌集で、残念ながら断簡のみが現存していますが、彼女の代表作を収めた貴重な家集です。ここには、母・紫式部から受け継いだ和歌の才能と独自の表現が詰まっています。

賢子の和歌は、多くの恋や宮廷の生活を題材にし、平安時代の感性と人間関係を色濃く反映しています。

 

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紫式部と娘賢子の関係

最後になりましたが、紫式部と娘・賢子の関係についてもみておきましょう。

紫式部と賢子の親子関係

紫式部と賢子(大弐三位)は、平安時代を代表する母娘。

紫式部は『源氏物語』の作者として知られていますが、娘である賢子もまた、優れた歌人としてその名を残しています。賢子は、母から受け継いだ文学的な才能だけでなく、宮廷生活での洗練された感覚や感受性を培い、百人一首にも選ばれるほどの和歌を詠みました​。

紫式部が賢子に与えた影響

紫式部は、自身が仕えていた一条天皇の中宮・彰子に賢子を近づけ、宮廷での教養やマナーを教えたとされています。賢子は、この中で培った教養をもとに、母と同様に宮中で活躍する歌人としての道を歩んでいきました。紫式部の文学的な影響はもちろん、賢子に対する厳しい教育や、母娘の深い絆があったこともうかがえます​。

賢子の宮廷での役割

賢子は母にならい、中宮彰子に仕えました。やがて賢子は、後冷泉天皇の乳母という重要な役割を担い、宮廷での信頼を得ることになります。

賢子は母である紫式部の教えや影響を受けながらも、自らの立場を築いていきました。その後、彼女は「大弐三位」として宮中で知られる存在となり、藤原定頼との和歌のやりとりや後冷泉天皇との関係など、多くのエピソードが伝えられています​。

紫式部と賢子の関係を見てみると、単なる親子関係を超え、文学や教養の面でも強い影響を与え合っていたことが感じられますね。賢子の活躍は、母・紫式部の存在が大きな支えとなっていたのです。

 

以上、紫式部の娘・賢子の百人一首に選ばれた和歌についてお伝えしてきました。

賢子の和歌は、母・紫式部からの影響を受けながらも、自身の感性で自然や恋を繊細に表現していたことがわかりますね。

『光る君へ』を見て、賢子の和歌や平安時代の宮廷文化に興味を持った方は、ぜひ彼女の他の和歌や、紫式部との親子関係にも目を向けて楽しんでみてくださいね。

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