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徳川家治の死因は病死?毒殺?第10代将軍の最期を解説|べらぼう深掘り

江戸幕府10代将軍・徳川家治。

表舞台にはあまり出なかった“静かな将軍”として知られる一方で、その死因をめぐっては今も謎と憶測が残されています

2025年の大河ドラマ『べらぼう』でも、家治の最期が大きな転換点として描かれる予定です。

この記事では、

  • 徳川家治の死因に関する史実と3つの説
  • 家治が将軍として成し遂げたことと人物像
  • 大河ドラマ『べらぼう』で描かれる家治の死の見どころ

についてお伝えします。

 

徳川家治の死因とは?毒殺説から病死説まで3つの説を検証

べらぼう10代将軍徳川家治

江戸幕府第10代将軍・徳川家治は、49歳という比較的若さでこの世を去りました

温厚で目立たぬ将軍とされながらも、その死因をめぐってはさまざまな憶測が飛び交っています。

もっとも有力視されているのは病死説ですが、「毒を盛られたのではないか」という陰謀論や、「脳卒中による急死だったのでは?」とする説も一部に存在します。

ここでは、史料と近年の研究をもとに、家治の死因にまつわる三つの説を整理してみましょう。

 

脚気による心不全説が最有力

まず注目すべきは、当時の公式記録『徳川実紀』に残る家治の容体です。そこには、死の直前に「水腫(むくみ)」「感冒(かぜ)」を患っていたとあります。

この症状は、現代医学の観点から見ると脚気(ビタミンB₁欠乏)と一致します。とくに武士階級は白米中心の食事で脚気にかかりやすく、重症化すれば心不全型の脚気で急死することも。

そのため、脚気→心不全による急死が、現在最も信頼されている説です。

 

毒殺説は町医者の薬から?

べらぼう田沼意次

一方で、家治の死に疑念を抱く人々も少なくありませんでした。というのも、家治の病状が急変したのは、田沼意次が呼んだ町医者が薬を処方した直後だったからです。

このことから、当時は「田沼による毒殺では?」との噂が広まりました。しかも、家治の死後まもなく田沼が失脚したこともあり、陰謀論に拍車がかかったのです。

とはいえ、田沼と家治はむしろ強い信頼関係にあり、毒殺の動機が見当たらないことから、あくまで政治的な敵対勢力による風聞だった可能性が高いとされています。

脳卒中説の可能性は?

「家治は脳卒中で倒れたのでは?」という説も一部に見られます。

実際、家治以前の将軍では、徳川家光や徳川吉宗が脳卒中で亡くなったとされているため、家治もそうだったのではという憶測が出たのでしょう。

しかし、家治の死に関して脳卒中を示唆する記録は一切確認されていません。あくまで脚気症状とみられる「水腫と感冒」が主であり、この説は他の将軍との混同による誤解の可能性が高いと考えられています。

脚気による病死が最有力とされながらも、毒殺説や脳卒中説が消えない背景には、家治の死が幕府の権力バランスを大きく揺るがしたことがあります。

田沼意次の失脚、一橋家の台頭、そして次代・家斉の登場へとつながるこの時期──家治の“静かな死”は、実は江戸幕府の未来を大きく変える転機でもあったのです。

 

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徳川家治は何をした人?10代将軍の実像と功績

一見おだやか、けれど実は大きな時代のうねりを動かしていた─。

そんな静かな存在感を放つのが、第10代将軍・徳川家治です。

名君か、傀儡か。ここでは、家治がどんな時代を生き、何を残した将軍だったのかを、やさしく、わかりやすく振り返ってみましょう。

第10代将軍家治のプロフィール

徳川家治(いえはる)は、江戸幕府の第10代将軍

1737年(元文2年)に生まれ、1760年に父・家重の跡を継いで将軍となりました。将軍在任中はおよそ26年、49歳でその生涯を終えています。

治世は「田沼時代」とも呼ばれ、経済や政治が大きく動いた時代。

表舞台に出ることは少なかったものの、歴史の転換点にしっかり立っていた人物です。

田沼意次を登用

徳川家治といえば、やはり田沼意次を重用した将軍というイメージが強いですね。

田沼は、これまでの“農業中心”から“商業中心”へと転換を図った実力派。

株仲間の奨励、鉱山の開発、蝦夷地の探検など、斬新な経済政策を次々に打ち出しました。

また、洋書の輸入を緩め、蘭学の発展を後押したのもこの時期。日本初の本格的な西洋解剖書『解体新書』が出版されたのも、まさに家治の治世です。

家治本人は表に出ず、あえて田沼に任せていたとも言われています。それが“何もしない将軍”という誤解につながったのかもしれません。

「無口で穏やか」な将軍?人物像に迫る

政治よりも文化や趣味に心を傾けていた──そんな一面もある家治。

特に将棋の名手として知られ、詰将棋集『将棋攷格』を自ら編んだほどの腕前です。

ほかにも、絵画や俳諧、道具づかいにもこだわる、まさに文芸を愛する“文化系将軍”

言葉数は少なく、感情をあまり表に出さなかったとも伝えられています。

でもその内側には、静かに燃える知性と美意識があったのかもしれません。

息子家基の早世と家治の“後継ぎ問題”

徳川家基

家治には将軍職を継ぐはずの嫡男・家基がいましたが、1779年2月、鷹狩り中に急病で倒れ、満18歳で急死。この突然の訃報は、父・家治に深い衝撃を与えました。

次男の貞次郎もいましたが、すでに生後間もなく夭折していました。結果として家治には存命の男子がいない状態に…。

直系の後継者を失った家治は、やがて一橋家の豊千代(のちの家斉)を養子に迎える決断をします。

この後継ぎ問題が、幕府内のバランスを揺るがし、田沼派と一橋派の緊張関係を生むことになります。

表向きは静かに見えた家治の晩年。

でもその裏では、将軍継承をめぐる“静かな政変”が着々と進行していたのです。

⇒ 徳川家基の死因は暗殺?種姫との関係やお墓の場所も解説

 

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大河ドラマべらぼうで描かれる徳川家治の死因とは?

『べらぼう』第31話では、ついに徳川家治の死とその死因が描かれる予定です。

静かに体調を崩していく将軍と、それを取り巻く大奥や政の動き。

表向きは病による死でも、その背後には“毒”や“策略”をにおわせる演出が待っているかも?

ここでは、放送前のあらすじ情報をもとに、ドラマでどのように家治の死因が描かれ、どんな人間ドラマが展開していくのかをご紹介します。

ここから先は、ネタバレがありますのでご注意ください

 

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「醍醐」が死因の伏線に?

べらぼう千保の方

べらぼう第31話では、家治の体調を心配した知保の方が、滋養食「醍醐(だいご)」を手作りして献上する場面が登場する予定です。

一見するとやさしさに満ちた行為ですが、実はこれは松平定信の助言によるもの

その後、家治は急激に体調を崩し、視聴者のあいだでは「もしかしてこれが死因の一端?」と考察を呼ぶ展開になりそうです。

やさしさの裏に、何かが隠されているかもしれない──そんな不穏な空気が漂います。

家治が口にする不穏な死因説

病状が悪化する中、田沼意次が家治の病床に呼ばれます。

そこで家治は、なんと「毒を盛られたかもしれぬ」と語るのです。

その言葉に込められたのは、自分の死因が自然なものではない可能性への疑念

黒幕として名前が浮かぶのは、一橋治済。

次期将軍の座を息子・家斉に引き継がせるため、密かに権力を動かしていた彼の影が色濃く描かれます。

この瞬間、病死では済まされない“政の闇”が物語に立ちのぼります。

“まとうどの者”に託された想い

死を間近にした家治は、若き家斉を枕元に呼び寄せ、「田沼主殿頭は、まとうどの者である」と言い残します。

この言葉は、田沼意次への静かな信頼の表明であり、政の裏側を知る者としての使命を託す一言でもあります。

自分の死因がなんであれ、権力争いに屈せず、次代を支えてほしいという願い──。

この一言に、家治の静かな覚悟がにじみ出ています。

そして、力を振り絞るように語る「天は見ている」の言葉が、物語を締めくくります。

家斉が新将軍に

家治の死を受けて、将軍職は治済の息子・家斉へ。

治済が「これからはこの父が支えます」と深々と頭を下げる場面が描かれる予定です。

一方、田沼意次はすでに失脚。家治の死因がどうであれ、政治の主導権は治済の手に移っていくという、静かな政変が描かれそうです。

まさに、“表”と“裏”が交差する瞬間になりそうですね。

家治の死因が語る時代の変わり目

家治の死が単なる病死か、はたまた策略によるものなのか──。

その死因に揺れるドラマの構造そのものが、まさに『べらぼう』らしさの真骨頂です。

病、毒、権力──さまざまな可能性が張りめぐらされる中で、視聴者は次第に見えない真実に引き寄せられていくでしょう。

そしてこの死が、蔦屋重三郎や吉原、出版の未来とどうつながっていくのか。“静かな最期”が、物語の新たな幕開けとなりそうです。


以上、今回は徳川家治の死因についてご紹介しました。

脚気による病死説が有力とされる一方で、毒殺や政争説もささやかれる家治の最期。

その背景には、静かな将軍の死をきっかけに動き出す政の駆け引きがありました。

『べらぼう』第31話では、その死因がどのように描かれ、どんな伏線が張られるのか──歴史とドラマが交差する見どころのひとつとなりそうです。

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