NHK大河ドラマ『べらぼう』でも注目されている絵師・葛飾北斎と作家・曲亭馬琴。
二人は江戸の出版界で名作を生み出した名コンビでしたが、同居や喧嘩など波乱の関係でも知られています。
その出会いを支えたのが、名版元・蔦屋重三郎。三人の縁が、江戸の文化を動かしたのです。
この記事では、
- 葛飾北斎と曲亭馬琴の出会いと関係の始まり
- 同居説?とその実態
- 喧嘩別れと蔦屋重三郎の役割
についてお伝えします。
葛飾北斎と曲亭馬琴の関係|出会いは?
葛飾北斎と曲亭馬琴が“ある縁”を通じて結びつくまでには、江戸の出版文化と人脈の網の目が見え隠れしています。ふたりの出会いをたどりましょう。
蔦屋重三郎がつないだ二人の縁
葛飾北斎(当時は勝川春朗などの号を用いていた時期もありました)は、まだ世に広く名を知られていなかった頃から、浮世絵や絵入り出版物の世界に関わっていました。
一方、馬琴(滝沢馬琴・瑣吉)は戯作者としての道を歩みはじめる最中で、蔦屋重三郎という当時の出版界有力者が二人をつなぐ役割を果たしました。
蔦屋重三郎は、喜多川歌麿や山東京伝らを世に出した版元として知られ、出版物の企画・編集・流通を支える“仕掛け人”でもありました。
1792年(寛政4年)、馬琴が蔦屋で番頭として働き出したことが契機となり、その蔦屋を介して北斎と馬琴は出会うことになります。つまり、蔦屋重三郎こそが北斎と馬琴の間に「出版という場面」を用意したパイプ役だったのです。
読本の挿絵で始まった創作関係
北斎と馬琴が最初に明確に名を連ねて事業を始めたのが、読本というジャンル。読本は主に本文で物語を語りつつ、適所に挿絵を挿入する形式の出版物で、読者に視覚的な味付けを与える役割がありました。
記録上では、馬琴の黄表紙に北斎が挿絵を提供したのが、二人の共同作業の始まりと見られています。
その後、代表作になったのが『椿説弓張月』。
出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/200004148
文化4年(1807年)の刊行がヒットとなり、北斎・馬琴コンビの名を江戸中に響かせました。
この読本挿絵協働が、北斎と馬琴の関係がただの知己や “同じ界隈” 同士でなく、“創作をともにするパートナー” へと変化していく出発点でした。
初期の成功と江戸出版界での評判
『椿説弓張月』の成功は、二人の関係性をさらに深めます。
読本への挿絵という分野で、北斎が物語の世界を視覚化する能力を見せたこと、馬琴が文章面で読者を惹きつけたことが相互補完となり、ヒット作を次々と世に送り出しました。
この成功は、北斎の名前を浮世絵という枠を超えて文芸界に広め、馬琴の作品の知名度も上げる結果となります。江戸出版界において、絵と文章を結びつけるコラボレーションのひとつのモデルとして評価されるようになります。
また、創作面での刺激や駆け引きがあったからこそ、互いに成長を促す関係となったとも考えられます。後年には意見衝突や決別のエピソードも残るほど、緊張感を帯びたパートナーシップでもあったのです。
このように、北斎と馬琴の出会いと最初の協働は、蔦屋重三郎という媒介者が出版界の交差点で二人をつなぎ、読本という形式で創作的な関係性を育てたことによって始まりました。
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同居or居候? 北斎と馬琴の距離感と関係性
北斎と馬琴の関係にまつわるエピソードの中でも、とりわけ興味を引くのが「同居説」です。確かな史料は乏しいものの、江戸時代の出版・生活事情をふまえながら、二人の生活の距離を探ります。
馬琴宅に転がり込んだ北斎という逸話
江戸の俗説のひとつに、「北斎は一時期、馬琴の家に転がり込んで暮らしていた」という話があります。「北斎と馬琴は同居するほど親密だったという話」が紹介されています。
この話は、北斎がまだ名声を得る前、援助や便宜を求めて馬琴に近づいた可能性を示すもの。ただし「同居」という言葉をそのまま鵜呑みにするには慎重で、実際は「長期滞在」「居候」に近い形だった可能性も高いでしょう。
“同居”と呼ばれた日々の真相
同居説には、いくつかの疑問点も指摘されています。
まず、馬琴は家庭を持つ身であり、家族との生活基盤があった点です。そのような家に、別の絵師が長期居住するほどの余裕が常にあったかは不透明です。
また、“同居”という表現が後世の解釈や脚色を通じて強調された可能性も否定できません。江戸の作家・絵師界では、仕事場と住まいが混在することも多く、仕事場兼居住スペースでの滞在という程度だった可能性も十分あります。
生活を共にした背景と創作の刺激
たとえ厳密な意味での“同居”ではなくても、北斎が馬琴の近傍に身を置くことには意味がありました。
馬琴の家で過ごすことで、作品の草稿や構成を頻繁にやりとりでき、挿絵の打ち合わせや修正も柔軟に行える環境につながったはずです。
そのような“距離の近さ”こそが、二人の創作関係を強め、意見交換や相互影響を可能にした基盤と考えられます。
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喧嘩別れ? 葛飾北斎と曲亭馬琴の関係に走った亀裂
葛飾北斎と曲亭馬琴の関係は、長い協働のなかで創作の緊張をはらんでいました。
特に読本の挿絵制作では、絵師と作者の意見が衝突することもしばしばあったと伝わります。
挿絵をめぐる意見の衝突
曲亭馬琴は物語の世界観を細かく設計する作家でしたが、葛飾北斎は独自の構図や解釈を加えたい絵師でした。
その違いが、次第に摩擦を生みました。
曲亭馬琴が指定した場面を描く際、葛飾北斎は構図を変えたり、登場人物の向きを逆にしたりしたこともあったといいます。
この“創作の主導権”をめぐるズレこそが、二人の間に最初の亀裂を生んだ要因でした。
北斎にとって挿絵は“従属する絵”ではなく“もう一つの物語”でした。対する馬琴は、読本の世界を壊しかねない自由さを警戒したのではないでしょうか。二人の衝突は、まさに才能同士のぶつかり合いだったと思われます。
「草履をくわえる」伝説の真相
後年、最も有名になった逸話が「草履をくわえる人物を描け」と命じた場面です。
「馬琴が“草履をくわえた人物”を描くよう命じたところ、北斎は『そんな汚らしいものを描けるか』と激しく反発した。」
出典:東大教授がおしえる やばい日本史
この話は決定的な“喧嘩別れ”の象徴として広く知られていますが、同時代史料には記録がなく、後世の伝記的脚色である可能性が高いと指摘されています。
真偽はさておき、この話が語り継がれてきたこと自体が、葛飾北斎の「妥協しない職人気質」を象徴していると感じます。曲亭馬琴との関係がそれほど印象的だった証でしょう。
協働の終焉と“絶交”の真実
葛飾北斎と曲亭馬琴の共同作業は、文化12年(1815年)を境に途絶えます。以降、馬琴の作品には別の絵師が起用され、北斎は絵手本や風景画の制作へと軸を移しました。
とはいえ
「両者の決別を明記する同時代史料は存在せず、絶交の事実は確認されていない。」
といわれるように、“喧嘩別れ”という言葉はやや誇張です。
創作方針や生活環境、出版事情など、複数の要因が重なって距離が開いていったとみるのが妥当でしょう。
二人は反発しながらも、互いを高め合う「競争的な関係」を築いていたように思われます。
葛飾北斎と馬琴の“喧嘩”は単なる確執ではなく、創作への情熱がぶつかり合った結果だったとも言えます。互いに妥協しない二人の気質が、江戸文学と絵画の新たな地平を生んでいったのでしょう。
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蔦屋重三郎の役割――二人を結んだ“江戸の仕掛け人”
葛飾北斎と曲亭馬琴協働するにあたり、背後には“版元=出版の仕掛け人”としての蔦屋重三郎の存在が欠かせません。
蔦屋重三郎は単なる出版者以上に、作品を企画し作者と絵師を結ぶ「プロデューサー」として振る舞った人物でした。
蔦屋重三郎の出版者としての面とその影響力
蔦屋重三郎は江戸時代後期、黄表紙・洒落本・浮世絵出版を手がけた著名な版元。
重三郎は、1792年(寛政4年)には無名時代の馬琴を番頭として迎え入れたとされます。
また、葛飾北斎がまだ勝川春朗などの号を使っていた時期に蔦屋が接触し、葛飾北斎の絵を出版に結びつけた可能性が高いのです。
これらの史実から、蔦屋重三郎は「才能を見出し媒介する存在」として、北斎と馬琴の創作関係を形成する場を提供したといえます。
蔦屋の死後
蔦屋重三郎は1797年(寛政9年)に亡くなります。
その後、北斎と馬琴の協働出版は持続せず、北斎は別のジャンルや取引先へ拡がっていく道を選びます。
また、蔦屋没後に出版界での勢力構図が変化したことも、二人の創作関係に影響を及ぼしたと考えられます。
重三郎の死は、北斎と馬琴の創作関係にとってひとつの転換点だったのでしょうか。
蔦屋重三郎という“潤滑油”が去ったことで、両者は自由度の高い創作路線を求め始め、自然と関係の形が変わっていったのかもしれませんね。
以上、今回は葛飾北斎と曲亭馬琴の関係、そして二人を結んだ蔦屋重三郎についてお伝えしました。葛飾北斎と馬琴は、出版の現場で出会い、読本の挿絵を通じて才能を響かせ合いました。
やがて意見の衝突も生まれましたが、その緊張が二人をさらなる高みへ導いたのです。蔦屋重三郎の存在がなければ、この創作の奇跡は生まれなかったでしょう。大河ドラマべらぼうではこの3人の関係がどのように描かれるのか、楽しみですね。
べらぼうでは第40話でふたりのキャラクターが初登場です!
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