江戸時代中期に、自在な発想と多才な才能で名を馳せた 平賀源内。
発明家/蘭学者/戯作者として、電気装置「エレキテル」などを世に送り出し、まさに“江戸のダ・ヴィンチ”とも呼ばれています。
しかしその一方、源内の最期には不可解な点が数多くあり、「牢屋で亡くなった」とされる定説に対して、なかには「実は生き延びていたのでは?」という“生存説”も囁かれています。
この記事では
- 平賀源内の生涯とその死
- 平賀源内生存説の内容と根拠
- 生存説が生まれた背景や意味
についてお伝えします。
平賀源内とはどんな人物?
平賀源内の名を聞くと、多くの人が「エレキテル」を思い浮かべるかもしれません。源内の才能は発明だけにとどまらず、医学・鉱物学・戯作・美術など、実に幅広い分野におよびました。
まずは江戸時代に“マルチクリエイター”として活躍したその人生をたどってみましょう。
江戸の天才
平賀源内は、享保13年(1728年)に讃岐国志度(現在の香川県さぬき市志度)で生まれました。足軽出身の家系ながら、幼少期から発明やからくりに興味を示し、「お神酒天神」と呼ばれる仕掛け掛軸を11歳で作ったという記録もあります。
その後、長崎で蘭学を学び、江戸へ出て本草学(薬草・鉱物を扱う学問)にも取り組み、さらに発明・芸術・文学まで手掛ける“マルチクリエイター”として活躍。
例えば、静電気を起こす装置「エレキテル」を復元し実演して人々を驚かせた点も、平賀源内の技術とセンスの両方を物語っています。
平賀源内の最期
平賀源内は順風満帆とは言えず、財政的な苦境や事業の失敗、さらにはある口論から人を傷つける事件を起こし、江戸・小伝馬町の牢屋敷に入ることになりました。
安永8年12月18日(西暦1779年)に、獄中で破傷風とされる病気か、病状悪化によって亡くなったと伝えられています。享年52歳でした。
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平賀源内「生存説」とは?
江戸の牢で亡くなった――それが長く信じられてきた平賀源内の最期です。
けれども、「実は生き延びていたのではないか」という驚くべき噂が、いつしか人々の間に広がっていきました。
遠州相良、讃岐高松、そして蝦夷地へ――源内の“もう一つの人生”を描く生存説は、どのように生まれ、語り継がれてきたのでしょうか。
遠州相良に“生き延びた”という平賀源内伝説
平賀源内は、安永8年(1779年)に江戸の小伝馬町牢屋敷で亡くなった――と公式記録では伝えられています。しかし、「その死には不審な点が多い」として、早くから“生きていた説”が語られてきました。
なかでも最も有名なのが、「遠州(現在の静岡県牧之原市相良)に逃れて生き延びた」という説です。
この“遠州相良説”は、源内が牢死したという知らせが広まる一方で、「実際に死体を見た者がいなかった」「田沼意次が裏で助けた」という噂が庶民の間で囁かれたことから始まったといわれています。
伝承によると、田沼意次は源内の才能を非常に高く評価しており、牢屋で死なせるのを惜しんで「仮死状態に見せかけて救い出した」といいます。
そして、田沼意次の支配地であった遠州相良に匿い、そこで源内は「医者」や「薬師」として静かに暮らした――というのです。
相良の古い家には「源内先生が使った」と伝わる薬研や文机が残っており、また地元には「牢を出されたあと、長年この地に住んだ」とする口伝も複数存在します。
牧之原市周辺では、今でも「源内がここにいた」という看板や説明板を見ることができ、地域の小学校では昔話として語られることもあるほどです。
この説は、明治初期の儒学者・東条琴台が著した『先哲叢談続編』にも登場します。
琴台はその中で、「源内、遠州に逃れ医を業として一生を終ふ」と記しており、伝説がすでに江戸末期から広まっていたことを示しています。
史実としての裏づけは乏しいものの、文献記録に残ること自体、当時の人々が本気で「源内は生きている」と信じていたことの表れともいえるでしょう。
讃岐・高松に帰った説、蝦夷地や越後へ渡った説も?
遠州相良説のほかにも、平賀源内の行方をめぐる“もう一つの物語”がいくつも存在します。
ひとつは、源内の故郷・讃岐(現在の香川県)にひそかに帰ったという「讃岐帰郷説」。
この説では、牢屋から出されたあと、源内は身分を隠して高松藩領に戻り、地元の人々に医学や農業の知識を教えながら余生を送ったといわれています。高松市内には「源内が隠棲した庵があった」とされる土地が複数あり、地元の郷土史家がその痕跡を探し続けています。
さらに一部では、「源内は北へ向かった」とする伝承もあります。
たとえば蝦夷地(北海道)でアイヌ民族と接し、薬草や鉱物の調査を続けていたという説、または越後(新潟方面)に渡って新たな技術研究を行っていたという説です。
いずれも源内の知的好奇心と行動力を考えると「ありえない話ではない」と感じられるため、信じる人も少なくありません。
これらの多彩な“逃亡先”の説は、どれも具体的な証拠に乏しい一方で、「平賀源内という人物なら、きっとどこかで研究を続けていたに違いない」と思わせる魅力を持っています。
つまり、生存説は史実というよりも、平賀源内の生き方そのものへの“信仰”や“憧れ”に近いのです。
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平賀源内生存説に証拠はある?
“源内は生きていた”という言葉は、どこから生まれたのでしょうか。
遠州相良や讃岐で伝わる数々の逸話、古文書に残された一節……。ここでは、生存説を裏づけるとされる証拠や伝承をたどりながら、その信憑性を探っていきます。
古記録に残る「平賀源内生存」の痕跡
平賀源内が「実は生き延びていた」と語られる理由のひとつは、江戸末期から明治にかけて登場した複数の文献に、生存を示唆する記述が残っていることです。
なかでもよく知られているのが、明治初期の儒学者・東条琴台が編んだ『先哲叢談続編(せんてつそうだんぞくへん)』です。
この書物の中で、東条琴台は「源内、遠州に逃れ、医を業として一生を終ふ」と記しています。
つまり、牢で亡くなったという定説とは異なり、「遠州に逃げて医者として余生を過ごした」という伝承が、すでに19世紀半ばには語られていたことがわかります。
さらに、静岡県牧之原市相良には「源内が滞在した」と伝えられる場所が点在しています。たとえば「源内屋敷跡」「源内薬研(やげん)」など、古くから地元の人々に親しまれてきた史跡がいくつもあり、土地の古老たちは「牢を出たあと、この地に身を寄せた」と語り継いできました。
地域の郷土資料には、源内が薬草の知識を教えたり、病人を診たりしたという記述もあり、江戸後期の文人・医師が記した随筆にも「相良の知恵者・源内先生」といった言葉が残っています。
また、讃岐(香川県)にも「牢屋を出たのち、こっそり高松に戻ってきた」という伝承があり、地元では「源内帰郷説」として今も語られています。
高松市周辺の古文書には「源内、志度に帰り、隠棲したる由」と書かれた一節が残されており、これを生存の証として取り上げる研究者もいます。
生存説を強めるもの
遠州・讃岐・蝦夷地など、複数の地域に「平賀源内が来た」という口伝が存在する点も、生存説を後押しする要因になりました。
江戸時代には通信や記録が十分に整っていなかったため、噂や旅人の話が人づてに広がることで、同じ人物に関する複数の伝承が自然と生まれました。
各地に残る「源内が来た」「源内先生に教わった」という話は、史実として裏づけるのは難しいものの、人々が源内という人物をいかに身近に感じ、憧れを抱いていたかを示しています。
実際、静岡県相良の一部地域では、源内を祀る小さな祠(ほこら)が建てられ、医療や学問の守り神として信仰された例もあります。こうした“民間信仰”の存在は、伝説が単なる噂ではなく、人々の生活や文化の中に根づいていたことを物語っています。
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平賀源内生存説に証拠はない
一方で、研究者の多くは「生存説には決定的な証拠がない」と見ています。
その最大の理由が、東京都台東区橋場に実在する「平賀源内の墓」の存在です。
墓碑は安永8年(1779年)の日付を刻み、墓誌には「江戸牢中にて卒す」と明記されています。さらに、源内の遺骸は浅草近くの回向院に一時埋葬され、のちに橋場に改葬されたという記録も残っています。
このような一次資料があることから、「死を偽装して逃れた」という話を史実として受け入れるのは難しいという意見が主流です。
また、当時の牢屋制度では、罪人が亡くなった際に遺体を家族へ引き渡すことは珍しくなく、源内の遺族が遺体を引き取った可能性も十分に考えられます。
「遺体を見た者がいない」という生存説側の主張は、現存する史料からみるとやや弱いといえるでしょう。
“史実”と“伝説”のはざまで――どこまで信じられるのか
文献・口伝・史跡のいずれを見ても、「平賀源内が生きていた」と断言できる確たる証拠はありません。
しかし、それでもこの説が今日まで語り継がれているのは、人々が源内という存在に特別な魅力を感じてきたからにほかなりません。
牢死という結末を受け入れがたいほどの天才。時の権力者・田沼意次に重用され、時に風刺と創造の狭間で苦しんだ知の巨人。
その人生があまりにも劇的だったために、「もしかしたらどこかで生きていたのでは」という想像が、江戸の庶民の心をとらえたのです。
つまり、生存説は単なる歴史の“誤解”ではなく、源内という人物が時代を超えて愛され続けたことの証でもあります。
史実の裏側で生まれたこの伝説は、天才への憧れと敬意が形を変えて残った、もうひとつの“物語”なのです。
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なぜ平賀源内生存説が生まれたのか?
平賀源内の死は、あまりにも突然で、そしてあまりにも惜しまれるものでした。
天才ゆえの孤独、時代の流れに取り残された知識人――その姿は、江戸の人々にとって“消えてほしくない存在”でもあったのです。
ここでは、生存説が生まれた背景にある時代の空気と、庶民の心情を読み解いていきます。
田沼意次との関係が鍵?
平賀源内生存説の背景には、当時の政治状況も関係しています。
平賀源内を支援していた田沼意次は、改革派の老中として多くの敵を持っており、田沼意次に仕えていた源内が巻き添えで処罰されたという説があります。
そのため、田沼失脚後に源内の死が「政治的な口封じだったのではないか」と噂され、逆に「田沼が救った」「密かに遠州へ逃がした」という“救出伝説”が広まったのです。
政治と天才、そして陰謀が入り混じるこの物語は、江戸の人々にとって格好の“ミステリー”だったのかもしれません。
天才の早すぎる死が生んだ“希望の物語”
平賀源内は52歳という若さでこの世を去ったと伝えられています。その早すぎる死が、当時だけでなく後世にも“もっと生きていてほしかった天才”として語られる背景になりました。
そのため、庶民や後世の人々は「もしかしたら生き延びていたのではないか」という希望やロマンを源内に重ね、生存説という物語を生んだとも考えられています。
以上、今回は「平賀源内生存説」についてお伝えしました。
2025年の大河ドラマ『べらぼう』でも、源内は亡くなってしまったことになってますが、生存説は飛び出すのでしょうか?
史実を超えて生き続ける“もうひとつの源内像”に、江戸の人々が託した夢を重ねてみたくなりますね。