2025年のNHK大河ドラマ『べらぼう』第1話では、江戸時代を揺るがせた「明和の大火」が描かれる予定です。この大火は、当時の日本の中心地である江戸を襲い、多くの被害をもたらしました。
特に、遊郭文化の象徴であった吉原も甚大な被害を受け、その後の復興や文化の変化にも大きな影響を及ぼしました。
また、この出来事が起きた時、江戸幕府の将軍であった徳川家治がどのように対応したのかも注目すべきポイントですね。
この記事では、
- 「明和の大火」の概要
- 吉原への影響
- 当時の将軍の対応
などについて解説します。ドラマをより楽しむための背景知識として、ぜひ参考にしてみてください。
明和の大火とは?江戸を襲った歴史的大火
江戸時代の三大大火のひとつ、明和の大火。
この火災は明和9年(1772年)2月29日、目黒行人坂にある大円寺から始まったとのことです。
火元から勢いよく広がり、南西からの強風に煽られて、麻布、京橋、日本橋、神田、そして千住方面まで燃え広がりました。
焼失した町は934町、焼失した大名屋敷は169、寺院は382にも上ったそうです。
被害の概要
この火災によって、山王神社や湯島天神などの有名な神社仏閣も被害を受けました。
また、死者は14,700人、行方不明者は4,000人以上と記録されています。さらに、この大火で老中・田沼意次の屋敷も類焼したとのこと。
江戸時代における大火の特徴
江戸の街は木造建築が密集していたため、一度火が出ると大火事になりやすかったのが特徴です。
また、火消しの仕事は火を直接消すというより、延焼を防ぐために火元の建物を壊すことが主な役割だったそうです。この火消しの文化は現在の消防制度の原点とも言えますね。
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明和の大火で吉原遊郭はどうなった?
「吉原炎上」という映画もあるとおり、吉原といえば火事をイメージされる方も多いのではないでしょうか?
事実として、江戸で発生した大火の約8割が吉原を起点としていたと言われています。遊郭が営業を始めてから明治維新までの210年間で、吉原は平均して11年に1回ほど全焼していたとのこと。その頻度には驚かされますね。
ここでは、べらぼう第1話で描かれる明和の大火にフォーカスして吉原の様子をお伝えしたいと思います。
明和の大火で吉原が受けた被害
明和9年(1772年)3月、江戸を襲った「明和の大火」。この大火で、吉原遊郭も甚大な被害を受けました。
街全体が焼け落ち、多くの建物が灰になってしまったとのこと…。
でも、吉原の人たちは諦めませんでした。
幕府にお願いして、浅草や深川などに「仮宅」と呼ばれる臨時の営業所を作り、すぐに営業を再開!仮宅は今の吉原より便利な場所だったため、お客さんもたくさん訪れて大繁盛。逆に商売がうまくいったという話もあります。
遊女たちや関係者のその後
焼け出された遊女たちは、仮宅で仕事を続けました。
生活の変化に戸惑う人も多かったけれど、「ここで働かなきゃ」とみんな頑張ったそうです。中には、新しい環境で少し自由を楽しんだ遊女もいました。
一方で、大火で疲れ果ててしまった人もいたようです。特に、過酷な環境に耐えられず、問題を起こしてしまった遊女もいたとか。
それでも多くの人が立ち直り、再建された吉原でまた働き始めたそうです。
吉原の文化への影響
仮宅での営業は、普段の吉原とはちょっと違いました。
格式ばったルールもゆるくなり、遊女たちも自由な空気を楽しんだとも伝わります。これがかえって庶民には嬉しい変化で、多くの人が気軽に遊郭に訪れるようになったんですね。
また、火事の後に再建された吉原では、防火対策がしっかりとられるようになりました。街全体の構造も見直され、より安全な遊郭として生まれ変わったとも。
大火という試練を乗り越えて、さらに活気を取り戻した吉原。遊女たちや街の人々のたくましさが伝わってきます。この出来事が、江戸文化をさらに豊かにしたきっかけになったのかもしれません。
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明和の大火|当時の将軍は誰だった?幕府の対応は?
明和の大火が起きた1772年(明和9年)、江戸幕府を率いていたのは第10代将軍・徳川家治でした。
家治は、第9代将軍・徳川家重の跡を継ぎ、1760年(宝暦10年)に将軍職に就任した人。
田沼意次を重用したことでも知られています。田沼意次は、商業を活発にして幕府の財政を立て直そうと奮闘した人物ですね。
幕府の対応
明和の大火は、目黒の大円寺から出火。強い風に煽られて、あっという間に江戸市中へ広がってしまいました。
この火事で、江戸の約半分が焼けてしまい、死者はなんと1万8,000人以上にもなったそうです。
幕府は、この大災害に対して素早く動きました。
被災者を救済し、町の再建や都市機能の回復を進めたのです。さらに、火事を防ぐための対策も強化しました。
「こんな被害を二度と起こしてはならない!」という気持ちが行動の原動力になっていたのかもしれませんね。
将軍と吉原の関係性
吉原遊郭は、江戸幕府が公認した遊郭。遊女たちやその関係者は、幕府の監督下で営業を行っていました。
明和の大火では吉原も全焼。遊女たちは「仮宅」と呼ばれる仮の場所で営業を続けることになったそうです。
幕府は、吉原の再建にも協力しました。
場所の確保や営業再開の許可を出すことで、吉原の復興を後押し。こうして、徳川家治の時代に、吉原は再び江戸の娯楽文化の中心地としてよみがえったわけです。
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江戸の三大大火とは?
最後になりましたが、明和の大火を含む江戸の三大大火についておさらいしておきましょう。
江戸の三大大火は、明暦の大火、明和の大火、文化の大火の三つを指します。
これらの火災は江戸の街を焼き尽くし、数多くの被害をもたらしましたが、同時に江戸の防災体制や都市計画の進化を促すきっかけにもなりました。
1. 明暦の大火(1657年)
振袖火事として知られる江戸時代最大の火災。この火災は本郷丸山(現在の文京区)から発生し、江戸城の天守や大名屋敷を含む外堀以内のほぼ全域を焼き尽くしました。
- 焼失範囲:江戸市街地の大半
- 死者数:諸説あり、3万~10万人と記録されています。
- 特徴:被害の大きさから、天守の再建を見送り城下の復興を優先したという話が伝えられています。
2. 明和の大火(1772年)
目黒行人坂(現在の目黒区)にある大圓寺から発生。南西からの強風に煽られ、江戸全域に広がりました。
- 焼失範囲:934町、大名屋敷169棟、寺382棟。
- 被害の詳細:山王神社や湯島天神、日本橋地区が壊滅状態に。死者は1万4,700人、行方不明者は4,000人以上と記録されています。
- 特徴:老中・田沼意次の屋敷も類焼。防火帯や日除け地といった対策が見直されるきっかけとなりました。
3. 文化の大火(1806年)
丙寅の大火とも呼ばれ、芝・車町(現在の港区)から発生しました。材木座付近から広がり、神田や浅草方面まで延焼しました。
- 焼失範囲:530町、焼失家屋12万6,000戸以上。
- 死者数:1,200人以上とされています。
- 特徴:幕府は「御救い小屋」を建て、仮の宿や食事を提供するなど被災者救済に力を入れました。
江戸時代の火災対策と教訓
これらの大火を通じて、江戸では道路の拡幅や防火帯の設置、火消し制度の整備が進みました。
また、火災時には火の見櫓(やぐら)の鐘が鳴らされるなど、地域住民による防災体制も強化されました。
これらの工夫は現代の防災体制にもつながっています。
江戸の人々は幾多の試練を乗り越え、街を再建し続けました。そのたくましさに、歴史の奥深さを感じますね。
以上、今回は明和の大火と吉原の関係などについて、ご紹介しました。
明和の大火がどう描かれるのか、そのなかで横浜流星さん演じる蔦屋重三郎がどんな働きをするのか、そんな視点でみるのもいいですね。
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