2025年前期の朝ドラ「あんぱん」第19週では、“いせたくや”というキャラクターが登場しますね。
実はこの人物、昭和を代表する作曲家・いずみたくさんがモデルとされています。
やなせたかしさんとの関係は?どんな出会いだったの?
といずみたくさんが手がけた名曲には、どんな物語があったのでしょうか。
この記事では
- やなせたかしといずみたくの出会いと関係
- 名曲『手のひらを太陽に』誕生の背景
- 晩年まで続いた創作の絆と遺作のエピソード
についてお伝えします。
やなせたかしといずみたくの関係|出会いは?
2025年放送の朝ドラ「あんぱん」に登場する“いせたくや”(演:大森元貴さん)は、作曲家・いずみたくさんをモデルにした人物です。
“いせたくや”と主人公・柳井嵩(モデル:やなせたかし)の交流は、史実におけるやなせさんといずみさんの関係をもとに描かれています。
⇒ いせたくやの実在モデルはいずみたく!どんな人?大森元貴の起用理由も
ここでは、やなせたかしさんといずみたくさんの出会いの経緯とその後のつながりについてご紹介します。
いずみたくとやなせたかしの関係は、舞台『見上げてごらん夜の星を』から始まった
やなせたかしさんといずみたくさんが初めて出会ったのは、1960年の舞台『見上げてごらん夜の星を』の制作現場でした。
この舞台は永六輔さんの企画・脚本・演出によるもので、やなせたかしさんが舞台美術を担当し、いずみたくさんが音楽(作曲)を担当しました。
この作品をきっかけに、ふたりは仕事仲間として親交を深め、のちに童謡やミュージカル、舞台などで協力関係を築いていきます。
(朝ドラあんぱんでは、ちょっと史実とはちょっと違う出会いになるかもしれませんね)
永六輔がつないだ縁
ふたりを引き合わせたのは、放送作家・作詞家として知られる永六輔さん。
永さんは当時、ミュージカル『見上げてごらん夜の星を』(1960年)の企画・脚本・演出を手がけており、やなせたかしさんを美術担当、いずみたくさんを作曲担当として招き入れたことで、ふたりの最初の出会いが実現します。
この舞台の経験が、やなせさんにとっても、いずみさんにとっても、その後の創作人生に大きな影響を与えることになりました。
やなせさんはこのときのことを、著書『人生なんて夢だけど』(海竜社、2005年)で振り返っています。
ある日、永六輔さんが突然やなせさんの自宅を訪ねてきて、「お願いがあってやってきました」と切り出したのだそうです。
当時ふたりは面識がなかったにもかかわらず、永さんは舞台美術をやなせたかしさんに依頼。
その意図について、やなせたかしさんは
「なぜ自分に声をかけたのか、最後までよくわからなかった」
と記しています。
それでも、この不思議な縁がやがていずみたくさんとの出会いにつながり、ふたりの長い創作関係の始まりとなったことは、まさに“鬼才”永六輔さんがもたらした偶然のような奇跡だったと言えるでしょう。
異分野ながらも意気投合
やなせたかしさんは戦後、商業デザインや舞台美術の世界で活動を続けていました。
一方のいずみたくさんは、映画や舞台、テレビ音楽など幅広い分野で作曲家として頭角を現していた人物。
当時のふたりがすでに確固たるキャリアを築いていたわけではありませんが、それぞれの専門分野で培った感性が、『見上げてごらん夜の星を』という舞台の中で響き合ったことで、以降の長い協業につながっていったのかもしれませんね。
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共鳴しあう才能|作詞・やなせたかし × 作曲・いずみたく
やなせたかしさんといずみたくさんが出会った後、その才能はすぐに共鳴し、名曲を次々と生み出す「名コンビ」へと発展していきました。
ここではやなせたかしさんといずみたくさんの代表作や共作の背景を見ていきましょう。
名曲『手のひらを太陽に』が生まれるまで
1961年、やなせたかしさんは日本教育テレビ(現:テレビ朝日)の朝のニュース番組の構成をしていました。
その番組で「今月の歌」として、自作の詞『手のひらを太陽に』を書きました。
夜中、仕事中に電気スタンドで自分の手を温めていた際、透けて見えた赤い血潮からインスピレーションを得たと語っています。
その歌詞を、知人であったいずみたくさんに作曲を依頼し、完成したのがこの曲です。
曲は1962年にNHK『みんなのうた』で、宮城まり子さんとビクター少年合唱隊によって歌われ、日本中に広まりました。
その後、1965年にボニージャックスがキングレコードから発売し紅白歌合戦で歌唱されて大きな反響を呼び、名曲となったのです。
実はこんな作品も!知られざる共作
ふたりは『手のひらを太陽に』以降、1970年代から「0歳から99歳までの童謡」シリーズを制作し、月に一曲ずつ誰もが歌える歌を作り続けました。
このシリーズでは合計100曲以上を制作し、さまざまなジャンルの歌を通して老若男女に愛されました。
また、アニメ『アンパンマン』の世界でもタッグを組んでおり、キャラクターソング(「いくぞ!ばいきんまん」「おなじみしょくぱんまん」など)の多くを、やなせたかしさんが詞、いずみたくさんが曲を担当しています。
ふたりの作品が愛され続ける理由
やなせたかしさんといずみたくさんの作品が、時代や世代を超えて多くの人に親しまれてきたのは、「世代を超えて歌える歌を作りたい」という共通の想いがあったからです。
ふたりは、わかりやすく、生活の中に自然に溶け込むような歌を目指して創作に取り組みました。その姿勢が、子どもから大人まで誰の心にも届く、普遍的な歌となって表れたのです。
代表作『手のひらを太陽に』に象徴されるように、ふたりの作品には、日常の中でふと感じる小さな気づきや、生きることへのまっすぐなまなざしが込められていました。
難しい言葉を使わずに、しかし生命力あふれる言葉とメロディで、人々の心を励ます──そんなふたりの作風が、作品の持つ力をより一層際立たせていたのです。
また、ふたりは1970年代以降、「0歳から99歳までの童謡」と題して、月に1曲ずつ歌を作るという約束を交わし、実際に100曲以上を共作しました。
このような継続的な取り組みが、ふたりの間に揺るぎない信頼関係と創造的な融合を生み、長く愛される作品群へとつながっていったのですね。
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晩年まで続いたやなせたかしといずみたくの絆
やなせたかしさんといずみたくさんは、1960年代の出会い以来、童謡や舞台、アニメなど多彩な分野で共作を重ねてきました。
その関係は晩年まで続き、いずみたくさんの最期の仕事も、やなせさんとの共作によるものでした。
ふたりの創作活動の終幕には、長年にわたる信頼と敬意の絆が刻まれています。
いずみたくの遺作となったアンパンマン・ミュージカル
いずみたくさんが最後に手がけた作品のひとつが、1992年に発表されたミュージカル『それいけ!アンパンマン』シリーズの楽曲「すすめ!アンパンマン号」です。
この作品は、やなせたかしさんが作詞を担当し、いずみさんが作曲しました。
当時すでに体調を崩していたいずみさんは、病床から口述筆記の形で作曲を進め、楽譜としては完成し、あとは録音するだけという段階まで仕上げていたと伝えられています。
その後まもなく、いずみたくさんは1992年6月に逝去。この作品が遺作となりました。
⇒ やなせたかしは何歳でアンパンマンを描いた?誕生のきっかけと秘話を紹介!
最後まで共にあった、詞と曲の関係
このミュージカル楽曲には、やなせたかしさんの詞といずみたくさんの曲という、ふたりの創作スタイルが最後まで変わらずに貫かれていたことが、はっきりと表れています。
特別な言葉を交わさなくとも、彼らが最後まで同じ作品に向き合い続けていたという事実が、創作仲間としての絆を物語っているといえるでしょう。
長年の協働の末に生まれた最後の共作は、ふたりの友情と信頼の結晶として、今も多くの人に愛され続けています。
以上、今回はやなせたかしさんといずみたくさんの関係と、ふたりが生み出した名曲や創作の絆についてお伝えしました。
出会いのきっかけとなった永六輔さんの存在から、『手のひらを太陽に』をはじめとする数々の共作、そして最期の作品となったアンパンマンのミュージカルまで──
世代を超えて愛される作品の裏には、信頼と敬意に満ちた、ふたりの深い関係があったことがわかりますね。
朝ドラ「あんぱん」で描かれる“いせたくや”の姿にも、ぜひ注目してみてください。
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