朝ドラ『あんぱん』第21週では、主人公・嵩が「まんが教室」というテレビ番組への出演を依頼される展開が描かれます。
そのモデルとなったのが、やなせたかしさんが実際に出演していたNHKのテレビ番組「まんが学校」です。
この記事では
- 「まんが学校」とはどんな番組だったのか
- やなせたかしさんが出演することになった経緯
などについてお伝えします。
やなせたかしのテレビ出演番組「まんが学校」とは?
やなせたかしさんがテレビ出演していた「まんが学校」は、NHK総合テレビで1964年4月6日にスタートした児童向け番組です。
漫画やクイズを通じて、子どもたちに学びと娯楽を同時に届ける画期的な内容でした。
放送開始時期や放送局の概要
番組は、1964年4月6日から1967年3月27日まで、3年間にわたり放送されました。
NHK総合の夕方18時台という時間帯に位置づけられ、子どもが家庭でテレビを楽しむ“お茶の間の時間”を担ったのです
娯楽番組としての特徴
番組内では「まんがABC」などのコーナーが設けられ、子どもたちが漫画を描いたり、クイズを通して知識を学んだりしました。
出題されるクイズは自然科学や歴史、社会常識など幅広く、教育的要素が色濃く盛り込まれていたようです。
やなせたかしさん自身も、番組を振り返ってこう語っています。
クイズ番組のようなものではなく、もっと面白おかしく、それに漫画そのものについて教えられる番組にするべきではないかと思ったが、実際は現状でよかったと考える。なぜなら、番組の中で扱うクイズのような社会的常識は、漫画を描く上でぜひ必要なものだからだ。広く深い知識無しに良い漫画は描けない。
この言葉からも、単なる娯楽ではなく「漫画を描く力=知識を広げる力」を重視した番組であったことがわかりますね。
司会や出演者は?
司会を務めたのは、当時28歳、真打ちになって間もない立川談志さん。
勢いに乗る若手落語家で、やなせたかしさんより17歳も年下でした。
やなせさんは自伝『アンパンマンの遺書』の中で立川談志さんについて、
「これが生意気星からやってきたエイリアンみたいな人で、自分で『それじゃ今から名人芸を聞かせてやるか』なんて言っているが、一度彼の落語を聞いてその小気味よさに感心した。生意気も芸のうちになっていて毒を中和している」
と記しています。
周囲からは「ずいぶん大変でしょう」と心配されるほど辛口な談志さんでしたが、やなせさん自身は
「むしろ相性がよかった」
と振り返り、「多くを学んだ」と語っています。
また別の著書『人生なんて夢だけど』では
「生意気が洋服を着て歩いているような人物だから、ぼくの生意気は影が薄くなりました」
とも書いており、年下ながら談志さんに一目置いていた様子がうかがえます。
テレビ番組「まんが学校」では、そんな立川談志さんが司会を務め、やなせたかしさんは「まんがの先生」として子どもたちに漫画の描き方を教えました。
さらに毎回、手塚治虫さん、石ノ森章太郎さん、馬場のぼるさん、長新太さん、水森亜土さんなど人気漫画家がゲスト出演し、子どもたちと一緒に絵を描いたりクイズに挑戦したりする構成になっていました。
まさに、当時を代表する夢の顔ぶれがそろった番組だったのですね。
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やなせたかしがテレビ番組「まんが学校」に出演したきっかけ
「まんが学校」への出演は、やなせたかしさんにとって大きな転機でした。
偶然の出会いと、多彩に活動していた当時の状況が重なって実現したものです。
ここでは、番組出演に至る経緯と、その背景にあった活動の広がりを見ていきましょう。
突然のテレビ出演の誘い
ある日、NHKのディレクター・丸谷賢典さんが、やなせさんの自宅を突然訪ねてきました。
そして持ちかけられたのが「まんが学校」への出演依頼です。思いがけないオファーに、ご本人も驚きを隠せなかったといいます。
自伝『アンパンマンの遺書』の中で、
「なぜ、ぼくのような無名の漫画家で、明らかに容貌風姿が平均以下の人間のところへ、こんな話が舞いこんでくるのだろう」
と記しています。
それでも旺盛な好奇心から、未知の分野であるテレビ番組への挑戦を受け入れることになりました。
突然舞い込んだチャンスは、やなせたかしさんに新しい舞台を与えることになったのです。

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当時のやなせたかしの活動状況
1953年に三越を退職して専業漫画家となったやなせさんは、当初「大人漫画」や「ナンセンス漫画」で活躍していました。
しかし、手塚治虫さんらによるストーリー漫画の隆盛とともに、大人漫画の市場は急速に縮小。やなせさん自身も仕事の減少に直面していました。
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そうした中で引き受けたのが『まんが学校』という番組でのテレビ出演。
1964年から3年間にわたり「まんがの先生」として出演し、番組や漫画入門書の執筆を通じて、新しい可能性を切り拓こうとしていました。
この時期のやなせさんは、漫画以外の場でも存在感を放っていました。
放送作家や舞台美術、さらには作詞の仕事まで幅広く挑戦。
1961年には「手のひらを太陽に」がNHK「みんなのうた」で放送され、大ヒットを記録しています。
こうした幅広い活動が評価され、「困ったときのやなせさん」と呼ばれるほど、各方面から声がかかる存在となっていました。
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テレビ出演がやなせたかしの転機に?
『まんが学校』へのテレビ出演は、やなせたかしさんにとって転機のひとつだったのではないでしょうか。
テレビを通じて幅広い世代に名前が知られるようになり、その後の創作活動や方向性にも影響を与えたと考えられます。
ここでは、その意味を3つの視点から見ていきましょう。
テレビ出演を通じて子どもや家族層に認知
1964年から始まったNHK『まんが学校』に「まんがの先生」として出演したことで、やなせさんは全国の家庭に広く顔と名前を知られるようになりました。
当時、漫画家としての全国的な知名度は限られていましたが、テレビを通じて子どもや親世代にも存在が届き、依頼が増えていったと伝えられています。
子ども向け作品への方向性に
テレビ出演をきっかけに子ども向けの仕事が増え、その流れの中で1969年、PHP研究所の絵本雑誌『こどものえほん』に『アンパンマン』の原型となる作品が初めて掲載されました。
『まんが学校』で子どもたちに漫画を伝える経験は、やなせさんが子ども向け作品に注力する方向性を後押ししたと考えられます。
メディア横断的な活動の始まり
この時期のやなせさんは、漫画だけでなく舞台美術や放送作家、作詞など多分野にわたり活動を広げていました。
業界では「困ったときのやなせさん」と呼ばれるほど、幅広いジャンルから声がかかっていたといわれます。
『まんが学校』への出演は、そのマルチな活躍をさらに広げる契機となり、後の創作活動を支える基盤にもなっていきました。
以上、今回はやなせたかしさんがテレビ出演した番組「まんが学校」についてお伝えしました。
実際の番組内容や出演の経緯、キャリアへの影響を振り返ると、朝ドラ『あんぱん』で嵩が「まんが教室」に登場するシーンがどのように描かれるのか、ますます楽しみになりますね。
史実とドラマの重なりを知ることで、放送を見るときのワクワク感もひときわ高まりそうです。
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