アフィリエイト広告を利用しています

あんぱん

やなせたかしの母親・柳瀬登喜子さんの生涯|その後は?実話を調査

朝ドラ『あんぱん』で松嶋菜々子さんが演じる嵩の母・登美子。

ドラマでは“毒親”のように描かれる場面もありますが、実際のやなせたかしさんの母・柳瀬登喜子さんはどんな人だったのでしょうか。

この記事では

  • やなせたかしさんの母・柳瀬登喜子さんの生涯
  • やなせたかしさんとの別れやその後の暮らし
  • 晩年や最期に残された実話

についてお伝えします。

 

 やなせたかしの母・柳瀬登喜子さんの生涯

やなせたかしさんの母・柳瀬登喜子さんは、波乱に満ちた人生を歩みました。

名家に生まれながら、若き日の結婚と別れを経て、やなせさんを授かり、その後は未亡人として生きることになります。

名家に生まれた少女時代

柳瀬登喜子さん(1894~1967年)は、高知県香美市香北町永野の大地主の家に生まれました。

旧姓は谷内で、6人きょうだいの次女として育ち、県立第一高等女学校に進学。

当時としては珍しく、恵まれた教育を受けています。

美しい容姿と気の強さで知られ、若い頃から男性たちの注目を集めていました。

 

清さんとの結婚とやなせたかし誕生

学生時代に縁談で結婚するものの短期間で解消。

その後、再婚して二人の娘を授かりますが、生活は続かず実家へ戻りました。

やがて、上海の東亜同文書院で学んだ柳瀬清さんと出会い、1918年に結婚

翌年、長男としてやなせたかしさんが誕生します。

 

若き未亡人となった母の奮闘

しかし幸せは長く続かず、清さんは朝日新聞記者として赴任した中国で病に倒れ、31歳の若さで亡くなりました。

登喜子さんは、やなせたかしさんと母の鉄さんとともに高知市で暮らすようになります。

生活を支えるために、茶道や華道などを学び、社交的で華やかな姿を見せていました。

やなせたかしさんは後に

「母はいつも化粧をして出かけ、人の輪の中心にいた」

と語り、その存在を誇らしく思っていたと振り返っています。

 

スポンサーリンク

 やなせたかしと母との別れとその後

やなせたかしさんは幼いころ、母・登喜子さんと離れ離れになりました。

しかしその後も再会の機会はあり、母子の交流は続いていきます。

 

白いパラソルの記憶

夫を亡くしてから2年後、登喜子さんは再婚することになります。

その際、やなせたかしさんと弟の千尋さんは伯父の家に預けられました。

やなせたかしさんは著書『おとうとものがたり』で、母が白いパラソルを手に去っていく後ろ姿を見送った場面を描いています。

この別れは少年時代の大きな心の傷となり、後年も鮮明に記憶に残っていました。

あんぱんでもこのシーンが描かれましたね

 

東京での再会と下宿生活

やなせたかしさんが東京高等工芸学校(現在の千葉大学工学部)に進学すると、母・登喜子さんと再び生活を共にすることになります。

すでに再婚相手を亡くしていた登喜子さんは、自宅の一角を下宿として貸し出して暮らしており、やなせたかしさんはそこから学校に通いました。

幼い頃に別れて以来、再び近い距離で過ごせた貴重な時期でした。

 

再婚相手の子どもとの交流

登喜子さんの再婚相手には、前妻との間に息子がいました。その人物が前田正武さんで、やなせたかしさんより3歳年下にあたります。

正武さんは東京高等工芸学校を卒業後、五藤光学研究所に入社し、アメリカでプラネタリウムの普及に力を尽くしました。

やなせたかしさんのエッセイによれば、登喜子さんと正武さん、そしてやなせたかしさんの関係はとても良好で、親子のような温かい絆が育まれていたといいます。

 

スポンサーリンク

やなせたかしの母の戦中・戦後と晩年の実話

戦争が始まると、やなせたかしさんの母・登喜子さんは故郷に戻り、新しい暮らしを築きました。

戦中から戦後にかけては、地域の人々に慕われる存在として過ごした姿が伝わっています。

疎開先で“お茶のおばちゃん”として慕われる

戦時中、登喜子さんは高知県香美市の実家近くに疎開し、二間ほどの小さな家で暮らしていました。

生活のために生け花や茶道を教え、近所の子どもたちにとっては学童保育のような場を提供していたといいます。

地域の人からは「お茶のおばちゃん」と呼ばれ、子どもたちに礼儀作法や百人一首を教えるなど、温かく接していました。

当時を知る人々は

「お菓子を出してくれるのが楽しみだった」「話し方も上品で文化人のようだった」

と懐かしんでいます。

 

土佐弁が心の支えに

東京での暮らしでは標準語を使う必要があった登喜子さんですが、本音を話すときは生まれ育った土佐弁を口にすることが唯一の楽しみだったそうです。

高知出身の漫画家・横山隆一さんの回想によると、登喜子さんは「思いきり土佐弁で話したい」と近所を訪ね、大声で話す姿が印象的だったといいます。

方言は、故郷とつながる大切な心の拠り所だったのでしょう。

 

息子が漫画家になった喜び

やなせたかしさんが戦後に復員し、高知新聞で挿絵の仕事を始めると、登喜子さんは周囲にうれしそうに語っていました。

のちにやなせさんが東京でデザイナーや漫画家として活動するようになると、「息子は漫画家になった」と誇らしげに話していたと伝えられています。

晩年の登喜子さんは、母としての誇りを胸に、地域に慕われながら穏やかな日々を過ごしていたのですね。

 

スポンサーリンク

やなせたかしの母の最期と残された絆

晩年の柳瀬登喜子さんは、家族との関わりに揺れ動きながらも、やなせたかしさんにとってかけがえのない存在であり続けました。

最期のときまで、母と子の深い絆が感じられます。

暢さんとの確執と和解

やなせたかしさんの妻・暢さんは、夫が幼いころに母から離れて育ったことを知っていました。

そのため、登喜子さんに対して「小さいときに息子を捨てたのだから、今さら会いに来ても遅い」と厳しい言葉を投げかけたこともあったそうです。

一時は険悪な関係になりましたが、最終的には和解へと歩み寄り、やがて心を通わせるようになったと伝えられています。

 

母の最期と形見の指輪

登喜子さんは1967年10月、73歳でこの世を去りました。

暢さんは「義母から形見として指輪を受け取った」と語っており、その言葉からも和解の証が感じ取れます。

最期のとき、登喜子さんは家族の中に居場所を取り戻していたのでしょう。

 

作品に刻まれた母の面影

やなせたかしさんは後年、ドキンちゃんのキャラクターについて

「僕の母親の面影があり、性格は妻に似ている」

と語っています。

ドキンちゃんの華やかさは母・登喜子さん譲りであり、作品の中にその面影が刻まれているのですね。

参考:高知新聞


以上、今回はやなせたかしさんの母・柳瀬登喜子さんの生涯やその後、晩年と最期についてお伝えしました。

波乱に満ちた人生を歩みながらも、やなせさんにとって母は特別な存在であり、作品の中にもその面影が残されています。

朝ドラあんぱんでも、要所要所で松嶋菜々子演じる母が登場しています。

とても穏やかでやさしくなっているように感じられますね。

ドラマで、嵩の母親がどこまで描かれるかわかりませんが、最後まで見届けたいですね。

こちらもCHECK

-あんぱん