2025年後期のNHK朝ドラ『ばけばけ』。ヒロイン・トキのモデルになった小泉セツは、実は幼いころに稲垣家へ養子に出されていました。
なぜ彼女は稲垣家に迎えられたのか、養父母はどんな人物だったのか、そしてどのような家柄だったのか。
この記事では、
- 小泉セツと稲垣家の関係
- 養女時代の背景と生い立ち
- 養父母や稲垣家の家柄
について解説します。
小泉セツと稲垣家の関係とは?
小泉セツ(旧名・節子/セツ子)は、慶応4年(1868年)2月4日、松江藩士・小泉湊と妻チエの次女として島根県松江市に生まれました。
のちに外国人作家ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の妻として知られることになる人物ですが、実はその生涯の出発点には「養女」としての歩みがありました。
生後まもなく、セツは稲垣家に引き取られ、その後の人生に大きな影響を受けていきます。
ここでは、まず養子に出された背景と、小泉家と稲垣家の関係について見ていきましょう。
幼少期に養子に出された背景
小泉セツは、生まれてからわずか7日目で稲垣金十郎・トミ夫妻の養女となりました。当時の記録によれば、この養子縁組にはいくつかの理由がありました。
①稲垣家に子供ができなかった
まず、稲垣家には子どもがいなかったことです。金十郎とトミは後継ぎに恵まれず、家を継ぐ子を求めていました。
②約束
2番目に、小泉家と稲垣家のあいだには「次の子が生まれたら稲垣家へ養子に出す」という約束が交わされていたと伝えられています。セツの誕生は、その約束を実行に移すきっかけとなりました。
③家同士の結びつき
最後に、家格や社会的な事情も影響していました。
小泉家は松江藩で三百石取りの「上士」、稲垣家は百石取りの「並士」とされます。両家の間には格式の差がありましたが、養子縁組を通じて家同士の結びつきを強め、互いの家を存続させる意味合いがあったと考えられます。
セツはこうして稲垣家に迎えられ、大切に育てられたのです。
小泉家と稲垣家のつながり
小泉家と稲垣家は松江市内の武士階級に属しており、もともと親戚関係にありました。
小泉家は藩内でも上位に位置する三百石取りの家柄で、藩政に深く関わる立場。一方、稲垣家は百石取りの中級士族であり、立場は異なるものの、地域社会の中で互いに支え合う関係を築いていたのです。
また、養母の稲垣トミは出雲大社の社家である高浜家から養女に入っており、稲垣家自体も神社や地域の伝統と縁の深い家柄でした。
こうした背景から、セツの養子縁組は単なる家庭事情だけでなく、地域社会や家格をめぐる広い文脈の中で行われたといえます。
さらに後年、小泉セツと小泉八雲の次男が、稲垣トミの養子となり稲垣姓を継いでいます。
この出来事もまた、小泉家と稲垣家が単なる縁戚関係にとどまらず、世代を超えて深い絆を保っていたことを物語っています。
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小泉セツの養父母・稲垣金十郎と稲垣トミ
小泉セツは稲垣家に迎え入れられてから、養父・稲垣金十郎さんと養母・稲垣トミさんのもとで育ちました。
二人は血縁上の親ではないものの、セツの人格や感性の形成に大きな影響を与えています。
ここでは、その人物像を見ていきましょう。
養父・金十郎
稲垣金十郎は、松江藩で百石取りの並士として暮らしていた人物です。
子に恵まれなかったため、養子を必要としており、生後間もないセツを迎えることになりました。
金十郎に関する直接的な史料は多くありませんが、セツを「オジョ(お嬢)」と呼んで慈しんだと伝えられています。
この呼び方からも、養父として大切に育てていたことがうかがえますね。
一方で、金十郎は後年、詐欺の被害に遭い、家が城下町の外れに転居を余儀なくされたこともありました。また、囲碁を嗜み、近隣の子どもたちに教えていたというエピソードも残されています。
このように、金十郎さんは一方で温情深く家族を大切にする人物でありながら、時代の波に翻弄されて家運の衰えも経験した人物だったようです。
養母・トミの人柄と影響
稲垣トミは、松江の出雲大社の神官家・高浜家の養女として育ち、その後に稲垣家に嫁いだと伝えられています。
トミは物語好きの性格で、幼いセツに昔話や神話、狐に化かされた話などを語り聞かせていました。この経験が、のちにセツが豊かな想像力を持ち、語り部としての素養を育む大きなきっかけとなったと考えられます。
「セツは幼い頃から物語を聞きたがる子どもであった」との記録も残されており、トミさんの語りかけがセツの心に強く響いていたのではないでしょうか。
また、トミは家柄よりも心を重んじる育て方をしたとされ、セツを尊重しながら育てたと伝えられています。その影響はセツの後年の人生観や人との向き合い方にまで通じるものがありました。
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稲垣家の家柄と暮らし
小泉セツが育った稲垣家は、松江藩に仕える武士の家でした。藩政期にはきちんとした家格を持っていましたが、明治維新の社会の大きな変化を受けて、やがて暮らしぶりが厳しくなっていきます。
ここでは、藩政期の立場と、明治以降の暮らしの変化を見ていきましょう。
松江藩での家格
稲垣家は松江藩で百石を与えられていた士族の家で、「並士」と呼ばれる中堅クラスの武士でした。
三百石取りの小泉家ほどの格式はありませんが、それでも百石取りは藩内で安定した立場にあり、城下町で武士らしい暮らしを送っていたと考えられます。
セツの養父となった稲垣金十郎もその家を継ぎ、地域社会の中で存在感を保っていました。
明治維新後の没落と生活の変化
ところが、明治維新で武士の制度がなくなると、稲垣家の暮らしは大きく揺らぎます。
家禄がなくなり、さらに事業の失敗や詐欺被害なども重なって、家の経済は次第に傾いていったと伝えられています。
そのため、松江城下の中心部から郊外へ住まいを移すことも余儀なくされました。
家計が苦しくなるなか、小泉セツも勉学を早く切り上げて、機織りをして家計を助けました。
幼いころから家を支える役割を担った経験は、後のセツのたくましさや忍耐力につながっていったのでしょう。
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小泉セツと稲垣家のその後
養女として育った稲垣家との関わりは、大人になったあとも途切れることはありませんでした。
セツが戸籍を実家へ戻したこと、そして自身の子どもが稲垣家を継いだこと。
二つの出来事から、両家の絆がいかに深かったかが伝わってきます。
小泉家への復籍について
セツは22歳のとき、戸籍を稲垣家から実家の小泉家へ戻しました。これは、養子縁組をいったん解消し、形式上「小泉家の娘」として復籍したことを意味します。
背景には、結婚や将来を見据えた事情がありました。
戸籍上の立場を整理しておくことは、のちに外国人作家ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と出会い、結婚するうえでも重要だったのです。
もっとも、復籍によって稲垣家との縁が切れたわけではありません。実際には、セツと稲垣家はその後も密接な関わりを保ち続けました。
次男・稲垣巌が稲垣家を継いだ経緯
セツと小泉八雲の間には四男一女が生まれました。そのうちの次男が稲垣巌(いながき いわお、1897年生まれ)です。
巌は1901年、わずか4歳で養母・稲垣トミの養子に入り、正式に稲垣姓を名乗ることになりました。
子のいなかった稲垣家にとって、巌は大切な後継ぎとなり、家名を存続させる役割を担ったのです。
その後、巌は教育の道に進み、京都府立桃山中学校などで英語教師として活躍しました。単に稲垣家を継ぐだけでなく、社会の中でも力を発揮した人物だったのですね。
以上、今回は小泉セツと稲垣家との関係についてお伝えしました。
養女としての出発点や、次男・巌による家名の継承など、セツの人生は家族のつながりと深く関わっていました。
朝ドラ『ばけばけ』では、こうした背景がどのように描かれるのかも楽しみですね。
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