明治の松江で、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)を支えた教育者・西田千太郎。
その生き方は、朝ドラ『ばけばけ』の英語教師・錦織友一(演:吉沢亮)のモデルとなりました。
この記事では
- 西田千太郎の人物像
- 小泉八雲との交流
- 吉沢亮さん演じる錦織友一の見どころ
についてお伝えします。
西田千太郎とは?プロフィールと経歴
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が松江で過ごした日々、その傍らにいて心の支えとなった人物が、西田千太郎(にしだ・せんたろう)です。
小泉八雲が日本文化を深く理解し、やがて日本に帰化するまでの道のりの中で、西田千太郎の存在は欠かせないものでした。西田千太郎とはどのような人物だったのでしょうか?
西田千太郎のプロフィール
- 生年月日:1862年11月9日
- 出身地:島根県松江市雑賀町
- 出自:松江藩の足軽(下級武士)・西田半兵衛の長男
- 没年:1897年3月15日(享年34歳)
ドラマでの錦織友一が「松江随一の秀才」と呼ばれるように、実在の西田千太郎も学識と人格を兼ね備えた松江の秀才として知られていました。
学歴と経歴概要
藩立修道館 → 雑賀小学校 → 教員伝習校(変則中学) → 松江中学校(退学)
退学後も学びを続け、教員免許を取得。
兵庫県姫路中学校、香川県坂出の済々学館などを経て、地元・島根県尋常中学校(現・松江北高)に戻り、教頭として教壇に立つ。
西田千太郎の家族
- 父:西田半兵衛(松江藩士)
- 妻:安食クラ(1884年結婚)
- 長女:西田キン(1885年生)
- 長男:西田哲二(1888年生)
- 次男:西田敬三(1891年生)
- 三男:兵士郎
長男・哲二は東京帝国大学工学部卒。
次男・敬三はのちに広島大学教授となるなど、子どもたちも優秀でした。
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西田千太郎の生い立ちと経歴
西田千太郎は文久2年(1862年)、松江市雑賀町の士族の家に生まれました。
松江で学んだのち上京し、アメリカ人のガーディナー、イギリス人のモリー、デニングらに学び、独学で心理・論理・経済・教育などを修めます。その後、文部省の中等学校教員検定試験に合格し、正式に教員免状を取得しました。
姫路中学校や讃岐の済々学館を経て、明治21年(1888年)より島根県の尋常中学校(のちの松江中学校)で教鞭をとります。
英語・歴史・地理・生理・植物・経済と、多くの科目を一人で担当し、教頭または校長心得として学校運営にも深く関わりました。
頭脳は明晰、学識は豊かでありながら、誠実で温かい人柄。
うわべだけの言葉を嫌い、真心をもって生徒や同僚に接する人物であったと伝えられています。その人間味あふれる人柄こそが、のちに小泉八雲を強く惹きつけることになります。
「人格者」
「西田千太郎は松江中学を中途退学、一時東京に遊学したこともあるが、母校に教鞭を執る傍ら、独学自修によって心理、教育など数課目の検定試験に合格し、一、二の中学に教えた後再び松江中学の教頭となって帰ったと言われる。」
(引用:田部隆次『小泉八雲 ラフカディオ・ヘルン』中央公論社)
独学で教員資格を得た努力家であり、教育への情熱にあふれた人物でした。
「先生は我松江市の生める秀才の一人にて、頭脳極めて明晰且記憶力に富み…朋友知人皆これに感化せられ、氏に対し不平不満の言辞を漏せしことも予は未だ嘗て耳にせざりしなり」
(引用:和田玉一『小泉八雲記念館公式サイト』)
「実に明晰なる頭脳の持ち主であった。…先生の教室には粛然たる気が充ちてゐたことを想見する」
(引用:落合貞三郎『小泉八雲記念館公式サイト』)
知識だけでなく、温厚で誠実な人柄が人々の尊敬を集めました。
西田千太郎の経歴年表
年 | 年齢 | できごと / 肩書 | 補足 |
---|---|---|---|
1862 | 0 | 出雲国(現・島根県松江市雑賀町)に生まれる | 11月9日生 |
1873 | 11 | 藩立修道館に入学 | 同年、雑賀小学校にも入学 |
1876 | 14 | 教員伝習校変則中学(松江中学校)に入学 | — |
1880 | 18 | 松江中学校を退学、授業手伝に就く | 教職の下積み期 |
1884 | 22 | 安食クラと結婚 | — |
1885 | 23 | 長女キン誕生/松江中学校を退職 | — |
1886 | 24 | 中等教員検定試験に合格 | 心理・倫理・経済・教育の4科目/姫路中学校教員に |
1887 | 25 | 坂出私立済々学館 教長 | 香川県坂出 |
1888 | 26 | 島根県尋常中学校 教諭 | 長男・哲二誕生 |
1889 | 27 | 島根県尋常中学校 教頭心得 兼務 | 学校再建・教授法改善・経費削減に尽力 |
1890 | 28 | 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)を同校講師に迎える | 『ばけばけ』錦織友一のモデルとしての重要局面 |
1890 | 28 | 八雲の着任初日を案内・実務支援 | 「Nishida Sentaro…has taken me through the buildings…」と日誌に記述 |
1890–1897 | — | 八雲との親交・往復書簡 | 125通が確認(総数)/島根大には自筆45通所蔵コレクション |
1891 | 29 | 島根県尋常中学校 校長心得 | 次男・敬三誕生 |
1894 | 32 | 島根県私立教育会「功績賞」受賞 | 三男・兵士郎誕生 |
1895 | 33 | 八雲著『東の国から(Out of the East)』の献呈先となる | 八雲が西田へ献呈(記念館解説) |
1895 | 33 | 日本弘道会 松江支会長 就任 | — |
1897 | 34 | 在職中に病没(結核) | 3月15日逝去。『ばけばけ』錦織友一のモデルの早逝 |
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西田千太郎と小泉八雲の出会い
明治23年(1890年)、小泉八雲が松江中学校に英語教師として赴任したとき、西田千太郎はすでに教頭格の立場にありました。西田千太郎は松江中学校の教頭としてその受け入れに奔走します。異国から来た小泉八雲にとって、言葉も文化も異なる日本で最初に出会った理解者が西田千太郎でした。
初日の案内
小泉八雲が、松江に着任した最初の期間に、八雲が校内案内や生活上の世話を受けた記録も残っています。
1890年9月4日の記録では、八雲自身が
「西田先生は、じつに親切な人だ。自分のできることなら何でもして、私を助けてくれる。」
と日記に記しており、初日から親切に接してくれた存在であったことが窺われます。
September 4, Thu
Nishida-sensei is a really kind person. He can help me with whatever he can.
Nishida Sentaro was the vice-principal of the Shimane Common Middle School, and helped Hearn’s interpreter, public and private care, and writing activities. This 443-day diary is mainly due to Nishida’s clear “diary”.(出典:Hearn’s 443 Days Diary/小泉八雲記念館Facebook公式ページ)
この記録は、1890年9月4日、ヘルン(小泉八雲)が松江中学校に着任した初日の記述です。
「Nishida-sensei is a really kind person.」という一文は、八雲が初対面から西田千太郎を心から信頼していたことを示しています。
信頼できる友人
二人は仕事を通じて意気投合し、やがて公私にわたって深い友情を結びます。小泉八雲は教育や文学、宗教観、そして日本社会についての考えを西田千太郎と語り合い、その誠実な人柄に信頼を寄せました。
「中学の教頭の西田と申す方には大層お世話になりました。二人は互いに好き合って非常に親密になりました。ヘルンは西田さんを全く信用してほめていました。『利口と、親切と、よく事を知る、少しも卑怯者の心ありません。私の悪い事、皆いってくれます、本当の男の心、お世辞ありません、と可愛らしいの男です』。」
(出典:小泉節子『思ひ出の記』)
ドラマの錦織友一が、外国人教師ヘブンを支える姿は、この実際のエピソードをもとに描かれています。
さらに、小泉八雲の長男・小泉一雄氏も父の親友として次のように記しています。
「松江聖人と噂されており、父が最も信頼した日本人中第一の友人である。父の日本研究に多大な援助を与えた人。日本の人情風俗においても懇切丁寧に説明を施した。」
(出典:小泉一雄『父小泉八雲』)
小泉八雲が松江に滞在した期間、西田千太郎はその生活のあらゆる面で力を尽くしました。仕事の相談はもちろん、住まいや衣食のことまで気を配り、八雲が安心して日本で暮らせるよう支えました。
二人は松江の神社や町を歩きながら、日本の伝承や信仰について語り合い、互いの文化理解を深めていきます。
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セツとの出会いをつなぐ
1890年末から1891年初頭にかけて、セツ(のちの小泉セツ)八雲の家で働き始めたとき、英語の堪能な西田千太郎が二人の橋渡し役を務めたと伝えられています。
「西田千太郎教頭の仲介で、セツが世話係としてハーンのもとへ行きます。」
(出典:『思ひ出の記』)
『ばけばけ』でも、錦織友一がトキとヘブンをつなぐ存在として描かれそうですが、この設定はまさに西田千太郎の実話に由来しますね。
その後、八雲とセツが「出雲大神宮で結婚を挙行した」との記録も残っており、西田が媒酌人(仲人)を務めたたようです。
正式の媒酌人を西田千太郎にして日本式の結婚式を以ってハーンと結ばれた小泉セツは彼女の手足が華奢でなかったために、蜜月の最初から、背の君にひどくお冠を曲げられてしまって結婚生活は誠に心細い出発をしたのであるが富田旅館の女主人も保証している通り士族の名家のお嬢さんであることは間違いない。
出典:小泉八雲のことどもー根本重熙
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手紙が語る深い信頼関係
西田千太郎と小泉八雲のあいだでは、1891年から西田が亡くなる1897年までの約6年間で、およそ150通の手紙が交わされました。そのうち、八雲から西田宛てが128通、西田から八雲宛てが22通と記録されています。
この数字からも、八雲がいかに頻繁に西田へ手紙を書き、頼りにしていたかが伝わりますね。
内容には、教育や文学のことだけでなく、日常の出来事や考えも多く含まれており、二人の関係がただの職場仲間ではなく、深い友情と信頼で結ばれていたことがわかります。
また、島根大学附属図書館には、八雲が実際に書いた西田宛ての手紙が45通保管されています。
これらは現在も公開されており、実際に見ることができます。150通のうちの一部ではありますが、筆跡や文体からも、八雲が西田を心から信頼し、感謝していた様子が感じ取れるはずです。
八雲が熊本へ移ってからも、西田は手紙で交流を続けました。八雲の著書『東の国から』には、
「出雲時代のなつかしい思い出に、西田千太郎へ」
という献辞があり、深い友情の証として知られています。
病と別れ
しかしその友情は、あまりにも早く幕を閉じます。
西田千太郎は、1897年(34歳)、結核によりこの世を去ります。晩年も八雲への手紙を欠かさず、教育と信念を貫いた生涯でした。千太郎の死は、八雲にとっても忘れられない出来事となりました。
「亡くなった後までも『今日途中で、西田さんの後ろ姿見ました、私の車急がせました、あの人、西田さんそっくりでした』などと話したことがあります。似ていたのでなつかしかったと言っていました。早稲田大学に参りました時、高田さんが、どこか西田さんに似ているといって大層喜んでいました。」
(出典:『思ひ出の記』)
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ばけばけ錦織友一役は吉沢亮
朝ドラ『ばけばけ』で、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の親友として登場するのが、錦織友一(にしこり・ゆういち)です。
ばけばけでは吉沢亮さんがその役を演じます。史実の西田千太郎がそうであったように、錦織友一もまた“静かな情熱”で八雲を支える人物として描かれるのではないでしょうか。
吉沢亮のプロフィールと主な出演作
吉沢亮さんは1994年2月1日生まれ、東京都出身。
端正な顔立ちと高い演技力で、ドラマ・映画の両分野で活躍しています。
代表作には、NHK大河ドラマ『青天を衝け』(渋沢栄一役)、映画『キングダム』シリーズ、『東京リベンジャーズ』などがあります。
役柄に真摯に向き合う姿勢と、繊細な感情表現には定評があります。
錦織友一に込められた思い
ドラマ『ばけばけ』で、錦織友一を演じる吉沢亮さんは、2019年度前期の『なつぞら』以来、6年ぶりの朝ドラ出演となります。
演じる役への思いについては、こう話しています。
「西田千太郎さんという“大磐石”と呼ばれた秀才の方をモデルにしているので、松江の皆様の思いを裏切らないように、秀才っぷりを(笑)。そんな秀才っぽくもないんですけど」
ユーモアを交えながらも、地元・松江の人々への敬意を感じさせる一言です。
さらに、撮影への意気込みを次のように語っています。
「ひたすらヘブンに振り回されている男ではありますが、皆さんに楽しんでいただけるように、精一杯やっていますので、放送をお楽しみにしてくださればうれしいなと思います」
(出典:マイナビニュース)
穏やかで誠実な印象の中に、ユーモアと温かさをにじませる吉沢亮さんの言葉。
それはまるで、西田千太郎という人物が持っていた「聡明さと人間味の両立」をそのまま体現してくれそうな予感さえしますね。
以上、今回は西田千太郎と小泉八雲の友情、そして朝ドラ『ばけばけ』でその絆を受け継ぐ錦織友一役・吉沢亮さんの魅力についてお伝えしました。
ぜひ放送で、二人の絆がどのように描かれるのか楽しみですね。
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