2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」では、一橋治済が物語の大きなカギを握る人物として注目されていますね。
ドラマでは「一橋治済が島流しに」なる展開に。史実ではどうだったのでしょうか。さらに、治済の最期はどのようなものだったのかも気になるところです。
この記事では、
- 一橋治済は史実で本当に島流しになったのか
- 一橋治済の史実に基づく生涯と最期
についてお伝えします。
一橋治済は史実で島流しになったの?

一橋治済が『べらぼう』でどんな結末をむかえるのか。
その行方が注目される中、「島流しになる」という衝撃の展開に。史実ではどうだったのでしょうか?
史実に“治済島流し”の記録は存在しない
歴史資料をたどると、一橋治済が幕府から流罪や島流しといった厳しい処分を受けた形跡は見当たりません。治済は御三卿のひとつ・一橋家を継ぎ、その後も江戸城の内外で強い影響力を持ち続けた人物です。
もし「島流し」のような重大な事件があれば、幕府の記録や日記、家譜などに必ず残るはずですが、そうした資料は確認されておらず、後世の研究でも否定されています。
べらぼうでは、なぜ“島流し”に?
べらぼうでは「治済」は当初から重要なカギとなる人物でしたね。
平賀源内、田沼意次親子はじめ様々な人物に関与し、間接的に蔦屋重三郎にも関わって、ストーリーを動かしてきました。
あまりにやることがダークだったために、べらぼうでは最後の落としどころが必要。
それを島流しという展開で収束をはかったのではないでしょうか?
しかし、史実では治済が島流しにされたという歴史はない。大河ドラマはあくまで史実をもとにしたフィクションなので、そんな展開ももちろんありだと思いますが、ただ、どこかで史実との整合をはかる手法もとられるはず。
それがべらぼう47話以降で明らかになりそうなので、楽しみにしたいところですね。
思ってもみない展開が待ち構えているかもしれません。
⇒ 一橋治済は双子?瓜二つの男の正体と栗山との関係|べらぼう考察
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一橋治済の最期はどうなった?史実の“終わり方”
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まず結論から言うと、一橋治済は“島流し”や流罪などで処罰を受けることなく、一般的な病死でその生涯を終えています。最後まで権力を持ったまま、自然な“最期”を迎えた――それが、史実の表す結末です。
治済の没年と最期の状況
一橋治済は、文政10年(1827年)2月20日に、77歳で亡くなりました。
享年77というのは当時としてはかなりの高齢で、長寿を全うしたといえます。
彼の法名は「最樹院」。お墓は、現在の東京都台東区上野にある寛永寺にあると伝えられています。
こうした記録からも、「謀反」「流罪」「処刑」などの異常な最期は見られず、穏やかにこの世を去ったことが分かります。
生涯を通じて強い権力を維持
治済は生涯を通じて強い権力を保持していました。長男を次期将軍とすることで、幕府内部での影響力を確保。さらに、対立相手であった田沼意次や松平定信を政敵として排しながら、自らの地位を盤石にしていたのです。
また、治済は生涯にわたって“公式には”重臣・御三卿の当主という立場であり、逆らう者どころか、権力の中枢に君臨する人物でした。そのため、“流罪”などという異例の処分を受ける理由や根拠が、そもそも見当たらない状態でした。
治済の死後
驚くべきことに、治済は亡くなった後も、幕府から“最高位”とも言える官位を追贈されています。
このことは、「最後まで汚名なく」「幕府も治済を重んじていた」ことの証とも言えます。
そして、一橋家の家督は子孫にしっかり受け継がれました。つまり、治済の死は一橋家の断絶や没落ではなく、あくまで“世代交代”という形式で終わっているのです。
このように、史実での一橋治済の最期は暗い牢獄でも、遠い島でもなく、江戸で、御三卿の筆頭として、歳を重ね――自然に、その命を閉じたものでした。
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『べらぼう』で描かれる一橋治済
一橋治済が、現在放送中のべらぼうでどんなふうに描かれているのか。そして、それと“実際の治済”とのギャップはどこにあるのか――この章で見比べてみましょう。
ドラマ『べらぼう』での治済像
『べらぼう』では、一橋治済はクールで策略家、いわゆる“黒幕”“裏で権力を操る人物”として描かれています。
表向きは温厚でも、その裏で将軍家の後継争いや幕政の主導権を巡って、綿密な策謀と駆け引きを仕掛ける――そんな“ダークヒーロー”感のあるキャラクターです。
生田斗真さんが味のある演技をされていますね。
たとえば、将軍の座をめぐる権力闘争や、他家への圧力など“裏政治”を動かす立場として描写され、「いかにも怪しい」「危うさ満点」という印象を強く与えるよう意図されているようです。
多くの視聴者にとって、べらぼうの生田斗真さん演じる治済の姿は強烈に残ったのではないでしょうか?
史実の治済にもダークな面があった?
しかし、歴史的記録や研究に目を向けると、そこまで“悪の黒幕”“陰謀の主導者”と断定できる材料は、驚くほど限られています。
まず治済は、江戸幕府の“御三卿”のひとつ、一橋家 の当主であり、将軍家の一門として幕政の中枢にいた人物です。
また、後に11代将軍となる徳川家斉の実の父であり、そのコネを通じて、将軍権力と一橋家の影響力を強めようとしたのは事実です。
ただし、研究・史料の観点から言えば、「恩人を平気で切り捨てた」「陰で暗殺や謀略をはたらいた」という“濃い描写”を支持する証拠は乏しく、多くは後世の伝説や俗説、あるいは創作の可能性が高いと考えられています。
つまり、歴史上の治済は「政治的影響力の強い有力者」だったけれど、「世紀の悪役」と断じるには、裏付けがあまりにも少ない――それが歴史研究の現状です。
以上、今回は「一橋治済 は史実でも島流しされたのか?」というテーマについてお伝えしました。
史実では、一橋治済が島流しにされることはなく、最期まで御三卿としての立場を保ち続けた人物だったということがわかりましたね。
大河ドラマ『べらぼう』では、治済の行く末がどのように描かれるのか、フィクションならではの表現も含めて、さらに注目が集まりそうです。
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