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べらぼう大崎は何者?大奥御年寄は毒に詳しい影の刺客?映美くららが好演

大奥の頂点に立った御年寄・大崎。

その正体は、史実でも謎が多く、記録の少ない伝説的な女性です。

NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』では、映美くららさんが演じる“影の刺客”としても話題を集めています。

この記事では

  • 大奥御年寄・大崎の正体
  • 徳川家斉との関係と政治力
  • 『べらぼう』で映美くららさんが演じる大崎の魅力

についてお伝えします。

 

大奥御年寄「大崎」とは何者?

べらぼう大崎

大奥御年寄とは、江戸城の奥向き(将軍の私的な生活空間)のすべてを取り仕切る最高権力者。

しかし、大崎は、前時代の有名な御年寄たちとは違う、特殊な方法で権力を手に入れました。

御年寄「大崎」の本名は?

大奥のトップである大崎ですが、実は歴史の記録には本名やいつ生まれたか(生没年)の記録がほとんど残っていません

「大崎」という名前は、世間に名乗っていた本名ではなく、大奥で地位の高い女中だけが使える「格式名」です 。御年寄になると、「松島」「高岳」「滝川」のように、地名や自然にちなんだ二文字の名前を使う慣習があり、「大崎」もその一つでした。

大崎は、その名前が示す通り、大奥の公的なトップ管理者であったことがわかります。

 

徳川家斉の「乳母」

大奥の権力者は、時間をかけて将軍の信頼を築くのが普通でしたが、大崎の権力獲得ルートは異質でした。

大崎は、第11代将軍となる徳川家斉がまだ一橋家にいた頃から、家斉付きの老女として仕えていました 。

このことから、大崎は家斉の乳母を務めていた、もしくは乳母のような存在として、幼少期から家斉の養育の責任者であったと考えられています。

将軍の母や乳母は、強い権力を持つことが多かったため、大崎は新将軍・家斉の個人的な側近という極めて特権的な立場とともに江戸城本丸大奥へと移り、短期間で強力な影響力を持つに至ったのです。

 

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大崎の政治力と華麗なキャリア

大崎が活躍した天明期は、政治が大きく動いた時代でした。大崎は、将軍の私的な空間を管理するだけの女中ではなく、幕府のトップの人事を裏で動かす、冷徹な政治戦略家でした。

田沼派から反・田沼派へ

当時の幕政では、老中・田沼意次(たぬまおきつぐ)が率いる「田沼派」と、御三家などが中心の「反田沼派」が対立していました。

大崎は、当初は田沼意次に近い立場にあったと考えられています。しかし、新将軍・家斉の父・一橋治済が田沼を遠ざけ、反田沼派と結びつきを強めるにつれ、大崎もその流れに同調したと伝わります。

大崎は治済の意向に従い、反・田沼派の会合にも出席し、敵対する派閥の間の交渉役としても活動しました 。

大崎の目的は、個人の好き嫌いではなく、「新将軍・家斉の権力を強くすること」ただ一点でした。この判断の早さと冷徹さが、大崎が「魔物」と呼ばれるゆえんかもしれません。

 

幕府の人事を動かした「奥向きの実力」

大奥の実力者たちが、老中や将軍の側近といった幕府の「表向きの政治のリーダー」の登用や解任に深く介入できたことは、当時の武家社会では広く知られていました 。

大崎の政治力の強さを示す実話として、田沼派の側近を追い落とそうとする、こんなエピソードが残っています。

家斉の父・治済が、田沼派の側近・横田準松の解任を望み、大崎に相談したところ、大崎は「今回は難しく、私にはどうにもできません」と答えたとされます。

このやり取りが史実かどうかは定かではありませんが、「普段から幕府中枢の人事に影響力を持っていた」と見なされる根拠の一つとして語られています。

大崎は、将軍の権威を背景に、幕府のトップ人事までをコントロールする裏の実力者だったのです。

 

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大崎と松平定信の関係

大崎のキャリアは、松平定信(まつだいらさだのぶ)が老中首座(老中のトップ)に就任したことで、わずか数ヶ月で終わりを迎えます。

定信は、たるんだ幕府を立て直す「寛政の改革」を開始しますが、その最初のターゲットが大奥の政治介入でした 。

老中と同格

松平定信

1787年、老中になった松平定信は、大奥の最高実力者である大崎と直接面会します。

この緊迫した場で、大崎が定信に突きつけた要求は、歴史を揺るがすものでした。

大崎は、「老中(表のトップ)と御年寄(奥のトップ)は『御同役(ごどうやく)=同格(どうかく)』である。だから、奥向きの重要なことは、老中である定信と、御年寄である大崎が話し合って共同で決めるべきだ」と主張したのです。

これは、大奥が単なる将軍の家ではなく、「老中と同じくらいの決定権を持つ、幕府のもう一つの行政機関」として認めてほしい、という大崎の命がけの挑戦でした。

 

定信の激怒

大崎の挑戦に対し、松平定信は激怒しました。武家の規律を重んじる定信にとって、大奥が政治に口を出すこと自体が許せなかったからです

定信は、大崎を強く叱責し、こう言い放ちました。

「大崎よ、不届きなことを申す。老中に向かい同役とは何事ぞ。大奥には老中なし。大崎は老女である。頭(ず)が高い。退がれ」

松平定信は「大奥は政治の場ではない。御年寄は単なる女中(老女)だ」と、大崎の政治家としての地位を完全に否定しました。

これほど面目を潰された大崎は、名誉を重んじ、その場で「お役目を務めることはできません。ただいま、お暇(いとま)を下されたく」と辞職を願い出ました 。定信はこれをすぐに受け入れ、大崎は1787年(天明7年)に大奥から退くことになります。

大崎は、定信との直接対決には敗北し、失脚しました。

 

しかし、大崎が去った後も、定信が強硬に続けた大奥改革に対し、大奥の女性たちは強い反感を持ち続けました 。

この大奥の強い反感は、のちに松平定信が老中を退く一因になったと見る説もあります。

ただし、定信失脚の背景には将軍家斉との対立や幕府財政の問題など、複数の要因が重なっていたとも考えられています。

大崎の敗北は、個人のキャリアとしては短命に終わりましたが、大奥という組織の力を使い、結果的に政敵に「復讐」を果たしたと言えるかもしれません。

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大奥御年寄・大崎の経歴年表

大崎の短い期間に集中した経歴を年表で確認しましょう。

西暦 (和暦) 出来事
不明(一橋家出仕時) 徳川家斉(後の11代将軍)付きの老女となる 権力獲得の最短ルートを確保。
1779年 (安永8年) 10代将軍・家治の嫡男、家基が急死。家斉の将軍継承が事実上決定。 自身の後ろ盾となる家斉の地位が確定。
1781年 (天明元年) 江戸城本丸大奥の御年寄に昇進。 大奥内部での権力確立。
1786年 (天明6年) 徳川家治が死去。老中・田沼意次が失脚。 反田沼派と連携を強め、権勢絶頂期を迎える。
1787年 (天明7年) 徳川家斉が11代将軍に就任。松平定信が老中首座に就任。 定信と「御同役」主張で衝突し、即時解任され大奥を退く。
1793年 (寛政5年) 松平定信が老中を解任される。 大奥の反感も一因に?

 

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べらぼう大崎役の女優は映美くらら

べらぼうで、大崎を演じているのは、元宝塚歌劇団・月組トップ娘役の映美くらら(えみ・くらら)さん

映美くららのプロフィールと経歴

映美くららさんは、熊本県出身で、1979年6月15日生まれ。

宝塚では可憐さと品格を兼ね備えたスターとして人気を博し、退団後は女優としてドラマ・舞台・映画に幅広く出演しています。

『99.9-刑事専門弁護士-』や『下町ロケット』などでも印象的な役どころを演じ、凛とした佇まいと繊細な表現力で視聴者を魅了してきました。

「大崎=影の刺客」説を呼ぶ演技に注目

『べらぼう』の大崎は、穏やかに見えて心の底を読ませない女性。

映美くららさんの上品で静かな演技が、そのミステリアスな雰囲気をいっそう際立たせていますね。

蔦屋重三郎や松平治済の動きを見つめる鋭いまなざし、ふとした沈黙の間――。

その一瞬一瞬が、まるで何かを隠しているかのよう。

「影の刺客」という言葉が自然に浮かぶほど、視聴者の想像を刺激する存在となっています。

 

以上、今回は、大奥御年寄として活躍した大崎についてご紹介しました。

大崎は大河ドラマべらぼうでどんな結末を迎えるのでしょうか?楽しみですね

 

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