江戸時代中期、田沼意次の経済政策を支えた実力派官僚・土山宗次郎。
大河ドラマ『べらぼう』でも登場し話題となっていますが、彼の名が歴史に刻まれるのは、一人の花魁・誰袖(たがそで)を身請けしたことが、やがて死刑判決へとつながるからです。
この記事では、そんな土山宗次郎の人物像と波乱の末路を、以下の視点から深掘りします
- 土山宗次郎はどんな役職に就いていたのか?
- 吉原での豪遊と、誰袖との関係とは?
- なぜ、処刑に至ったのか?
- 誰袖のその後、そして社会から消された存在となった理由とは?
土山宗次郎とは何者?勘定組頭としての実力と『べらぼう』での注目
2025年の大河ドラマ『べらぼう』に登場する土山宗次郎は、田沼意次の側近として描かれた実在の幕臣。ドラマの中でも、派手な装いや奔放なふるまいで異彩を放ちますが、史実でもその存在感は抜群でした。
土山宗次郎は幕府財政を支えた実務派エリート
土山宗次郎の生まれは1740年(元文5年)。
父・土山孝祖は150石取りの旗本で、幕府の財政実務を担う支配勘定を務めた人物。土山家は大身ではなかったものの、宗次郎は幼少期から実務に通じた環境に育ち、のちにその才能を存分に発揮することになります。
田沼政権のもと、土山宗次郎が勘定組頭に抜擢されたのは1776年(安永5年)。
財政部門における中核ポジションであり、彼はここで実力を開花させます。江戸の治水や開発、全国の年貢管理、商業振興といった重要な案件を次々と担当。田沼が掲げた「商業による国家の富強化」という方針を、現場で支えたキーマンのひとりだったのです。
蝦夷地政策と“グローバル”な視野
土山宗次郎はさらに、蝦夷地(北海道)の開発政策にも積極的に関与します。
当時、ロシアの南下政策を警戒していた幕府にとって、蝦夷地は戦略的にも重要な土地。赤蝦夷風説考などによってその緊迫感が高まる中、宗次郎は調査や資源開発、通商の可能性などを多角的に検討し、国家事業の推進に尽力しました。
単なる内政官僚にとどまらず、視野の広いグローバル志向の官吏としても評価されていたことがうかがえます。
⇒ 松前藩の抜荷と田沼意次の関係とは?密貿易が動かした江戸の裏経済
文人サロンの主としての顔
そんな土山宗次郎には、文化人としての一面もありました。江戸を代表する狂歌師・大田南畝をはじめ、多くの文人たちと親交があり、自宅や料亭での宴席では、狂歌や俳諧が飛び交う文化サロンが開かれていたといいます。
自らも「軽少ならん(けいしょうならん)」という号を名乗り、狂歌を詠むなど、風流を解する知識人としても一目置かれていました。堅物の官僚とは一線を画し、遊び心と教養を兼ね備えた人物だったのです。
土山宗次郎による誰袖の身請け
宗次郎の名を江戸中に知らしめたのが、吉原の名花魁・誰袖を破格の1,200両で身請けしたという一件。これは当時の貨幣価値にして、庶民の生涯賃金を遥かに超える大金。幕臣がここまでの金額を費やして花魁を娶ることは、極めて異例でした。
誰袖は「呼び出し花魁」としても知られ、文人や幕臣からも人気の高い女性。宗次郎はその美貌と知性に惹かれ、事実上の妻として迎え入れます。この華やかな出来事は瞬く間に町人たちの話題となり、瓦版や狂歌にもたびたび登場するほど。まさに江戸の“時の人”となったのでした。
しかし、この華やかさの裏には、やがて彼の命運を分ける大きな落とし穴が待ち構えていたのです。
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土山宗次郎と誰袖の身請けについて
大門寺屋に夜ごと集う文人や幕臣たち。そこに、のちに江戸を揺るがすひと組の男女が出会います――土山宗次郎と、花魁・誰袖(たがそで)です。
政治の中枢で“金”を扱い、夜は吉原の粋な社交場で遊ぶ。そんな両極を生きた男が、たった一人の花魁に心を奪われていきました。
誰袖は土山宗次郎の馴染み客
吉原・大門寺屋は、田沼意次の庇護を受けた文化サロンのような場。教養ある花魁たちが集い、戯作者や狂歌師たちが遊宴に興じるなか、誰袖は若くしてその中心にいた人物でした。
1782年、土山宗次郎は幕府の勘定方として多忙な日々を送るかたわら、太田南畝や朱楽菅江らとともに吉原を訪れ、大門寺屋にも登楼。その際、すでに誰袖は宗次郎のなじみ客となっていたことが記録に残っています。
大門寺屋の中でも誰袖は、唯一の呼び出し花魁。道中行列を許され、格式でも収入でも他の遊女の頭ひとつ上をいく存在。文人たちの間でも話題になるほど、詩や歌の才能にも秀でていました。
誰袖を“妻”として迎え入れる
そして1784年、土山宗次郎はついに誰袖を身請けします。その額、850両+諸費用を含めて合計1,200両。この時代、家一軒が20両前後で建てられたと言われており、身請け額としても異例中の異例でした。
しかも、土山宗次郎は以前にも別の遊女(「律」)を700両で身請けしており、その後不義密通で追い出したうえで誰袖に乗り換えた形。まさに“湯水のごとく金を使える男”だったのです。
高額な見受けで誰袖は宗次郎の「妻同然の存在」となり、幕府の財政を動かす男の私生活に取り込まれていきました。吉原からは身を引き、官僚社会の奥へと足を踏み入れることになります。
土山宗次郎の豪遊は政治の火種にも
ところがこの豪遊、あとになって“幕府の金で花魁を買った”と問題視されることに。土山宗次郎は、吉原通いで目立ちすぎていたのです。
太田南畝ら文人にとっては格好の題材となり、誰袖や宗次郎の名前が狂歌や芝居の世界にも取り上げられました。しかしそれは、のちの粛清の伏線でもありました。
高級官僚が公金を背景に一人の遊女を贅沢に囲う――その事実はやがて、政敵にとって絶好の“攻撃材料”となっていきます。
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身請けが“罪”に?土山宗次郎の転落と死刑の理由
身請けという華やかな行為が、まさか墓への道を開くとは――土山宗次郎の栄光は、政争と腐敗のはざまで崩れていきます。
天明の飢饉時に起きた“米買上げ横領”
天明の大飢饉(1782〜1783年頃)を受け、幕府は越後・仙台米を大量買い上げ。そこに土山宗次郎が絡んだのは、「裏帳簿で架空に金額をかさ上げし、差額をごっそり懐に入れた」という方法でした。
後に追及された資料では、3000両もの水増しが行われ、土山宗次郎はその中から自ら500両もの金額を着服していたとされています 。その巨額不正はもはや隠し通せるレベルではなかったと。
政権交代で“見せしめ処刑”の標的に
田沼意次が失脚し、松平定信が主導する新体制が幕府を掌握すると、土山宗次郎も危機にさらされます。田沼派への“けじめ”として、土山は 1787年に横領罪で捕縛され、死刑 を迎えました 。
なにより衝撃だったのは、身請けした誰袖のことが“幕府の公金を使った奢侈”としても罪状に盛り込まれていた点。「ただの遊女への贅沢」が、国家財政を揺るがす「犯罪」に格上げされ、土山宗次郎の転落を決定的なものにしました。
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誰袖の行方と、土山宗次郎をめぐる“記録の抹消”
土山宗次郎が処刑されたのち、かつて呼び出し花魁として名を馳せた誰袖(たがそで)の名は、記録の表舞台から姿を消します。
華やかな花魁の名が、債権から消える
1784年に身請けされた誰袖は、それまで吉原の番付(債権)にもたびたび名前を連ねていました。しかし、宗次郎の死後、誰袖の名は番付などの公式な記録からは見えなくなります。
番付に名が載ることのなかった花魁がまったく活動していなかったのか、それとも別の名で過ごしたのか――詳細は残されていません。
文人たちの作品にも見られない再登場
身請けされる以前、誰袖は太田南畝や朱楽菅江といった文人たちと交流があり、その名は作品や教化集の中に登場していました。しかし宗次郎の処刑後、それらの文献においても誰袖の名が再び現れることはありません。
詩歌や狂歌に親しんだ教養ある花魁として知られていた誰袖が、文芸の世界からも静かに姿を消していったのです。
その後、誰袖がどこでどのような人生を送ったのかは、今に伝わっていません。かつて吉原の中心にいた才女が、時代の渦の中で記録からも人々の記憶からも消えていった――なんとも悲しい事実ですね…。
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まとめ|“土山宗次郎”が象徴する田沼政権の光と闇
土山宗次郎は、田沼意次の改革を支えた優秀な実務官僚でありながら、やがて“政争の犠牲者”として歴史に名を刻むことになりました。一方で、吉原の花魁・誰袖を総額1,200両で身請けし、彼女を文化人たちの輪の中へ押し上げた“粋人”としての顔も持ち合わせていました。
しかし、天明の大飢饉を背景に起きた公金横領事件、そして田沼政権の崩壊とともに、そのすべては罪に変わります。
土山宗次郎と誰袖の物語は、個人の欲望や愛情を超えて、一つの時代の光と影を映し出しています。
大河ドラマ『べらぼう』が描く「べらぼうな時代」の裏に、こうした実在の人物たちの栄光と転落があったこと。それを知ることで、私たちはただの歴史ではなく、“人間の物語”として江戸を感じることができるのかもしれませんね。
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